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挨拶からはじまる恋

「おはようございます。元気ですか?」 「お疲れ様です。元気ですか?」 「出張に行ってたんですか? 久しぶりですね、元気ですか?」  顔を合わせるたびに、かけられるワンパターンの言葉。 (毎度毎度、俺の元気度を測ってどうするんだか――)  仕事に余裕があるときや、体調がいいときに限って簡単にやり過ごせるその挨拶は、いつしかメンタルの上下を知るためのバロメーターになっていた。 「いつも言ってるだろ、元気だって。他のヤツにもそういう声がけをして、何を探ってるんだか」 「他の人にはしてません。する必要がないですし」 「は?」  あっけらかんとした感じで答えられたせいで、まともな返事ができなかった。 「そうですね。お互い別の部署にいるから、仕事の話をしたくても無理そうだし、近寄りがたいオーラがある人に話しかけるきっかけが、どうしても思いつかなくて」 「近寄りがたいオーラなんて、出してるつもりはない」 「思いっきり出してますよ。今も眉間に皺を寄せて、おっかない雰囲気を醸してます」 「む……」  新入社員のくせして、見るからに仕立ての良さそうなスーツを身に着け、銀縁眼鏡の奥から覗く瞳が、面白いものを見るように細められた。その余裕のある態度が、実に気にいらない。 「先輩は僕に訊ねてくれないですよね、元気かって」 「必要なしと判断しているからな」  顔を見ただけで、元気なのが分かりすぎる。 「訊ねてくれたら、そこから会話が生まれるのに。いつでもいいので、訊ねてくれませんか?」 「そういう営業は、客としてくれ。俺は忙しいんだ」  ひらひらと右手を振りながら、素っ気なく背中を向ける。いつもこのパターンで、くだらないやり取りを終えていた。本日のメンタルは、どうやら調子がいいらしい。  歩き出して右手を降ろしかけた刹那、手首を掴まれる。その手から伝わってくる体温は、あきらかにおかしいと感じさせるものだった。 「おいおまえ、熱があるんじゃないのか?」  コイツは、熱があるのを隠していた――ひとえに心配してほしくて「元気かって」訊ねてほしかったとは。不器用にもほどがあるだろ。  慌てて振り返り、背の高いアイツを見上げる。窓から差し込む光のせいでレンズが反射し、見慣れたまなざしを見ることができない。だからこそ、よく観察してみる。頬に若干の赤みがあるように見受けられた。 「今だけ限定で、熱が出てます」  何でもないと言わんばかりに、へらっと笑いながら告げるセリフに、眉根を寄せてしまった。 「ふざけたことを言うな。もっと自分を大事にしろよ」 「あと何回「元気ですか?」って訊ねたら、僕のことを気にしてくれますか?」 「気にする、だと?」  自分にかまってほしい言葉にしてはおかしなものだという、妙な引っかかりを覚えた。 「先輩のことが好きなんです!」  告げられた瞬間、掴まれている手首が、痛いくらいに握りしめられた。痛みの原因に視線を落としてから、苦情を述べるべく顔を上げると、大きな影が俺を覆い隠す。 『好きとか、わけのわからないことを言ってないで、この手を放せ!』  そう文句を言いたかったのに、熱くて柔らかい唇によって、自分の唇を塞がれてしまった。  背筋がぞわっと粟立つ勢いをそのままに、左手が反射的にアイツの頬を叩く。  パーンと廊下に響く音が、平手打ちの強度を示していた。振りかぶった手のひらが、痺れるように痛む。 「あ……」  頬を叩かれたアイツは、目を見開いたまま固まる。  俺は急いで周囲を見渡し、さっきのことが見られていないかをチェックしてから、新入社員の襟首を掴み、傍にある【空き】と表示されている会議室に引っ張り込んだ。 「おい、いきなり何をしやがる、この馬鹿野郎!! あんなの誰かに見られたら、ふたりそろって変な目で見られるだぞ」 「すみません。手首を掴んだら、その逞しさにムラッとしてしまい、理性が抑えきれなくなりました」  痛む頬を擦りつつ、心底すまなそうに謝ってきたのに、告げられたセリフの途中からおぞましいものになったせいで、じわじわと後退せざるを得ない状況に変わった。

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