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アマルフィ
汚れひとつない大きなガラス戸を開け、ウッド調のバルコニーへと出る。夏を名残惜しく思うような空気が肌に触れ、かすかな物寂しさを感じながら、ポール・スコットはバスローブ姿でフェンスの前までゆっくりと歩いていった。
夜が明けて間もなかった。ロンドンであれば、見渡す限り濃い霧が広がり、街の様相が不明瞭な時間帯だが、この海辺の街はそうではない。視界は良好で、澄みきっている。水平線から顔を覗かせる朝日は、まろやかな光をまとっており、透明感のある紺碧の海を煌めかせていた。
その景色をバロック風のフェンスにもたれて、ぼうっと眺め始める。
イタリア南部のソレント半島南岸の街、アマルフィ。峻険たるアマルフィ海岸に面するサレルノ湾を、間近で見渡せる場所に建っているのが、このホテルだった。
アマルフィで迎える初めての朝に、ポールの心は弾んでいた。
南イタリアを旅行するのは、生まれて初めてだ。ロンドンのヒースロー空港からナポリ・カポディキーノ国際空港まで飛び、そこから列車とフェリーを乗り継いで、この歴史ある都市に訪れたのが昨日。交通の便が良いとは言えず、半日以上かけてようやく到着した時、ポールはへとへとになりながら、キャリーバッグを引きずっていた。
けれども、この海と街並みを目にした瞬間、疲れは一気に吹き飛んだ。
地中海を囲わんばかりに、思いきりのよい曲線を描く海岸線、西洋とアラブの建築様式が入り混じる街並み、丘に広がるレモン畑の爽やかな色。鼓膜を優しく撫でる心地の良い波音と凪いだ海、さらさらと髪の毛を揺らす潮風、そのすべてに、ポールは息を呑んだ。
美しい、という言葉しか出てこない自らの陳腐な頭を恨みたくなった。自分が目にしている景色を表現するための言葉が、この世に無数に存在するはずなのに、まったくと言っていいほど浮かんでこない。甘美な放心状態だったのだろう。そばにいた夫に腰を抱かれ、ホテルへ行こうと促されてやっと、我に返ったほどだった。
ポールと夫が住むグレートブリテン島にもリゾート地と呼ばれる場所はある。温暖な気候に、解放感のある海辺の街並み、真っ青な海や自然は、宝のようだと言ってもいい。
アマルフィはブライトンとは違った趣きがある。それは、これまで感じたことのないものだった。
……一目惚れなんて、35年間生きてきてこれが初めてだ。そう口にすれば、「なんだか妬けるね」と笑い声が返ってきた。夫はけれども、上機嫌だった。
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