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霧の向こう
「今の仕事、辞めよう思うてる」
10月12日金曜日の朝、7時前のことだ。三ツ井 邦孝はソファーの上で胡座をかき、朝の報道番組を見ながらテレビに向かって、「嘘やん、半導体にまで関税かけられたん? まぁたガイドライン変えなアカンやん」と独り言のような愚痴のようなものを飛ばしつつ、酸味を感じるコーヒーを啜っているところだった。
背後から緩急のない声で言われ、虚を突かれた。振り向くと、白のストライプが入った紺色のネクタイを手早く締めていた彼がソファーのへりに腰かけ、こちらを見ていた。視線がかちりと合う。……こうやって目と目を合わすのも、何だか久しぶりだとぼんやりと思った。
……いや、待ってくれ。そうじゃない。
「……今、何て言うた?」
邦孝が眉をひそめれば、彼―行平 麻琴は淡々とした表情を変えることなく、言った。
「仕事を辞めよう思うてる。カナダに移住したい」
「……は?」
「お前も一緒に来い」
思考がミッション車よろしくエンストを起こした。テレビの音だけがしばらく流れたのち、ゆっくりとエンジンをかけた邦孝は、目の前のテーブルにマグカップを置き、こめかみに指を添えた。
「……ごめん、いきなり何なん?」
「その言葉通りやけど」
「いや、待って……意味が分からん、どういうこと……」
「悪い、もう家出なアカンわ」
麻琴は依然平かな口調でそう言い、ダイニングテーブルの椅子に置いたジャケットとフェリージの革製鞄を手にし、リビングを出て行こうとする。邦孝は慌てた。
「麻琴、ちょっと待―」
「今夜はなるべくはよ帰る。その時にゆっくり話しよう。行ってくるわ」
引き留めるこちらの声をさらりとかわし、麻琴は部屋を出て行った。固まる邦孝をよそに、玄関のドアの開閉音が聞こえる。……まるで吹き抜ける風のようだった。実体がないため、掴むことのできないそれだった。
何なんだ、アイツは? 本当に人間なのか?
邦孝は文字通り、頭を抱えた。……いったい全体、何があったから、アイツはあんなことを言ったのか。非常に混乱し、動揺していた。
テレビは某国間の貿易摩擦のニュースから、財務相が消費税増税を検討しているという話題に移っていたが、もはやどうでもいい。付き合って今年で14年目になる恋人のような、そうでないような相手の唐突な発言が頭のなかを占め、それ以外、何も考えられなくなっていた。
麻琴は昔から突拍子もない奴だった。
ふたりの生まれは京都市で、府内随一の進学校である中高一貫の男子校に通っていた。麻琴と邦孝は、定期試験で毎度のように1、2の成績を争い、ふたり揃って現役で東京大学に合格後、都内でルームシェアを開始し、それが現在にも至っている。
麻琴と普通の仲の良い友人から恋人関係になったのも、彼からの突拍子もない告白がきっかけだった。
あれは、高校に進学し、ふたり揃って文系の特進クラスに籍を置いて、しばらく経った頃だ。
「お前が好きや」
京都は白川にある麻琴の自宅で、中間試験の勉強に励んでいる最中だった。整理整頓が行き届き、やましい本の類いが一切見当たらない年頃の少年らしからぬ麻琴のひとり部屋で、何の脈絡もなくそんなことを言われ、邦孝はシャープペンシルを鼻の頭にあてながら石のように固まってしまった。
今でもはっきりと覚えている。家には彼と自分のふたりしかおらず、他愛のない話を時折しながら、古文の問題集を解いていた。麻琴からの唐突な告白を受け、数秒の間、時間と思考という概念を喪失していた邦孝は、錆びついた鉄扉を抉じ開けるが如く、口を開いた。
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