1 / 1

汚れた傷キス

「お疲れ、先あがるからあとはよろしくな」  スーパーの売り場に残る後輩の夜間責任者に声をかけて事務所にあがった。  珍しく深夜の12時を回るより先に就業終了時間を迎えた今日、暗闇に佇むタイムカードを切る。普段であれば1日の終了を示す行動のはずが、腕時計を見つめるとまだ今日という日が3時間も残されている。  「悠矢さん、おつかれさまでーす」 「おつかれ、丸山」  後輩の丸山慧(まるやまけい)は疲労の色を一切見せもせずにニコやかに微笑んでいた。俺、榊悠矢(さかきゆうや)の肩をぽんっと軽く叩き先輩風を吹かす余裕があるくらいだ。年齢上も、経験年数も俺のほうが先輩だというのに一切敬ってもくれやしやい。  親しみやすい先輩になろうと努力をしてはいるがこいつの場合は少し違う。最初から俺を先輩だとは思っていないのだ。ナメられているわけではないのだろうが、先輩に対しての接し方というよりかは親戚のお兄さんみたいな?  仕事用の深緑色のエプロンを取りながらそんなことを考えた。丸山が学生バイトとして入って来て早くも1年。たまに一緒に遊ぶ仲にまでなっていた。  互いにタイムカードを切り終え事務所を出ると店員休憩室の先にある更衣室まで一緒に移動した。21時あがりの従業員は自分たちだけらしい。更衣室内での会話が異様に響き渡る。 「悠矢さんこの後ヒマですか?」 「まーあとは帰って寝るだけだしな、ひまっちゃひまだけど」 「……先輩ん家、遊びに行っちゃダメすかね?」  丸山からの突然の誘い。普段であれば即OKと返事をするが、夜となるとさすがに高校生を連れ回すわけにはいかない。親御さんが心配してしまうだろう。まだ未成年の子どもが親も知っている友人の家ならまだしも、名も知らぬ赤の他人の家に泊まるなど、同性であっても喜ばれたことではない。 「今日はダメだな。なにより明日も学校だろ?」 「あー僕んとこの学校は明日が創立記念日で休みなんです」  そそくさとロッカーにエプロンを押し込み、学校の制服に着替えた丸山はまるで俺の着替えを待っているかのようだった。 「だからといってお前と遊ぶ理由にはならねーよ」 「悠矢さん、明日休みじゃないっすか。後輩の僕を構ってあげてくださいよ」 「意味が分かんねーわ」  丸山は妙に俺に近づいて来る。物理的距離もそうだが、ゆっくりと心にまで潜入をしてくるかのように俺を見つめるのだ。濁りのないきれいな瞳と、何処かこの世を諦めたかなのような寂しそうな目で。  そんな彼は時折強く拒絶したら最期、いとも簡単に消えてしまいそうな脆さを俺に見せつけてくる。  きっとそれが今だ。しかし容易く誘いに乗るわけにはいかない。 「なにより今から遊ぶ時間なんてねーだろ? こんな時間に遊ぶとか、親御さんが心配すんぞ?」  スーツに着替えながら当たり前のことを口にする。いや当たり前だと思っていたのは自分の視野がまだまだ狭かったからだろう。自分の中での当たり前が他人もそうだとは限らないのだ。  俺は丸山の返答を聞いて後悔をした。同時に今日くらいはとも考えてしまう。  人様の家庭の事情なんざ興味もなければ関与するつもりは毛頭ないが、何故か丸山を放っておけなかった。この店で知り合ったのも何かの縁だろう。一人きりで夜の町に放り出すのもかわいそうだ。 「……しょうがねーな。その代わり、今日だけだぞ?」 「今日だけでいいんす……ほんとありがとうございます! 悠矢さん」 「お前……素直にお礼とか言えんだな」 「なっ! 当たり前ですよ、僕をなんだと思ってるんす?」 「うーん、感謝も口にできないガキ?」 「失礼ですねー、ほんと」  そう言いながらも微笑む丸山は心なしか嬉しそうに見えた。  こんな先輩を頼りにしなくてはいけない家庭環境。両親を亡くし、女遊びの激しい叔父と暮らしてると聞くと、今まで何の問題も諍いもなく平凡な人生を送ってきた俺からすると想像ができなかった。  