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夜中に家を抜け出した。絶対に逃げ出せないと思っていたそこは、思いの外簡単に手放せるものだった。けほりと咳き込むと喉が痛んだ。明らかに先ほどの“躾”が原因だろう。もはや慣れすら感じる慢性的な頭痛に額を押さえる。ずりり、路地の汚れた壁に背中を凭れさせ座りこむ。体力ももう限界だった。気のせいか胸の奥から何かがせりあがってくる感覚がする。痛む喉を押さえつつため息を吐く。吐いた息は空中で白く溶けた。
今は十一月の末、つまり冬だ。今年は例年より気温が低くなるのが早く、既に真冬並みの寒さだった。
空を仰ぐと月が煌々と輝いていた。降り積もる雪にもその光がうっすらと落ちている。今夜は満月だ。綺麗、と呟き笑う。自分からまさかそんな言葉が出てくるとは。暫くそんな言葉を吐いた記憶がない。思い起こそうと試みるも、終いにはここ数年の記憶全てをおぼろに感じる始末だ。自分が毎日何を感じ、何をしているか。思い出されたのは他人事のように感じられるものばかりで。まるで夢の中に溺れていたようだと自嘲する。
否、今外にいることの方が現実ではないのかもしれない。それ程月は美しく、また夜中に外を出歩く自分というのは現実味のないものだった。外気に触れている頬はひやりと冷たい。それだけがこれが現実である確かな証だ。
ぼんやりと何をするでもなく佇んでいると、近くの方で悲鳴が聞こえた。続いて怒声、殴打音が聞こえる。びくり、身を縮ませる。もしかして追ってきたのだろうか。物陰に隠れながら音の正体を見にいく。
そろり、窺う。予期した人はいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。鈍い音は相変わらず続いていたが、俺の知るところではない。何ともなしにその様子を眺めていると、殴られた仲間を庇うその人と目が合った。知らない人間だ。どこでどんな目に遭おうが興味などない。ふっと視線を逸らす。罵声が聞こえた。それに紛れて小さく縋る声が微かに耳に届いた。
「──助けてくれ!」
瞬間、勝手に足が動いた。興味などないはずだった。勝手に喧嘩をしておけばいいと。確かにそう思っていたはずなのに。
助けを求めた男の前に飛び込む。男の驚いたような目が俺の視線に絡みつく。月の明かりが男の顔を照らしていた。
男に向けられた拳の軌道を逸らし、首に蹴りこむ。当たり所が悪かったのか襲撃者はそのまま昏倒した。
「……ありが、とう」
たどたどしい礼に振り返る。
黒いパーカーに、艶やかな黒髪。整った顔にはいくらか傷ができていた。男の後ろにはうつ伏せになって潰れている人影がいくつかあった。先ほど庇っていたことから察するに、おそらくこの男の仲間だろう。
「……別に」
痛めている喉からは掠れた声が漏れた。俺の声に男の眉がぴくりと跳ねる。
「風邪か? 無理して話さなくていい」
気遣わし気に見やる視線をじっと見返す。何も知らないくせに知ったような顔をされるのが鬱陶しかった。
「うるせぇな。ほっとけ」
「なんだよ、そういう言い方ねぇだろ」
ムッとした顔で言い返してくる男に沈黙を返す。妙な気分だった。これじゃあまるで友人同士のやり取りだ。自分に似つかわしくもないものを思い浮かべぞっとする。やっぱりこれは夢だったのかもしれない。先ほどから変なことばっかりだ。そもそも俺はこいつを助ける気なんて微塵もなかったはずなのに。
ちらり、男を見るとやけに照れた表情でこちらに視線を返してくる。何なんだ、この男。男は俺の視線の意味にも気付くことなく、どことなく嬉しそうに手を出してくる。殴られた拍子に地面で擦ったのだろうか。その手には小さな傷こそできていたがそれ以外はさかむけ一つない綺麗なものだった。
