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第4話

那智が間近に立った瞬間、仁科の喉が唾を飲み込んだのかゴクリと音を鳴らす。 「…そんなに緊張されると、さすがにやりづらいんだけど」 思わず苦笑した那智の言葉にハッと我に返った仁科は、浅く腰を掛けていたスツールから飛び降りるように床に下り立った。 「す、すみません!…まさか…、まさかアナタが来るとは思っていなかったので」 「うん、まぁ、通常ならね」 軽い口調で答えると、すぐさま仁科に横のスツールを勧められた。 それを断る理由もなく、むしろなんの為にここへ来たのかを考えれば、落ち着いて話ができることは喜ばしい。勧められるままにそこへ座った。 そして京平はというと、上品なグレードの高い番犬さながらに、那智の背後を守るかのごとく後ろに立った。 相変わらずの二人の関係性を見た仁科は、京平をチラリと見た後に那智へ視線を戻すと楽しそうに笑いながら「京平さんはやっぱり京平さんですね」、思わずといった口調でそう呟く。 確かにそれ以外言いようのない状況に、さすがの那智も笑いをこぼしてしまった。 「…それにしても、完全に警戒されてるな」 仁科の知り合いらしいとわかった所で、先ほどまでのあからさまな敵意は無くなったものの、いまだ周囲からは受け入れがたい空気が漂ってきている。 おおかた、自分たちのテリトリーに見知らぬ人間がいる事が気に入らないのだろう。もしくは、憧憬の対象である京平と共にいる事で、妬みなどの感情なども混じっているのかもしれない。 そんな空気をしっかりと感じ取っていた仁科は、自分もスツールに浅く座りなおすと困ったように溜息を吐いた。 「すみません。…でも、正体をばらすのは、あまりお勧めできませんから」 その仁科の言葉に、言われた本人ではなく背後に立つ人物が反応を示した。狂犬の血が垣間見えるような眼差しで仁科を見据えている。 『もし正体をばらそうものなら噛み殺す』 切れ長の瞳がそう言っているようだ。 仁科の肩がビクリと揺れたのを見て、那智が背後を振り返った。 「京平。やめろ」 その一言で、瞳に宿る赤が消え、緩んだ。あきらかにわかる見事な変化に、仁科が詰めていた息を吐きだす。 「…さすがですね」 尊敬の眼差しを注がれた那智は、僅かに苦笑いを浮かべた後にその表情を引き締め、先程までとはうって変わった笑みの無い眼差しを向けて口を開いた。 「…前置きは省いて早速用件に入らせてもらうけど、いいかな?」 「は、はい」 突然変わった那智の気配に、さすがの仁科も背筋を正す。 普段は優等生的雰囲気を醸し出している那智も、いつもの雰囲気を一掃して気配を研ぎ澄ますと、その凄みは一気に増す。だてにBlue RoseのNo.2の位置にいるわけで無い事が窺い知れる姿。 「この前、闇のメンバーにうちのメンバーがやられたらしいね」 そう言った瞬間、仁科の表情が剣呑に歪んだ。どうやら相当頭にきているらしい。グッと噛みしめたこめかみが盛り上がった。 「…まさかアイツらがあんな卑怯な真似をするとは思ってなかったんで、がっかりしました」 視線を逸らし、舌打ち混じりにそう言う仁科の声が、低く暗いものになる。 しかし、仁科のその気持ちもよくわかる。 陽が落ちたか落ちないかのギリギリの時間。表高楼街なのか裏高楼街なのか、判断が曖昧になる頃合い。西の空にはまだ朱が残り、だが東の空はもう紺へと移り変わっている、 『逢魔が時』 その時間を狙って、まだメンバーと合流していない少数の人間を見つけ出して多人数で囲み、押さえつけ、抵抗できなくなるまで容赦なく拳を振るう。 裏高楼街に属する派閥には、いわゆる“掟”と呼ばれるものが存在する。 その中のひとつに、 ・裏高楼街の出来事を表高楼街に持ち込むことを禁ずる というものがある。 