1.剃毛プレイ 昼休憩が終わるチャイムが、オフィスに鳴り響く。と同時に、あちこちから聞こえてきた歓談の声はすぼまり、代わりにキーボードのタイピング音やマウスを操作する音が静かに広まっていった。 会社近くのコーヒーショップで買ってきたホットコーヒーを飲みながら、スリープ状態にしていたノートPCを再起動させた。 頬杖をついてメールをチェックする。1件、吉報ともとれる中国語のメールが届いていた。それに目を通したのち、永戸 紅平は利益採算部門から入手した製品別の売上利益率のデータを見ながら、メールの作成画面を開いた。 東京の大手繊維メーカーに運良く転職し、今年で早９年になる。 日本人の父と台湾人の母の間に生まれ、昔から家では中国語か英語を喋って生活していた。お陰で語学力のある営業社員を募集していた今の職場に拾ってもらい、9年のうち2年半は深圳に駐在し、貴重な経験を積ませてもらった。４年ほど前に帰任し、一度は台湾営業課に異動したものの、2年前に元々の所属だった中国営業課に戻り、現在に至る。 仕事内容は、中国支社の営業社員の教育や生産部門への納期督促、利益採算部門との販売単価交渉に現地の営業マンを通じての客先への売り込み活動など、多岐にわたっている。 やりがいは感じるが、今期は担当地域の売上が芳しくなく、マイナス分をどうやって挽回するかについて頭を悩ませていた。 今も現地の営業マンに、競合他社の供給不足によるお助け受注分について、販売単価の値上げを顧客に交渉するよう要請するメールを打っているところだった。 「――大倉さん、かっこいいよね」 ふいに、向かいのデスクからそんな声が聞こえた。同じ課の一般職の女の子が、となりの席で仕事をしている同い年の女性営業社員に、小声で話を振ったのだ。 紅平はパソコンから目を離すことなく、耳をそばだてた。 「うん、すっごくイケメンだよね」 営業の子はうっとりとした声で同意した。「頭も良くて優しいし、王子様みたい」 「分かる。王子様って喩えがぴったり」 「彼女いるのかな？ 聞いたことある？」 「全然。そういう浮いた話、出てこないよね」 「聞いてみる？」 「えっ？ 本人に？ 無理無理、そんなこと訊ねるだけで緊張しちゃうって」 「あはは、それも分かる。でも、あれだけハイスペックなんだし、すごい美人と付き合ってそう」 「あー、想像できちゃうよね」 華やかな声でささめき合う彼女たちの会話に、紅平は笑ってしまいそうになるが、堪えた。落ち着いた表情で、中国語のビジネスメールを作成し続ける。……イケメンで賢くて、優しい王子様。頭の中で呟いてみれば、今度は耐えきれずに口角が上がってしまい、咳払いをするふりをして、手で口を覆った。 「あれ？ 永戸さん、風邪ですか？」 話題を中断し、一般職の子が訊ねてきたので、紅平は苦笑しながらかぶりを振る。 「違うよ、ちょっと気管に唾が入ったみたい……」 「あー、ありますよね。でも、それなら良かったです」 「そう言えば永戸さんは、最近どうなんですかー？」 営業の子が興味津々とばかりに、こちらに目顔を向けてくる。「彼女、できました？」 「残念ながら」 肩をすくめて答えれば、ふたりは揃って訝しむような笑みを浮かべてくる。なんだなんだと苦笑すると、彼女たちは意味ありげな目配せをし、そしてまた紅平を見た。 「でも永戸さん、ここ数ヶ月でまた爽やかになったというか」 「大人の色気が出てきたというか」 「えー、嘘だ」 「嘘じゃないですよー。だからひょっとして、素敵な恋してるんじゃないかなぁって、真希ちゃんと喋ってたんです」 ねー、とふたりは顔を見合わせて言い、それからふふふっと笑うので、紅平はまた苦笑した。……女の子とは、妙に鋭い生き物だ。本当は、付き合っている人がいる。相手とは、何だかんだで3年続いていた。 関係を持ち始めた頃には考えられなかったことだ。すぐに飽きて、離れていくだろうと思っていたのに、相手はずっと紅平を捕えたままだ。これから先のことは分からないが、相手がもういいと言ってくるまでは、捕まったままでいるつもりだった。逃れられないのは分かっているから。 「俺はもう37歳だからね」 「えー、まだまだ大丈夫ですよー」 「そうですよー。