「俺、夏目久志っていうんだ。なぁ、お前の名前は?」
「……俺……?」
不意に投げられた問いに言葉が詰まる。ぐるぐると頭が渦を巻く。それに流されるようにして俺の体は僅かに傾いだ。
「──俺の、俺の名前は」
自分を呼ぶ声に目を開ける。手は何者かが握っていた。
「赤ッ」
「……青?」
やけに重たく感じる頭をのろりと持ち上げ、声の主を見る。青は焦ったような顔をして俺の手に縋っていた。
「……おはよう?」
「おは、よう」
へにゃり、青は困ったような顔をして笑う。そもそもなんで青が俺の部屋にいるんだ。不思議に思い辺りを見るとどうもここは俺の部屋ではないらしかった。
「由」
「……一秀、ここは」
「Coloredのガキどものバーだ。アジト?だっけ」
「おっさん今ちょっとバカにしたでしょ股間のくせに」
「そうだそうだ! 股間のくせに!」
股間ってなんだよ。
一秀が知らぬ間にメンバーと仲良くなっていることに困惑するが、取り敢えず現状は把握できた。どうやらここはビードロであるらしい。なんでここで寝てんだ俺。
「由がどうしても集会に出たいって駄々捏ねるから俺が頑張って連れてきました」
わざと茶化して一秀が教えてくれる。どうしよう、全く覚えがない。
「ありがとう、一秀」
「どーいたしまして」
にっこりと笑い一秀が俺の頭を撫でる。一拍後、パンという軽い音と共にその手は叩き落とされる。
「痛ってぇなァ、クソガキが」
「はぁ?? 赤の頭に触れるのは誰であろうと許さない」
橙が俺の前に立ち一秀を睨みつける。一秀は大人げなく眉を吊り上げ獰猛に笑った。
「おうおうテメェのことはよく知ってんぞコノヤロー」
「執事のくせに品がないね? 椎名の名前におっさんのせいで傷がついたりしてない?」
「おやおやそれは失礼いたしました。クソガキ様のことはこちらでもよく存じ上げてますので気が荒ぶってしまいました。不徳の成すところです。ところで由さまのストーキングをされているのはあなた様でお間違いないですか?」
ビキビキとこめかみに青筋を立てながら怒る一秀と、更に煽りにかかる橙。場は一瞬にして緊張状態になっていた。馬鹿げた展開に気疲れを感じる。ため息を吐こうとするも、何かが気管に入り咳き込む。途端に先程まで怒りを露わにしていたはずの一秀が駆けつけ背中を撫でる。もういい、と首を振ってみせると、正しく察した一秀はぴたりと横に控えた。
「……気に喰わない」
「勝手にしろ」
今の出来事で冷静になったのだろう。一秀は橙の言葉を鼻で笑うだけだった。
「赤。必ず俺の方が役に立ってみせるから」
「お前一体何を目指してるんだよ……」
呆れてため息を吐く。橙はそんな俺の様子に構うことなく額に手を沿わせてくる。
「微熱だね」
「俺の微熱と平熱の違いが分かるお前が怖い」
「慣れかな」
「……お前俺の知らん間に変なことしてないよな?」
「してないと思うけど。……一応どこからが変なことに含まれるか聞いてもいい?」
すごく不穏だ。というかこの反応、何かしらはしてるだろ。絶対してるだろ。こわ。え、こわ。
悪寒にふるりと身を震わせると、青が手を解きブランケットを被せてくる。先程までずっと手を繋いでいたことに今更ながら気付く。
「赤。寒くない?」
「冬じゃねぇし別にそこまで」
言った後でくすりと笑う。先程まで見ていた夢のことを思い出した。もうどんな内容だったかは忘れてしまったけれど、寒くて、温かい夢だったことは覚えている。
「赤、眠い?」
「んー……」
そっと手に触れる感覚に、するりと指を絡める。手の熱に、眠気がとろりと訪れた。
「おやすみ、赤」
おやすみ、それを言ったのは夢か、現か。
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