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赤、という声の後、また、瞼に音が降る。
「……赤」
「……、何」
「目、開けて」
寂しい。
続いた言葉に、瞼が震える。嫌だ、と首を振ると、瞼にまた、熱が落とされる。どうとも思っていないはずのその行為が、酷く恥ずかしく思われるのはなぜだ。子供をあやすような青の声音が、二人の間の空気が入り混じり一つになるような錯覚が、近くにあるであろう青の気配が、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ない。
目を瞑っている理由が、恐怖か、羞恥か。顔を俯けイヤイヤを繰り返すだけの俺にはもはや分からなかった。ねぇ赤。青がやけに甘い声で囁く。
「お願い」
下顎角に、熱が触れる。キスなんて何でもない、筈なのに。青の熱が、顔を侵食する。ぶわりと首から体温の上がる感覚に震えながら、俺はうっすらと目を開く。まつ毛から雫がぽろりと落ちる。つ、と雫は温かくなった頬を冷やした。
「赤、」
「……、」
「……由」
往生際悪く目を逸らしたままの俺に、青が俺の名前を呼ぶ。肩を跳ねさせる俺に構わず、青は由、と名前を呼んだ。
「な、に」
「やっとこっち向いた」
掠れる声で応えると、青はふわりと笑みを零した。
「赤、顔赤い」
「うる、せぇ……」
「照れてるの」
俺の顔を抱きしめた青は、そっと耳元で囁いた。背筋に走った不思議な感覚を押し殺し、じり、と後退する。青はそんな俺の動きを許さないとでもいうかのようにきつく、俺を抱きしめる。諦めて青の服に顔を埋めると、陽だまりの香りが俺を包んだ。
いい匂い、と言うと青の手が不意に強張る。我慢、と呟く声に、青が気を悪くしたのだと気付き、慌てて体を離した。陽だまりが遠ざかり、体は寒さを訴える。くしゅんとくしゃみをした俺に、青はハンガーに掛けていたパーカーを着せてきた。やっぱりいい匂いだ、と目を細める。
「ちょ、嗅がないで……。嫌じゃないけど、照れる」
「照れ……? 臭くないけど」
「なら、よかった」
耳を赤らめ、唇を尖らせた青に、内心首を傾げる。青は軽く首を振り、それより、と話を切り出した。
「俺が、赤を嫌いになったように見える?」
ほら、よく見て。
鼻が触れそうなほどの近さで、青は俺の目を覗き込む。青の目に映る自分は、怯えたように腰が引けている。青の目には、まつ毛の影が落ちていた。茶色がかった虹彩は、日の光で明るく透ける。青っぽい色合いを含んだ影と、オレンジにも似た、明るい光のグラデーション。そっと息を漏らす。青の瞳に、嫌悪は見当たらなかった。
「見え、ない」
「赤。体、見てもいい?」
「でも、」
「嫌じゃないよ。汚くもない。ただ、」
「ただ?」
なに、と瞳を見返す。青との距離がまた、近づく。青、と呼ぶ声さえ、彼の肺に取りこまれているような、奇妙な感覚。息を詰めた理由を、青に見透かされてしまうのではと、俺は密かに視線を逸らした。
「ただ、どうしようもなく恥ずかしくて、眩しくて、触って熱を移したくて、それで、」
「青、」
「赤、分かってほしいんだ」
よく分からない、と眉を下げる俺の顔を、青は柔く指でなぞる。そっと指先で顎を掬われ、彷徨わせていた視線は青の元へと落ち着いた。
「俺は、たとえ赤がどんな姿でも、大切に、甘やかしてやりたくてしょうがない。ごめん、」
青の鼻が、俺の鼻先に触れる。は、という青の呼気が、唇を撫でた。青の瞳が下に移ろう。虹彩の動きに付き添うように、影はうっとりと光を埋める。
「赤がそれを望んでも、俺は」
迷ったように、言葉を区切る。僅かな沈黙に、距離の近さを思い出す。青の服に縋ると、彼の目はそっと細められた。ごめん、という呟きに続け、熱が、吐き出される。
──離れてやることが、できない。
あ、と声が漏れた。青、を名前を呼ぶも、陽だまりは俺の瞳を掌で覆う。何、と問うと、青は答えることなく肩口に顔を寄せる。首筋に唇の触れた感触がして、ばれないように首を竦ませた。
「そんな目で、見るな」
「なに、」
「勘違いしそうになる」
苦しそうに息を吐きだす青が悲しくて、青の背中に手を回す。
「いなくならないで」
先程の言葉に応えると、青は小さく笑い声を漏らす。まったく、敵わないな、なんて。そんな呆れ声すら優しくて。
どうしたら嫌われたと思えるのだろう。傷つくのが怖いと。そう、逃げだすことを許さない程の青の甘さを、俺は黙って受け入れた。
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