ただ与えられてきた幸せをそのまま飲み込み生かされてきたが、最終的には全てを投げ出し好き勝手生きはじめていた俺は、丸山のように苦労をして育ってきた環境の話を聞くことはできても今から経験することは叶わない。きっとこれからは適当に生き、苦労もろくにせずに人生を全うするのだろう。  親によって敷かれたレールをひたすら歩き、ふとした瞬間に全てを投げ打った自分が改めて辛く厳しい道を歩き出すとは思いもしない。 「でも……ありがたいです、悠矢さん」 「バ、ッカ……もういいっての」  人から礼を言わせる人生なんてものを考えてもいなかった。仕事中に礼を言われるがそればかりはカウントしていない。大概の人は口にするし、しないのはちょっと変わった人らだ。他人との関わりでお礼を言うのはとても重要で、意味があるということは充分に理解をしていたが普段の生活で言い慣れてはいても、言われ慣れてはいない。  自分が礼を言われていい立場なのだろうか? と考え、答えが出ないまま新しい両親と出会ったのだ。そして弟と呼ばれる存在とも出会い温かい暮らしがはじまった。しかし実の両親との記憶は俺の闇そのもの。垣間見えることがあってはならない。 「悠矢さん……どうか、しましたか?」 「いーんや、なんでもねーよ」 「そう……ですか?」 「ったく、本当になんでもねーって! ジュースの一本でも奢ってやるから、飲みながら俺ん家に行くか!」 「はいっ!」  店休に設置された自販機でふたり分のドリンクを購入する。丸山に手渡すと本日2度目の丸山からのお礼に気が狂ってしまいそうになった。  自分よりも優位に立っているであろう男からのお礼など、一度過去の片鱗を思い出してしまった俺にとっては毒でしかない。一種の優しさが俺の首をジリジリと締め上げていく感覚だった。  冷えたドリンクが実に心地いい。ゆっくりと現実世界に引き戻してくれる。尻ポケットの中で振動したスマートフォンに気が付けるようになるほど、やっと帰ってこれた。恐怖の対象が消えたこの世界に。  ポケットから取り出したスマートフォンに目を落とした。何の顔文字も絵文字もなく、見栄えなど考えていない連絡。誰からのものかは一目瞭然だ。  仕事の連絡でない私事のメールにも関わらずわざわざ本文欄に名前を明記するような男は、俺の周りには一人しかいない。 「よかったなー、弟が友だちの家に泊まりに行くってよ。下手に猫かぶんなくて済むじゃん、丸山」 「悠矢さんに弟さんが!?」  スーパーの裏手へと繋がる階段を下りながら織り成す丸山との会話に悔しさを覚える。  弟キャラだとでも言いたいのか? と疑念を抱きつつも、丸山らしい毒のある返答に少し安堵した。寂しそうな瞳ではなくなり普段通りの丸山だ。 「え、悠矢さんに弟さんがいたんすか? 意外だ……しっかりとされたお兄さんがいるイメージだったのに……弟さん、かぁ……」 「お前は俺がしっかりしてないように見えるとでも言いたいのか?」 「そうとも言えますかね」 「そう言うなよ!」  無駄にテンポのいい会話に腹を立たせながらも、言い終えた頃には笑みがこぼれていた。  丸山を見ていると、たまに嫌な気持ちになりはするが気が付けば頬が緩んでいることのほうが多い。同時に丸山には辛く苦しそうに表情を歪ませて欲しくはないとさえ願ってしまう。俺の前で笑っていて欲しいなどと考えてしまった。  ──何考えてんだ、俺は。  「……でも、羨ましいや」 「丸山?」  階段を降りきり、裏口へと着いた途端に丸山が俺のほうへと向き直った。 「僕兄弟がいないんで……兄ちゃんとか弟とか……憧れるんすよね」  手元にないものを無我夢中で拾い集める子どもではない。何かを得ようとすることを諦めてしまっているように見えて仕方がない丸山の微かな笑み。  俺には扉を開ける余裕もなかった。にじり寄る彼を拒み切れずにただ吸い寄せられるように丸山の腕のなかに収まってしまう。  