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 じり、甲斐がこちらに一歩寄る。俺は一定の間隔を取れるよう一歩後ろに下がる。 「おぉ、警戒するようになったんだ? 嫌われたもんだ」 「お前のことなんか端から嫌いだわ」  ハッと笑いながら言うと、甲斐は不愉快そうに顔を歪める。 「あの時殺しとけばよかった」  剥き出しの悪意に、ひっそりと息を呑む。甲斐はそんな俺の様子に気付いたのか、心なしか嬉しそうな顔をした。 「あぁ、そうそう。その顔。由のその顔は嫌いじゃない」  そのまま俺だけを見てくれたら。気味の悪い願望に口を緩ませながら、甲斐はまた一歩、俺に歩み寄る。 「……寄るな」 「怖い? ほんと、堪らないなぁ」  また、一歩。甲斐は着実に俺に近づいてくる。 「ねぇ、」  ──思い出させて、あげようか。  甲斐は俺の後頭部を雑に掴み、引き寄せる。生暖かい感触。口内には覚えのある、柔らかな熱。クニュクニュと蠢くそれを、俺は容赦なく噛む。 「ッ、た!」  甲斐は俺を乱暴に振り払う。目は苛立ちを訴えていた。ぺっ、と口の中に溜まった唾液を吐き捨てる。唾液にはわずかに血が混じっていた。 「腹立つなぁ……。こんなに反抗的になったのは、桜楠学園に行ったからかな……?」  やはり、という思いが湧き上がる。 「修二に妙なこと言ったの、お前だろ」  言うと甲斐はきょとんとした顔でこちらを見やる。 「修二……?」 「うちの執事だよ。一年の」 「……あぁ、あの情報管理ゆるっゆるな子ね」  思い出した、というようにポンと手を打つ甲斐に、俺は内心舌打ちをする。こいつの挙動一つ一つが気に食わなかった。苛立ちを紛らわせるように、地面を靴でならす。ざり、と土の擦れる音に息を吐く。 「カマかけたらあっさり情報吐くんだもん。椎名も案外大したことないね、由」 「さっきから気になってたんだがその呼び方なんだ? 前は椎名くんだったろ」  やれやれ、と肩を竦める甲斐に問うた。  ……気持ち悪い。名前を呼ばれるたびに嫌悪感が胸を満たす。まるで強制的にあの日々に戻されるような、そんな錯覚。それは甲斐自身のせいではないのかもしれないが、もはや記憶のトリガーと成り果てた甲斐は、俺にとって災厄そのものでしかなかった。 「あぁ、これ? 離れてる間考えてたんだけど、もっと束縛感のある呼び方の方がいいなと思って。気に入った?」 「サイッコーに気持ち悪いよ」  親指を下に立て言うと、甲斐はくつりと笑みを深める。 「ならよかった。ねぇ、由──、」  甲斐が耳元に口を寄せる。俺のとこに帰っておいでよ。  バシン、打撃音。目の前には頬を押さえる甲斐。叩いたのは俺ではなかった。 「無事ですか、椎名様」  問うのは、そう、確か俺の非公式親衛隊の隊長。名前は……なんだったかな。一瞬事態が飲み込めず呆けていた俺だったが、先輩が俺の返事を待っているのだと気付き「大丈夫です」と答える。 「ありがとうございます、……先輩」  先輩は俺が名前を覚えていないことを悟ったのか、苦笑いをする。 「横内(じん)です。弟がお世話になってます」 「弟……? 、あ」  委員長の兄弟か。言われてみれば目元が似てるかもしれない。テーブルの方を振り返る。委員長と三浦は心配そうにこちらを見ていた。委員長が俺に良くしてくれたのは、もしかしてこの人の指示だったりするのだろうか。俺の考えに先回りするように、先輩は「違いますよ」と断じる。 「渡が椎名様と仲良くなったのであれば、それはあいつの意志です。あいつはああ見えて頑固ですから」  それと。  先輩は悪巧みをするような顔をし俺を見る。 「俺は椎名様の遠足をつけてきたのではなく、たまたま外出届を出した日にたまたまここに来ただけですよ」 「ああ、はい。そういうことにしておきますね」  そんな訳ないだろうという言葉は飲み込み、曖昧に頷く。ふぅ、と聞こえた溜息にはたと我に返る。甲斐はこちらを不機嫌そうに見つめていた。 「……あんた誰? 由のこと好きなの?」  俺を庇うように前に立つ先輩は、息を詰めるでもなく自然な所作で言い切った。 「好きですよ」  目の際がピクリと動く。するりと溢れたその言葉は、思いの外まっすぐな響きをまとっていた。 「……邪魔だなぁ」  カチカチ、カチ。甲斐の手元からする安っぽい音。カッターの刃がひやりと光る。先輩を後ろに引っ張り、甲斐の腹に蹴り込む。甲斐は俺の服を掴んだ。甲斐に引っ張られるように、俺は地面に倒れこむ。甲斐は自身の上に倒れ伏せた俺の首筋にカッターを柔く当てる。少しの躊躇もなく、当たり前のようにカッターが横に引かれる。つ、と熱が首に走った。 「折角同じ高校を受けて中学に引き続き一緒に居られると思ったのに……。変な虫まで付けて。淫乱なんだね、由」 「うるっせぇ……、離せ!」  回された手で、甲斐の体に縫いとめられる。気持ち悪い。嫌だ。離してくれ。甲斐は切りつけたばかりの俺の首に唇を沿わせ、舌で患部を抉った。 「ッ、」 「声くらい上げろよ。強情だな」  甲斐は不満げに俺を地面に捨て、身を起こす。気が付けば遠巻きに人が集まりはじめていた。ちょっとした騒ぎになってしまったらしい。 「……うん、そろそろまずいか。じゃあ由。またね」  甲斐は一方的に終わりを告げる。雑踏に紛れ行くその背中を、俺は首を押さえただ見送る。切りつけられた首からは、薄っすらと血が滲んでいた。

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