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これが今の僕にとっての幸福なのだと
「あっついなぁ……」
パタパタと手のひらで風を送りながらぼやいて、恨めしげに空を見上げる。雲ひとつない晴天、無風。太陽の熱を吸ったアスファルトは、信号待ちで立ち止まった靴の底からジワジワと足の裏を炙ってきて、ふへぇ、とだらしない溜め息が零れた。
早く日陰に入らないと干からびそうだなとぼんやり思いながら視線を転じた先に、目指す建物が見えてきて口元がほっこりと緩んだのが分かる。
信号が変わって一歩踏み出した足取りは、ようやく軽くなったようだ。
大学1年目にほとんどの単位を取り零してしまったがために、4年目の今年になっても必修科目のテストが残っていた自分にとって、前期末のテストはまさしく卒業のかかった重要な局面だった。
颯真の方は順調に単位を取っていたようだし、申し訳ないながらも勉強に集中したいと告げて会えなかった3週間は、自業自得とはいえ長かった。
(やっと会える……)
暑さに負けていた気力が息を吹き返して、軽くなった足が待ちきれずに駆け出す。
今日家に行くことは、颯真には伝えていない。ビックリさせてやろう、なんていうちょっとしたイタズラ心が疼いたのだ。
顔を合わせたらどんなリアクションをするんだろう──そんな風に思い巡らせるだけで唇が緩んでしまう。
鼻唄でも歌い出しそうなほどに浮かれた気分で、彼の部屋の扉を開ける。
「……ただいまぁ……」
そっと放ったものの、返事はない。バイトか学校かは分からないけれど、家は無人のようだ。
カーテンの開いた窓から散々日光を取り込んだらしい家の中は、ゲンナリするほどに蒸し暑い。モソモソと靴を脱いだら、まずは換気、と窓に飛び付いた。キッチンの換気扇も回してとにかくアツアツの空気を逃したら、ようやくクーラーのスイッチを入れる。
ゴウゴウ音を立てて空気が冷やされていくのを肌で感じながら、ばふん、と勢いよくベッドに飛び込んだ。颯真の匂いに包まれて、大きく息を吸おうとしたのに
「~~っ、くしゅんっ、くしゅっ」
布団から埃でも舞い上がったのか、くしゃみを連発するハメになってトホホと体を起こした。まだ鼻がムズムズしている。
「んもぉ……」
ズルズルになった鼻を拝借したティッシュでかんで、ゴミ箱の蓋を何気なく開けた時だ
「──ッ」
部屋の中がアツアツに蒸されていたせいもあって、余計に強い匂いに襲われた。鼻通りがよくなったことも、相乗したと思う。
「これ……」
男なら誰しも覚えのある匂いだ。男同士だからこそ気づいた匂いだと言ってもいいかもしれない。
心臓がバクンと大きな音を立てる。その後も鳴り止むことなくバクバクと早鐘が打ち続けられてクラクラした。
颯真が一人でシていた痕跡を見つけるのは、颯真と付き合うようになって初めてのことだ。
別にそれを咎めるつもりなど全くない。
ただ、颯真が一人でシなければならないほど焦がれていたということに興奮を強いられたとでも言えばいいだろうか。
自分だって同じようにオアズケを喰らっていた身としては、こんな風にあからさまに欲情の名残を突き付けられたら我慢できるわけないじゃないか、とほんの少し恨めしく思ってしまったというのが正しい気がする。
ティッシュをゴミ箱に投げ入れる手が動揺に震えたけれど、ゴミがちゃんとゴミ箱に収まってくれたのを見守って蓋をした。
気付かなかったフリを装って、このまま颯真を待とう。
そう決めて、むくむくと込み上げてくる熱を無理やり抑え付けて深呼吸してみる。
「──、……ッ」
ゴミ箱を開けていた時間が長かったからなのか、それとも脳にインプットされてしまったのか。深呼吸で吸い込んだ空気の中に、颯真の匂いを嗅ぎとってしまった。
「そ、うまの……バカ……ッ!」
なんで隠しといてくれないんだよと、八つ当たり気味に呻くしかない。
熱を帯びたそこは、一度解放してやらなくてはどうしようもなさそうだ。興奮と後ろめたさに震える手で、ズボンの前を躊躇いながら寛げる。
3週間の間一度も構ってやらなかったそこは、たかだか匂いに反応しただけにしては熱すぎるほどに熱を帯びていた。
3週間ぶりの逢瀬に期待していた自分の心を暴かれたみたいで居たたまれない。