搬入口を映す監視カメラには俺を抱き締める丸山の背中が映っていることだろう。  自分よりも大きな身体に抱き締められながら冷静にそんなことを考えてみた。ここまで誰かに必要とされたことはない。俺を包む丸山の腕は僅かに震え感情を堪えているようにも感じる。 「おい、丸山? お前、どうした」  鼻をすする音が聞こえてきた。 「あっ……ごめん、なさい。でもちょっとだけ……ほんの少しだけでいいんです、こう…してちゃ……ダメですか?」  声が上擦っているようにも聞こえる。 「別に、いい、けど……」  突き放すような真似はできなかった。 「ありがとう……ございます」  人からの感謝の言葉にこんなにも胸が満ちあふれたことはない。 「丸山……?」  丸山はゆっくりと深呼吸を繰り返す。  そんな彼を前にしてどうした? と聞くつもりはなかった。 「……もう少し、こうしてるか? どうせ他の従業員は売り場から戻ってくることもないだろうしな」  他人の事情に関与するつもりはない。  ただ己の思うがままに距離を詰めようとしてくる丸山だからこそ、時折遊ぶ程度の関係まででよかったはずなのだ。  震える体を抱き締めてやる必要もなかっただろう。 「まる、やま……?」  ゆっくりと離れていく丸山の体。  向き合う形にまで距離を置いた彼は目尻を濡らし、微笑んでいる。 「意外と……年上らしいとこもあるんすね、悠矢さんも」  少ししてから呟いた言葉の節々に、喜びが見え隠れしていることに気がついた。 「ありがとうございました! もう……大丈夫です」  丸山からのお礼など今日何度目だろうか。 「悠矢さん……本当にありがとう」  唇さえ奪われる感謝など俺は知らない。 「……お前、今……何を?」 「僕は今、あなたにキスをしました」 「……どうして?」  優しく触れ合った唇の感触もはじめての感覚だ。 「僕は……あなたのことが好きだからですよ。悠矢さん」  丸山の言葉に一度静かに空気を飲んだ。  俺には知らないことだらけだった。  不意に内臓がせりあがり全てをぶちまけたくなってしまうほど、今にも自分が自分でなくなってしまいそうだ。体中に悪寒が走って仕方がない。 「……すまん、お前の気持ちは多分……嬉しい…でも、ごめんな……丸山」 「悠矢さん!?」 「ううっ…っ、ぐっぅ……ぁぁ、っ…」  体の中が無作為に締め付けられて中身が逆流する。  お昼に食べたものも、空気と合わせて飲み込んだだけの唾液さえもが、胃液と一緒に溢れでてしまいそうだった。  俺を呼び止める丸山の声などもう十分には聞こえてこない。慌てて両手で口を押さえ込みながら、たった今降りてきたはずの階段を一目散に駆け上がった。  全てを吐き出してしまいたかった。重たく黒い箱に閉じ込めていたはずの記憶。二度と思い出すつもりのなかった男との生活など抹消できたらよかったのだ。 「悠矢さん! 待って、悠矢さん!」  明かりを付ける余裕もない。ただ店員休憩室に駆け込んで、俺は水場に全てをぶちまけた。  逆流した胃液の酸っぱさが口内に広がる。そして過去への嫌悪感と、丸山の前で醜態を晒し更には彼を傷付けてしまったであろう悲しみに打ちひしがれるばかりだ。 「……悠矢……さん?」  後を追いかけてきたのか勢いよく扉が開かれた。  彼の瞳に映るのは口端から雫をこぼし、今にもここではない何処かへ旅立とうとしている俺の姿。  もう忘れたつもりでいた。思い出すつもりもなかった。消してしまいたかった己の過去が唐突にこの身を覆い尽くした。瞬間的に体のバランスを取れずに倒れ込む。 「…すまん、お前は……なにもっ…くっ……わるく、な、い……から」  この後に及んで丸山の心配、か。ありえない。今の俺はどうかしている。 「悠矢さん! 今、水を!」  体の震えが止まらない。気色悪いあの男の感覚が全身を這うようだ。この身に刻み込まれた実の父の熱が今になって思い返される。  はじめての口付けは父。