この掟に接触しないよう、表裏が曖昧となる逢魔が時は、対派閥の接触を避けるのが暗黙のルール。 掟に反するかどうかの曖昧な時間帯を狙うのは、恥知らずな卑怯者だけだ。 今までのMoonlessにはありえない行動。だからこそ、那智が動く事になった。 「俺がここに来たのは、その当事者と話がしたかったからなんだけど…、今会えるかな」 「…え…」 思わぬ言葉だったのか、それまで渋い表情をしていた仁科の顔が途端に間の抜けたものになる。まさか那智が下のメンバーと直接話をしようだなんて、予想もしていなかったのだろう。 そのフリーズした様子に、那智はついつい笑いそうになってしまったけれど、仁科の気持ちを汲んでこらえた。 「ちょっと引っかかる事があってね。その時の話を詳しく聞きたいんだ。神も宗司さんも了承済みだ」 「あっ…、はい!もちろん大丈夫です!」 那智の口からでた二人の人物の名前に、仁科の動きがギクシャクしたものになる。これにはもう可笑しさを抑えられず、さすがに正面きって笑う事はしなかったものの、顔を俯き横に逸らしてひっそりと笑ってしまった。 そんな那智の様子に気づいた京平は、ただただ微笑ましく見守るばかり。 そうこうしている内に仁科が背後を振り返り、誰かに呼びかけた。 「修二、ちょっと来い」 耳に入ったその名前に僅かに反応を示したのは、那智ではなく京平だった。確かその名前は、ここに入った時、那智に対していちばん敵意と警戒をむき出しにしていた相手のものではなかっただろうか…。 那智もそれには気付いていたが、顔にはなんの表情も浮かんでいない。 そして、仁科に呼ばれて歩み寄ってきたのは、やはり予想通りさっきの生意気な赤髪少年だった。下唇にあるシルバーのピアスが、少年の生意気さを更に強調させている。 「…なんっすか、仁科さん」 いまだに不満を露にしている修二に、仁科の眉が顰められた。 「お前、その態度いい加減にしろよ」 その言葉で更にふてくされた修二は、チッと舌打ちをして顔を逸らす。 これにはさすがの那智も苦笑いだ。ここまで正面きって嫌われるのも珍しいな…と、まるで他人事のように見てしまう。もちろん、一瞬チラリと背後を振り返り、視線のみで京平を抑える事も忘れない。 「すみません。コイツにはアナタの正体をバラしても大丈夫だと俺が保証するので、いいですか?」 申し訳なさそうに言う仁科に、構わないよと頷き返した那智は、実はこの後の修二の反応を密かに楽しみにしていた。 さっきまでの警戒心むき出しの態度がどう変わるのか…。 仁科が人差し指で修二を間近に呼び寄せ、周囲に聞こえないようにその耳元でボソボソと言葉を紡いでいくと、それが進むにつれて修二の顔がみるみる青くなっていくのがわかった。 予想以上の反応に、那智と京平が気の毒さを覚えるくらい、まるでリトマス試験紙のように赤くなって青くなって…。 そして仁科が離れると、修二の眼はマジマジと那智を凝視してきた。 「…そんな化け物でも見るようにされると、ちょっと、ね…」 まるで出会ってはいけないものに出会ってしまったかのような修二の反応に、京平ですら微かに笑い声を零している。 「あ、悪い…、じゃなくて、スミマセン」 ハッと我に返ったのか、ようやく修二の顔にまともな表情が戻ってきた。 それを見てとった仁科はスツールから下り立ち、那智の隣であるそこに修二を座らせる。 「覚えている限りの事をしっかりと話せよ」 「わかった」 修二のしっかりとした返事を聞いた仁科は、「俺、あっちの方にいますので」と、壁際のソファを示してから会釈して歩き去って行った。 残ったのは那智と京平と修二の3人。さっきよりも大分まともになったとはいえ、やはり修二からは緊張の色が抜けない。 しょうがないか…と、彼の立場も考えて納得した那智は、早々に例の襲撃事件の話に移った。 「…で、その時に、目くらましの為に用意されてたみたいで…、明るい強烈な光を当てられて…、」 「視界が戻らないうちにボコられた…というわけか」 「…面目ないです…。