「ンッ……ふ、ぅ……」
下着の上から撫で擦るだけで、吐息と声が零れた。
恋人の家で、恋人のいない間に自分で自分を慰めるだなんて。変態じみているような、申し訳ないような──言葉に出来ない複雑な心からとりあえず目を逸らして、下着の中に手を入れる。常にない熱さのそれに、恥ずかしくて身が縮こまる気がしたタイミングだった。
カチャ、という音に弾かれたように顔を上げたら玄関のドアが開いて、咄嗟に下着の中から手を引っこ抜く。
「あれっ? 司!?」
ただいまも言わずに家の中に入って玄関にオレの靴が置いてあることに気づいた颯真は、驚きすぎて何も言えないオレに向かって猛突進してくる。
「司ぁ~」
「ぅわぁ!?」
嬉しそうに笑った颯真が大型犬のごとく駆けてきて、勢いのままに押し倒された。
「司だぁ」
「ちょっ……颯真っ」
「つかさぁ」
「落ち着いてって、颯真!」
汗ばんだ顔で仔犬みたいにスリスリと擦り寄られて戸惑う。純粋に会えた喜びを爆発させている颯真とは裏腹に、いつ寛げたズボンに気づかれるかと思うと気が気じゃなくて、困った顔のままでされるがままになるしかない。
「どしたの、テストは?」
「今日終わったから……」
「言っといてくれれば良かったのに。今日、この後バイト入れちゃった……」
「そっか、ごめん」
「泊まってけるんでしょ? 待ってて、速攻終わらせて帰ってくるし」
ぎゅうぎゅう抱き締めてくる腕と甘えるように埋められた顔に、ほだされたようにソロソロと手を伸ばして頭を撫でてみる。ふにゃん、と嬉しそうに緩んだ顔をした颯真は、へへ、と照れ臭そうに笑って低い声を耳に注ぎ込んできた。
「──だからさ、ちょっと待っててね」
「ンッ」
声だけでは飽きたらずに、ぺろり、とオレの耳を舐めた颯真がいつもの顔して笑って、ふわりとそこを撫でる。
「ちゃんと、オレが、気持ちよくしたげるから」
「っ、ちがっ」
「違わないよ?」
「んぁっ……っ、や、ぁ……」
「だってもう、こんなじゃん。オレのベッドで、こんなにしちゃったんでしょ?」
「ちがっ!」
にこり、と笑う颯真の顔は、ほんの少し意地悪に歪んでいる。
「ぁ……だって颯真が……」
「オレが?」
「颯真が……」
「何?」
「…………颯真が、先にシてたんじゃん……」
「へ?」
意地悪顔をキョトンと傾ける颯真から少しだけ目をそらしながら、もにょもにょと言い訳じみた文句を呟いてみる。
「……あんなの……我慢出来なくなるに決まってる……」
「あんなの?」
「…………ゴミ箱の中」
「ぇ?」
「……におい、したもん……」
「におい……? ……っ、いやっ、あれはそのっ」
今度は颯真があたふたする番らしい、と思ったのに、颯真は意外と素早く立ち直って──開き直った。
「だってしょうがないじゃん、司のこと考えてたらシたくなっちゃったんだもん。今日会えるって分かってたら、一人で淋しくシなかったのに」
「っ」
形勢逆転だと思ったのに、あっさりあからさまな台詞で返り討ちされて、結局またオレの顔がボンッと熱くなった。
「ね、だから……待ってて。8時までだから、半には帰ってくるよ」
優しい顔が迫ってきて唇を優しく啄まれたら、頷くしかなかった。
「……待ってる……」
*****
速攻終わらせて帰ってくるの宣言通り、颯真はほとんど予告通り8時半に息を切らせて帰って来た。
帰ってくるなりぎゅうぎゅう抱き締められて、啄むようなキスで燻っていた欲にまんまと火をつけられたら、晩御飯を食べる暇もシャワーで汗を流す暇さえ与えてもらえないまま、ベッドに押し倒されて目を白黒させるしかない。
「ちょっ、と颯真! ごはんは!?」
「むり」
「無理って何!?」
「もうこれ以上、1秒も我慢できない」
悲鳴みたいな声で聞いたオレの質問に、返って来た颯真の声は低くて呻くみたいで──背筋がザワザワした。
「司しかいらない」
「んぅッ」
真っ直ぐ見つめて放たれた言葉に、昇り詰めそうになった。
危うい所で踏みとどまったものの、繰り返されるキスの嵐にもう決壊寸前だ。
「んぁ……っ、そ、ぉま」
「3週間なんて、長過ぎだよ……」
「ん、ふッ、……っ、ぁ」
触れられてもいないのに、イキたくない。
なのに唇が気持ち良くて、突き刺さりそうなほど真っ直ぐな想いに煽られてムズムズと腰が揺れる。