舌を噛み千切られるんじゃないかとさえ錯覚してしまうほどの荒々しいものだった。今までにない感覚と怖ろしさに涙も止まらず、未だに唇を塞がれるだけであの日の絶望がこの身を覆う。 「僕の声が! 聞こえてますか!」  泣きじゃくる幼い俺の抵抗は虚しく、父は熱く滾る肉棒を無理矢理小さな躰に捩じ込んできた。身体が引き裂かれてしまうのではないかと感じるほどの痛みと、狂気を孕んだ実父の悦びに浸る呻き声が頭の中を駆け巡った。  どのくらいの時間俺とその男が繋がっていたかどうかなんて分からない。十分、二十分とそいつと過ごしていくうちに終わることのない拷問なのだと幼いながらも思い至った。単なる泣き声が悲鳴に変わり、いつしか声を上げることさえも止めてしまった。男は俺の反応などどうでもよかったのだ。ただその身に生じた熱い昂ぶりを治めるために子供を利用した。子供でないと治めることができなかったから。 「悠矢さん!」  性欲に塗れた汚らしい野獣がこの身を襲っているのだと思えば、まだ心を保つことができてしまった。この男は実の親でもなければ人間でもない。理性なき獣なのだ。声を聞き入れることも言葉が通じるはずもない。  毎夜のように楔を打ち込まれ、気が付けば抗うことも泣き叫ぶことも暗闇の中で光を求めることさえも止めた。  この場から逃げることはできない。俺は延々と獣の熱を注ぎ込まれるだけの存在なのだ。 「誰かを呼んでこないと……!」  昼は周囲にいい親、できた子供だと見せ付けているようだった。  若くして起業し、類稀なる才能と人心掌握術で富と名声を手に入れた祖父の財力しか引き継げなかった父は俺に英才教育を施し、自分の代で消失させてしまった富を今一度得ようと躍起だったのだろう。  なんとか失わずに済んだお金を俺の将来のためにと用いては、人生を棒に振らず、金のなる木とするために踏み外し難いレールを敷いた。二言目には両親揃って「悠矢のためだ」「お前が……あなたが……お祖父様のようになるためだ」などといい、結局は両親が苦労も何もせず豪遊をしたかっただけなのだろう。  幼少期から友人たちと呼べる存在と子どもらしく遊んだことがなかった俺が、小学2年生にもなりはじめて親に意見をし「みんなと遊びたい」と言った日の夜だ。ただ友人と遊びたかった、それだけだったのに。  野獣が俺を襲ったのだ。 「悠矢さん! 待ってて下さいね! 僕が、誰かを──」  それまで両親は何かと我慢をしていたのだろう。俺を祖父のような人間にし富を得るために全身全霊をかけていたのだ。周囲の人間に振りまいていた見栄さえもが爆発し、男は獣と化し、女は一度その男にも止められないほど喚いた。そしてその日を境に別の男を作り出て行ったらしい。  男は昼夜異なる顔を持ったまま、親の顔をした獣として俺を使役した。事あるごとに男は俺に言うのだ。 『お前は俺自身のために生かしているだけだ。生かされてること、俺への感謝を忘れるなよ』  首の骨が軋む。意識が遠退いていくなか俺は男に抱かれ続けた。 「……は、やと……はや、と……お、おれ……」  最早自分が何者かも分からない。 「悠矢さん!」 「…ぁ……は、……や…と……?」 「悠矢さん! 僕です! 僕は丸山慧です!」 「……ま、る…や……ま……?」  痛みさえもがなかった。痛覚など忘れてしまった。 「お、……ま、え…は……わ、るく……な…っ」  目を開いているのかどうかさえ分からない。  暗闇の淵に立たされ行く宛もなくただ意識を手放した。けれど深い闇の中を彷徨うのはこれが初めてではない。  今まで幾度となく彷徨いその度に失ったはずの光を求めていた。 「……ゆ、うや……」  掴み直すことのできない輝き。もう二度と降り注ぐはずのない光。 「……ゆう、や…さ、ん!」  堕ちたはずの俺に指し伸ばしてくれる手のひら。 「…ぁ……ぁれ………ぉれ…は……?」  いつの間にか閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。  