でもアイツら、こっちが光で目をやられた後に、更に人数が増えたみたいなんすよ」 その時の事を思い出したのか、最後に短く舌打ちをした修二は、まだ子供らしさを残しているその顔を悔しさで歪めた。 那智がチラリと京平に視線を向けると、小さく頷き返される。その用意周到さから、間違いなく確信犯だと京平も判断したようだ。詳しく話を聞くまでは、偶然そうなったのかもしれない…とも考えていたのだが、甘かった。 視線を修二に戻した那智は、双眸を鋭くさせ、最後の質問を口にした。 「そして、自分達はMoonlessだと…、闇の人間だと名乗ったんだな?」 「名乗ったっていうか…、『お前らゼロなんて、俺達闇の敵じゃねぇんだよ』って捨て台詞を吐かれて…」 「…闇の敵じゃない…」 那智の視線が修二から外れ、少しだけ遠くに向けられる。 Blue RoseとMoonlessがアングラの双璧と言われるようになってから、結構な時が経つ。互いの力量を同等だと、なめてかかる事は出来ないとわかっているからこそ、バランスを崩さないようにやってきた。 それなのに今さらMoonlessの人間がうちのメンバーに向かって『闇の敵じゃない』なんてセリフを言うはずがない。 …という事は、やはり…。 自分の中で一つの答えを導き出した那智は、ゆったりとした動作でスツールから下り立った。 「行きますか?」 「あぁ。…でも京平はここで他の奴にも詳しく話を聞いておいてくれるかな。話す奴が変わればまた別の気付いた事が出るかもしれない」 「イヤです」 「…京平…」 真顔で即答する京平に、思わず脱力してしまった那智。 危険な匂いが漂い始めている今回の件。一人で行動させたくないと、京平の目が痛いくらいに訴えかけてくる。 気持ちはわかるが、実際問題そうもいかない。それに、京平に過保護にされるほど弱くもない。 冗談まじりに、子供のお遣いじゃないんだから一人でも平気だ、そう言おうと口を開きかけた時、修二がこのやりとりをジーッと見つめている事に気がついて言葉を止めた。 下の人間の前でする会話じゃない、な…。 「…修二。悪いけど、京平を連れて他に被害にあった奴の所へ話を聞きに行ってくれないか?俺は別の所へ行く用事ができたから頼みたいんだけど」 修二の目をジッと見つめて頼み込むと、何故か顔を真っ赤にさせて勢いよくブンブンと何度も大きく頷き返された。 「俺に任せて下さい!」 …さっきまでの態度とは大違いだな。 思わず笑った那智の肩を、後ろから誰かがグッと掴んだ。見なくてもわかる、京平だ。 那智の決定が気に入らないのだろう。だが、今回はそれを聞いてやる事はできない。 事は急を要する。このまま時間を延ばせば延ばすほどBlue RoseとMoonlessの間に軋轢が生じるばかりか、そうなればアングラ界の均衡自体が崩れる危険性がある。 「京平、俺の事を信用しないつもりか?」 振り向きざまに若干厳しい口調でそう問うと、肩を掴んでいた手のチカラが弱くなった。 「…すみません、そういうつもりではなかったんですけど…」 眉を寄せ、苦渋に満ちた顔でそう呟いた京平は、そのすぐ後に「わかりました。従います」と小さく頷いた。 それを見て、ようやく安堵の息を吐く那智。 京平は淡々としているように見えて、自分がこうだと思った事はテコでも曲げない頑固者だ。ここでも同じように意見を曲げてくれなかったらどうしようかと内心で困っていたが、これでどうにか動く事ができる。 肩から離された京平の腕を軽くポンっと叩いてから、扉に向かって歩き出した。 途中、ソファに座っていた仁科が立ち上がって頭を下げている事に気が付き、それに片手を上げて軽く挨拶を返してから外に出た。

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