「そぉま……ッ」
すがるつもりで伸ばした手を、取った颯真が食べた。
「そっ」
這う舌にゾワゾワ追い詰められて涙目で見上げた先で、颯真が舌を見せびらかすように動かして指先を舐めあげる。
「や、ぁ……ッ」
「今夜はもう、手加減できないから」
「そ、ぅッ」
「だから司」
「な、ッに」
するり、と。手のひらが熱を撫でた。
「一回、楽になっていいよ」
「ぃやッ、やぁぁっ」
颯真の低くて意地悪な言葉 に導かれて、たかだかひと撫でされただけでとぷとぷと溢 れた熱が下着を汚したら、まるで海で溺れたみたいに息が出来なくなるほどの快感が沸き上がってくるのが恐くて、颯真の首にしがみついた。
*****
ぱちり、と唐突に目が開いた。寝起きの悪い自分にしては珍しく、スッキリと目が開いたように思う。
モゾモゾと手を動かして、枕元に置いてあったスマホのディスプレイを点けると時刻は深夜の2時前だった。寝入ってから恐らく1時間くらいしか経っていないはずだ。
短いながらも深い眠りになったのは、飽きもせずに互いを貪りあった時間の濃密さのせいだろうかと寝起きの頭でぼんやり考えていたら、睦みあった時間に交わしたあれやこれやの会話や、自分の晒した醜態までもが芋づる式に思い返されて顔が熱くなる。頭を抱えてそこら中をゴロゴロ転げ回りたいような心情ではあるものの、腰に緩く回されている颯真の腕を感じて踏みとどまった。
そうこうする内に暗かった室内に目が慣れてきたのか、隣で満ち足りたような顔でスヤスヤと眠る颯真の顔がハッキリと見えるようになってきた。
起きている時は羨ましいくらいに整った顔をしている颯真の寝顔は、相変わらず妙に幼くて可愛い。しかも、久しぶりに顔を会わせて肌を合わせたことも影響しているのだろう幸せそうに綻んだ柔らかい寝顔は、羞恥に震えていたはずのこちらの心までふわふわと柔らかくしてくれるから悔しいような気もするのに、結局はただただ照れ臭くなるから複雑だ。
照れ臭さと悔しさとがいっしょくたになると、妙なイタズラ心が疼くらしい。むむん、と唇を尖らせて唸りながら、颯真の前髪をふしゃふしゃと掻き回してみる。んぅ? と唸った颯真は、だけど起きはしないままオレのウエストに巻き付けていた腕に力を込めて、モゾモゾとオレの胸に顔を埋めてきた。首に当たる颯真の髪の毛がくすぐったくて、くふふ、と堪えきれずに笑いながら、ほんの少し体を逸らして髪の毛から逃れた。
幸せだなぁと、何の脈絡もなく声が出た。不意に心が強烈な幸福感に満たされて、ぽろりと口から零れ出たみたいな、溢 れんばかりの幸福感だった。
ほんの少し前──いや、もう年単位で前なのだと気付いて時間の流れの速さに愕然としながら、颯真と出会う前の自分が「今」を知ったらどう思うんだろうと考えたら、少しだけ居心地が悪い。
あの頃は、こんな風に溢 れた幸せを噛み締められる日が来るなんて思いもしなければ、噛み締めるなど論外だとさえ思っていたのだ。自分が幸せになるなど、どの面下げて誰に謝ればいいのだと戦きながら、伸ばされる救いの手を闇雲にはね除けていたというのに。
暖かくてまぁるい幸せは、全部颯真が与えてくれた。優しくてほんの少し窮屈な安らぎも、全部颯真がくれた。罪悪感すら丸ごと包んでオレの全部を受け入れてくれた颯真は、オレなんかが笑っただけでふにゃふにゃに蕩けた幸せそうな顔をしてくれる。
泣いたり笑ったり、時には拗ねたりいじけたりしながら颯真が全身全霊で守ってくれたことが、オレを強くしてくれて、全身全霊で颯真を守りたいと強く願う勇気をくれた。
満たされた寝顔で眠る颯真のつむじに、首だけ動かしてそっと唇を寄せる。
「だいすき」
そっと囁いた声を颯真が聞いていたことなんて知らないオレは、再来した睡魔に身を任せながら、ゆるゆると颯真を抱き締めた。ぬいぐるみを抱く小さな子供のようだと思ったけれど、満たされていく心地よさの前ではどうでもいいことだ。
眠りに落ちる寸前──
「オレもだいすきだよ」
耳に届いた優しいその声が、夢か現実かの区別もつかないままに幸せな眠りに落ちていった。
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