少しずつ差し込む光はとても眩しく無意識のうちに目を細めてしまう。 「……ま、る……や…ま……なんで……な……いて」  着実に明らかになっていく姿。嗚咽を漏らし、涙をぼろぼろとこぼす丸山ははじめて見た。 「…こ、こは……どこ…?」  周囲を見渡せはしなかった。差し込む光だけでは判断ができないが柔らかな感触と、手のひらにじんと伝わる温もりが確かにそこにはある。 「悠矢さん! よかった……よかった! 僕すごく心配で……っ!」  かと思えば視界は再び闇に覆われてしまった。しかし恐怖はない。どくんどくんと温かな胸の音が響き渡る。  久しぶりに感じた人の優しい温もりだった。 「ぉ、ぉぃ……ま、る…やま……く、苦しい…よ……」 「あっ……ご、ごめんなさい!」  改めて降り注がれる光の粒子に俺は小さく息を漏らした。  過去から逃れられないまま閉じ込められてしまったのかと思った。封じ込めていたはずの弟ら家族と出会う前、実の両親との記憶に強く苛まれていたのだ。昔のことだと割り切ることができない。  何年経とうが変わることなく心を蝕み続ける。  解放されることはないだろう。だがその都度助けてくれる人たちがいる。 「あり、が──」 「悠矢、オレに礼はいらんからな」 「え……?」  思いもよらない言葉に大きく瞬きをした。 「もし、かして……はや、と…?」 「このガキからいきなり電話があってな。お前が倒れたって言われてよ。何事かと思って職場まで飛んでみたら……コイツ、話を聞きゃあオレと同じことをしでかしたみたいでな」  体に力を込めて起き上がろうにも丸山に静止されてしまった。  それに気が付いてかゆっくりと近づいて来る男を俺は知っている。 「よっ、久しぶりだな。悠矢」  俺や丸山よりも一回り大きな体躯。低く力強い声。そして意外にも優しく何度も俺を救ってくれた男。 「隼人……うん、ひさし、ぶり…」  数ヶ月ぶりに再会した男は無精髭を蓄えていた。  乱雑そうに見えて実は繊細なこの男は俺の頭をゆっくりと撫で、安堵の溜息を漏らした。 「お前が引っ越してなくてよかったわ。じゃなきやスーパーで夜を過ごすところだったからな」 「……えっ?」 「お前、覚えてねーのか?」 「いや……覚えてなくては…ない、けど……」  記憶の糸を何重にも辿れば思い出せる。丸山との会話、行為、──そして唇の感触。 「…うっ……」 「バカ、無理すんな」 「……ごめん…でも、……これじゃあ、丸山が…!」  かわいそうだ、とでも言うつもりだったのだろうか。  涙を流す彼を前にして、改めて責めているように感じ取られてしまう可能性だってあるのに。 「…悠矢さん、僕は……大丈夫ですから。それに謝らなくちゃいけないのは……僕のほうですし」  真っ赤に泣き腫らした瞳。 「悠矢さんが遊佐さんの名前……隼人と口に出してくれて助かりました。でないと僕は……なにもできなかった。僕があなたを追い詰めてしまったのに……それなのに、悠矢さんに謝られてしまったら……僕は…」  嗚咽を堪え涙ながらに発する言葉。 「……僕が…悠矢さんを傷付けてしまった……本当にごめんなさい」  今まで見たことがないほど大量の涙をこぼす丸山に俺は何も言ってあげられなかった。 「悠矢……俺はもう帰るぞ」 「い、いや……遊佐さんが残って下さい。…僕が、帰りますから……」  ゆっくりと立ち上がった丸山の足元を、今込められるだけの力を込めて掴んだ。 「…まる、やま? それじゃあ今度は……お前が!」  お前が辛い目に遭うだろう。そう言ってやるのが俺の役目とさえ思ってしまった。  隼人からしたらどっちもどっちかもしれない。それでも俺はわざわざ危険な場所に丸山を送り出すことができない。  叔父の元に女がいればまだいい。おらず酒に塗れていたとしたら丸山までもがその身を奪われてしまいかねない。 「行くなよ……丸山。