だって欧州営業課の平岡課長も、40歳で結婚してたし、男性は歳をとってからの方が魅力的に見えるんですって」 「そうなのかなぁ」 打ち終えたメールを送信し、若いふたりの相手をしていると、ふと視界の端をひとりの男が横ぎっていった。女の子たちが「ひゃっ」と黄色い声を漏らした。 「大倉さんだ」 「外勤だったのかな？ 今日初めて見た」 「ジャケット着てるし、鞄持ってるから多分そう。はー、かっこいい……」 紅平らが所属する中国営業課のシマから対角線上にある米州営業課が、彼の所属だ。ふたりは自らのデスクに座った彼をちらちらと窺いながら、うっとりとした表情を浮かべている。その様子を見て、紅平は人知れずくすりと笑った。 彼は人当たりの良い笑みを浮かべて、同僚と何やら喋っている。 その姿だけを見れば確かに、王子様のようだと言っていいのかも知れない。おとぎ話や少女漫画の中から飛び出してきたような、女性にとっての理想の男性。誰からも好かれ、職場では一目を置かれているエース社員。非の打ち所がない完璧な好青年。 それが、彼だった。 ……演技派だなとつくづく思わされる。会社員なんか辞めて、俳優にでもなればいいのに。 そう言えばまだ、テキストチャットのメッセージに返信していなかったなと思い出し、プライベートのスマートフォンを持って男子トイレへと向かう。返信しないとすぐに不機嫌になるからなぁ、と胸のうちで苦笑しながら、「今夜、会いたい」という相手からのメッセージに対し、ふたつ返事を送った。 その夜は、彼の自宅での逢瀬だった。 いつものようにふたりでシャワーを浴びながら、互いの唇や舌や吐息で戯れ、濡れた素肌に触れていた。熱くてしっとりとしていて、心地よい陶酔にぼうっと浸っていると、ふいに相手の身体が離れた。 何事かと思えば肩を掴まれ、浴槽のへりに座らされる。 紅平は彼を見上げ、首を傾げた。 「……アキ？」 彼――大倉 明文は濡れた髪を掻きあげると、端整な顔に悪ガキのような笑みを混ぜ、コーナーラックから何かを取り出した。それを見て、紅平はぼんやりと訊ねる。 「……剃るの？」 「あぁ」 「どこを？」 「あんたの大事なところ」 えっ、と間抜けな声が飛び出てしまう。ぽかんとしていると、明文の口がへの字に曲がる。 「文句あんの？」 数秒の間を置いて、紅平は苦笑した。「いや、ないよ」と答えれば、相手はまた悪い笑みを浮かべて、目の前に跪いてきた。ボディーソープを手に取り、少しばかり泡だててから、紅平の薄い繁みを泡まみれにする。それから剃刀を手にし、刃をそこにあてがってきた。 じっ、と鈍いのか鋭いのか判然としない音が浴室に響く。じっ、じっ、じっ、と音は続く。ゆっくりと繊細な手つきだった。剃刀に剃られた体毛とボディーソープがまとわりついていき、ぽたりぽたりと重々しく床に落ちていく。紅平はその様子をまるで他人事のようにぼんやりと眺めていた。 ふと、思い出したことがあり、おもむろに口を開いた。 「……今日、ウチの課の女の子が言ってた」 明文は手をとめ、こちらを見上げてくる。 「なにを？」 「大倉さんはかっこよくて頭も良くて優しくて、王子様みたいだって」 明文がはっと鼻で嗤った。 「んなわけねーだろ」 「だよねぇ」 ふふっと笑えば、明文はにたりと意地悪く笑い、紅平の細長い脚を意味深な手つきで撫でた。背筋にぞわぞわとした感覚が這っていき、紅平は身をよじる。 「動くな。怪我しても知らねーぞ」 「……ん」 剃刀が動く。明文の手が太ももを愛撫する。どちらの刺激にも堪えようと身を固くすれば、身体が熱くなり、乱れた吐息が漏れる。その様を見て、明文はさらににやにやと笑っていた。 「声、出してもいいぜ」 「……っ……、君ってほんと……あっ……」 刃が付け根に触れた。その鋭くて冷たい感覚にぞくりと震え、掠れた声がまろびでる。くすぐったいのか、気持ち悪いのか、それとも気持ちいいのか。……よく分からなかったが、肉体は敏感に反応し、萎えていた陰茎が再び芯を持ち始めた。 「感じてんの？」 明文は剃毛と愛撫の手をとめることなく、揶揄するような口調で訊ねてくる。 「あぁ、答えなくてもいい。見れば分かるからな」 「ぁ、っ……ん……っ」 半勃ちのペニスに顔を近づけ、蝋燭の火を消すようにふっと息を吹きかけられる。