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第1部 ふるる ~プロローグ/近づく嵐~

 初恋はいつだったか、利人(りひと)は覚えていない。  子供の頃は友達と馬鹿やって遊んでばかりいた。異性に対して甘酸っぱい恋心を抱いた事もあったかもしれない。けれどぼんやりとしたそれは、友達や妹と遊んでいるうちにいつの間にか消え去ってしまう程曖昧なものだったのだ。  だから恋愛というものに初めて触れたのは中学二年生の時だ。可愛いと評判の隣のクラスの女子に告白されたのが切っ掛けだった。  彼女と話した事はないが、好きだと言われて悪い気はしない。可愛い子ならば尚更だ。初めての事に戸惑いはしたが断る理由もなく、気がついたら頷いていた。  ふわふわと浮ついた気持ちで帰宅すると妹に気持ち悪いと訝しがられショックを覚えるも、電話で友人に報告すると驚きの声と共に「羨ましい」「おめでとうこの野郎」と妬まれながらも祝いの言葉に良い気分になっていた。完全に浮かれていたのだ。恋人という存在に然程の興味を抱いていなかった利人だが、いざ彼女が出来たとなると年相応にテンションもあがる。  けれどそれも一時的なもので、落ち着いてみると疑問が湧いてくる。こうして交際はスタートしたが、困った事に何をすれば良いのか分からなかったのだ。  休み時間に時折やってくる彼女と話したり誘われて映画を観に行ったりする以外はいつもと変わらない日々を過ごす。彼女の事は可愛いと思っていたし、一緒にいる事も嫌ではなかったからそれで良いと思っていた。けれど、どうやらそれは間違いだったらしい。  利人には中学一年生からの付き合いで親しい女友達の羽月(はづき)がいる。妹が羽月に懐いている為に羽月が家に遊びに来る事も三人で出かける事もあり、それは恋人が出来てからも変わらなかった。  羽月は遠慮し控えようとしたが、利人には何故恋人がいるからといって交友関係を制限しなければならないのか分からなかった。妹は羽月に懐きながらも二人で遊ぶ事には抵抗があるのか間に利人がいる事を望む。そんな妹の為にも羽月との関係は壊したくなかった。  けれどそれが彼女の逆鱗に触れる事となる。何故自分という恋人がいるのに他の女と会おうとするのかと詰め寄られ、怒りついでに不平不満がぼろぼろと出てきた。何でそっちから会いに来ないの。何で他の子と遊ぶの。あの子とは話さないで。女は私とだけ話して。  溢れ出る言葉の数々に利人は圧倒された。彼女は男にちやほやされる事に慣れていたのだ。だから自分が付き合ってほしいと言えば相手は嬉しい筈、何事も自分を一番に優先するものだと思っている。  そして彼女の不満の矛先は羽月へと向かった。彼女の羽月への嫌がらせを知った利人は彼女をたしなめ、つい手を出してしまった。軽い平手打ちだったが、それでも彼女のプライドを傷つけるのには十分だった。 『あんたなんかもういらない。嫌いよ。あんたみたいなつまんない男、誰も好きにならないわ』  怒りと羞恥で目を真っ赤にした彼女がそう吐き散らかすと、翌日彼女の友人だと言う男子数人に呼び出され殴られ蹴られの暴行を受けた。応酬はそれだけではなく、よく女に暴力を振るうだのキレやすいだの、派手に脚色され尾ひれのついた噂が一週間と経たない内に学校中に広まった。  利人自身は地味な方だが彼女が学校内のちょっとした有名人だった為学年問わず注目の的となったのだ。中には酷い噂もあり、自然と利人の周囲から人は離れていった。  けれど羽月を含む数少ない親しい友人は利人を信じていたし、信憑性のない噂は時の流れと共に止んでいった。彼女の我儘な性格が露見されるようになると周囲の利人への視線は憐れみへと変わりさえした。  彼女の事を恨んではいない。変わらず接してくれる友人はいたし、自分が彼女の理想に見合わなかっただけだ。彼女は自意識が高く傲慢で幼稚だったが、利人もまた子供だったのだ。恋愛らしい恋愛を経験した事のない利人には荷が重すぎただけの仕方のない結果だった。  けれど、それ以来利人の中で恋愛は面倒だという認識が強くなった。  女性を怖がっているわけではない。けれど、色んな女性と関わりを持っても特別な気持ちを抱く事はなかった。興味が沸かないのだ。誰かに好意を寄せられても、以前の時のようなときめきめいたものは感じない。  それはたまたまだと思っていた。たまたま、好きになる人がいなかった。たまたま、意識が向かなかった。  結局のところ囚われているのだ。彼女の言葉に。  つまらない男。良い恋人にはなれない。  本当にそうだと思う。彼女の事だって、結局浮かれていただけで好きだったとは言えない。  今思うと、誰かを好きになる自信がなかったのかもしれない。無意識に壁をつくってしまうから友人以上の関係を築けない。いや、友人以外の関係を求めていなかった。  だから他人のそういう気持ちに疎い。  自分の気持ちにすら。  これは、その代償なのだろうか。    *** 「利人さん」  重い空から雨がさらさらと降り注ぐ。先程まで強く地面を打ち鳴らしていた雨は小粒のものへと変わっていた。そして降り続ける細い雨の中、その声ははっきりと利人の耳へと届く。  薄ら暗い空の下、学生服に身を包んだ少年が傘も差さずにひとりで立っている。松葉色の学生服は雨を含んでずっしりと重ったるい色へと変わり、まるで真っ黒な服を着ているように見えた。  ぴかりと空が光る。驚いて傘を落とすと、直後ごろごろと空が大きく唸った。体温の下がった白く大きな腕に引き寄せられ抱き締められる。ざああ、と大粒の雨が二人を襲った。 「利人さん」  消え入りそうな声が耳元に響く。ざあざあと身体を強く打ちつける雨のように彼の激しい熱情が降り注がれる。抱き締められる腕の強さに利人は戸惑い、何かが胸に引っ掛かるのを感じた。 「お願いです。抱かせて、くれませんか」  少し掠れた彼の声は熱い。  身体は雨に晒され冷えていくのに、胸の中心、奥深くに小さな熱が灯っているのを感じた。 (ああ……)  気づかないようにしていたのかもしれない。  そんな事は有り得ないと思っていた。  けれどそれは、  つまり、それは。 「夕。俺、は」  ゆるゆると首を横に振る。利人の腕をしっかりと掴み逃げ出す事を許さないその瞳は真っ直ぐに利人を見ていた。  濡れた睫毛の下、凛としたその黒曜石の瞳にぎくりと瞳を震わせる。  あまりに純粋過ぎるその視線から逃げたいのに、逃れる事が出来ない。 「利人さん」  もう一度刻みつけるように名を呼ばれ、ひゅっと喉が鳴った。  いつもより低いその声に利人はまた首を振る。 「どうして俺なんだ、夕。何で、俺は……」  その続きは聞きたくないと言わんばかりに唇を塞がれる。冷たい雨と共に熱く甘ったるい舌に口腔を舐られる。  熱い。  胸が苦しい。  初めての恋とも呼べる感情に気づいた時にはもう手遅れで、気づくと同時にその感情は行き場を失い迷子になってしまった。  途方に暮れた感情は甘い囁きを拒めない。  抗うのは辛いから、その場限りの安らぎを求めてしまう。  後に後悔する事になると分かっていても、その温もりを振り払う事は出来なかった。  それ程にこの心は冷え切ってしまっている。  だから容易く飲み込まれるのだ。  優しく、あまりにも悲しい激情に。  嵐が、近づいていた。

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