俺ん家、泊まってくんだろ?」  隼人には笑われてしまうかもしれない。さっきまで気絶してた奴が他の男の心配をしている余裕はないと笑われ、終いには呆れられてしまうだろう。  それでも俺はどうしてか丸山を放っておくことができなかった。  ここで彼の手を離してしまったら、もう二度と顔を合わせられないような気がしたのだ。 「俺はもう……平気、だから、な?」 「悠矢さん……!」 「丸山、だっけ? コイツは意外と強情だー、言うことは聞いといたほうがいい。じゃねーと地の底まで追ってくる」 「いや……さすがにそこまではしないと思うけど……多分」  断言できないのがまた怖いところだ。 「なぁ、頼むよ。俺のためだと思ってくれてもいい、俺は……お前を失いたくない、だから泊まってってくれ」  一人になったらまた思い出してしまう可能性がある。  暗闇に投げ込まれてしまったら、その場にいるはずのない狂気に冒された男の夢を見てしまうことだろう。 「お願いだよ、丸山」 「……悠矢、さん……」 「まっ、泊まってけって。また何かあったらオレを呼んでくれて構わんから。こいつのためならいつでも飛んできてやる」 「わ、わかり……ました」  渋々了承した雰囲気の丸山は店内にいた最中ほどの覇気はない。  相当気にしているのだろう。自分のせいではないかと疑い、責めている。昔の隼人のように。 「それじゃあ……よろしくお願いします、悠矢さん」 「あぁ、こちらこそよろしく丸山」  キリがいいのを見計らってか、隼人がバイバイと言いたげに手を振り出て行った。  きっと彼なりに気を遣ってくれたのだろう。いくら昔交際をしてたとはいえ今は友人という枠に戻ったのだ。時折心配だからと連絡を寄越してはくれるが、それ以上のことはしない。無論今回のような非常時は別だが、普段はただ互いに近況を話すだけ。  もしかしたら勘付いたのかもしれない。俺が異様に丸山を気にかけていることを。 「丸山……頼みたいことがあるんだが、いいか?」 「はっ、はい!」 「手だけでいい、握っててくれないか?」  実父に手を握られた記憶はない。幼少期の頃から手を繋ぎ何処かへ出かけたことがないからかこれだけは平気だった。  こうでもしないと丸山が勝手に出て行ってしまいそうな気がしたというのもあるけれど、俺の中に眠る恐怖が少しずつ減少していくのではないかと願ってしまう。 「本当は俺がソファーで寝てやるべきなんだろうけど……今日はその、一人で眠るのが……怖いんだ。だから……」 「分かりました。それじゃあ……僕はできるだけベッドの端に寄ります。でも手は繋いで……こんな感じなら大丈夫ですか?」  ベッドの端と端に横になりながら手だけを繋ぐ。仰向けでは何者かに覆われてしまいそうな怖ろしさと、俯せでは臀部が上になるからかつい思い出してしまう。横向きであれば──。 「うん、大丈夫そうだ。ありがとう、丸山」  感謝の言葉に偽りはなければ、幼い頃から示され続けた変な認識もなくなってきている。生きるために使用する言葉ではない。  ただ素直な感謝を告げるのための言葉。 「……それなら…よかった」  しかし丸山の気持ちに現状答えることはできない。たった今、丸山には非情な我慢を虐げている可能性があるということは自負している。  好意を寄せている相手と同じベッドで眠るのだ、一般的にも次へと繋がる日になることだろう。  だがまだ答えられそうにはない。  俺はまだ丸山の手のひらに温もりと僅かな力を込めるだけで精一杯なのだ。 「丸山」  いつの間にかまぶたをおろしていた丸山が聞いているかは分からない。 「もう少しだけ……待っててくれ」  小さく頷いたように見えたのは気のせいかもしれない。 「いつか……お前のことを」  確定的ではないけれど。  丸山慧のことをちゃんと好きになる日が来るまで待っててくれないか。 「……なんて、な……おやすみ、丸山」 (おわり。)

ともだちにシェアしよう!