それだけのことなのに、身体の内側がぼうっと熱を帯びてくる。棹は上向き、ひくひくと痙攣し始めた。 「陰毛剃られて、脚触られて、それだけでこんな風になるんだな」 「……はぁ……っ、アキ……」 「アンタってほんと、いやらしいな」 明文は愉しげに、そして妖しく笑うと、剃刀を床に置き、紅平の下腹部をシャワーで洗い始めた。 今年で付き合って３年になる10歳下の恋人は、確かに顔は良い。幅が広い双眸に筋の通ったかたちの良い鼻梁、見るからに感触の良さそうなふっくらとした唇にきめの細かい白い肌、シャープな顔の輪郭。すべてに恵まれた面立ちだった。 アメリカの大学を優秀な成績で卒業した秀才で、地頭も非常に良く、仕事ぶりも申し分ない。が、性格にかなり難がある。会社では人柄が良くて、女の子からは王子様だなんて言われているが、それらはすべてフィクションだ。 本当の彼は傲岸不遜で、周囲の人間を馬鹿にしきっている上、我が強くプライドが高い。そして、どうしようもないくらいに意地が悪い。 いったい、どんな両親のもとで育ってきたから、こんなに捻ねた男ができてしまったのか。その辺りのことを彼はまったく教えてくれないので推しはかることしかできないが、明かしてくれないということは、決して良くはない家庭環境だったのだろう。 洗い流されたそこは、産毛ひとつ残すことなく、綺麗に剃られていた。 なだらかな素肌があった。青みがかってはいるものの、そこだけを見れば二次性徴前の少年のようだ。けれども勃ちあがった性器は、どこからどう見ても成人男性の色とかたちをしており、剥き出しになった亀頭や包皮が弛んだ茎はグロテスクだった。 その様を明文にまじまじと見つめられる。雄の瞳で、灼かれるような眼差しで視姦される。流石に胸のうちで羞恥心が膨れあがり、太ももがもぞもぞと動いてしまう。 紅平はその光景から目をそらし、唇を噛んだ。が、それを許すまいと明文に顎を掴まれ、「紅平」と低い声で名前を呼ばれた。 「おい、ちゃんと見ろ」 「……恥ずかしいんだけど」 そうは言ったが、明文の命令に従い、自らのちぐはぐな局部を見下ろす。鈴口から露のように先走りが浮き出て滴り落ち、独特の青臭さが鼻腔をついてくる。淡い男の臭いだった。 「エロいな」 明文はうっとりとした表情と熱を孕んだ声で言う。「アンタも、そう思うだろ？」 紅平は曖昧な笑みを落とすことしかできなかった。……こんなの、みっともないだけだ。けれども欧米人は確か、ここの処理をしているんだっけ。剃っていた方が清潔だろうとは思うけど、あるのが当たり前だったから、変な感じだ。 ……けど。 「……んっ、あ……！」 ペニスをやんわりと握られ、もどかしい快感が腰のあたりに広がった。背中をうねらせ、か細い声で喘いでいると、明文は紅平の青白い下腹部にやおら顔を寄せ、柔らかな唇を添わせた。 「……綺麗だ、すごく」 「あっ……アキ……ッ！」 胸が痛く、切なく締めつけられる。紅平は明文の丸っこい頭を撫でた。 彼はお世辞でも性格がいいとは言えない。惚れた欲目が介在できないほどに歪みきっていて、度し難い。 けれども彼は、自分を愛してくれている。 昔の男に手酷くいたぶられ、青黒い痣が至るところに残っている紅平の身体を、いつだって綺麗だと言ってくれる。色んな人間を内心見下して生きているのに、汚くて昏い自分のことだけは対等に見て、受け容れてくれている。37歳のおじさんの自分を、手放さずにいてくれている。 それが、苦しいほどに嬉しかった。 だから自分も、明文を愛している。彼に無遠慮に振り回されてもいいと、心の底から思っている。自分の身体も心もすべて、彼のものでありたいと思っているから、彼の好きにさせているのだ。 自らが剃毛した肌をねっとりと舐めながら、明文は紅平を見上げる。じっとりと蒸れた瞳で両眼を射抜かれると、その目には愉悦が滲んだ。それから、昂り続ける紅平のペニスに舌を這わせた。 甘く、痺れるような快感が濡れた裸体に巡った。紅平は半開きになった口からぽろぽろと嬌声をこぼしながら、明文と妖しく見つめ合う。……この後も引き続き、彼の好きにさせようと思った。そうして、彼から与えられる快感に身を委ねたのだった。