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 翌日、放課後。風紀室で二村の勉強を見ながら、俺は体調の悪さを感じていた。そういえば、五月にあったテストの時も体調が悪かった。腹の内がモヤモヤする。体育祭前日夢に見た母さんの応援する言葉だとか、母さんの俺を叱る声だとか、父さんが俺に願いを託す声音だとか、一秀の先日の態度まで俺を悩ませてきて。もう、何が何だか分からない。俺は頭痛を誤魔化すように奥歯を噛みしめる。  円は、俺の言葉をどう捉えただろうか、なんて。頭を埋めるのは考えても仕方ないことばかり。視線を問題集から逃すと、こちらを見つめる宮野と目が合った。俺の頬を気遣わしげに見る宮野に苦笑してみせると、不快そうに鼻を鳴らし顔を背けられた。宮野は、ここ教えてくださいと青にしなだれかかり、チラリと俺に勝ち誇った笑みを投げる。厄介な。痛みを増す頭に、これは長引くぞと溜息を吐く。  委員長~という宮野の言葉に顔を上げると、上の空でこちらを見つめる青と目が合った。ひら、と手を振ると宮野の咎めるような視線が飛ぶ。めんどくさい。鯉渕がストッパーを買って出てくれると楽なのだが、と思うも鯉渕は我関せずと勉強に取り組んでいる。  はぁ、吐息を漏らすと隣に座っていた神谷がコンコンとペンで机を叩いてくる。じっとりとした目を向ける神谷に苦笑すると、彼の眉はピクリと跳ねた。 「……あんた、さっきから溜息多いですよ」 「そうか?」 「……帰ったらどうです? 宮野もうるさいですし」  不愉快そうに声を潜める神谷に空笑いを返す。 「邪魔か?」 「は、? いや、」 「悪い、変なこと言った。思ってたより今日ダメかもしれない」  驚いたように息を詰めた神谷は、俺の言葉にムッとした表情になる。 「邪魔じゃなくて、心配だから休めって言ってんでしょうが」  時々すごくバカなこと言いますよね、と口調を厳しくする神谷。やっぱりこいつ、優しいんだよなぁ。 「このセンパイの面倒なら俺が見ますから」  ね、と話を振られた二村は、格闘していた問題から顔を上げ、複雑そうな表情をする。センパイ呼びが嬉しいやら、後輩に勉強を教わるのが癪やら……ってところだろうか。最終的にペコリと頭を下げた二村に、神谷は悔しそうな顔をした。 「悪いやつならこうも焦りはしなかったのに」  零す神谷に、二村はヒョイと片眉を上げ、ククと喉で笑う。仲の良さそうな二人のやりとりに目を細める。疼痛。目の奥から神経を絞られるかのような痛みを感じ、こめかみを押さえる。 「赤ッ、具合が」 「~っ、委員長!」  青が腰を上げ、宮野が腕に縋る。眼光を鋭くする宮野に、その場の緊張感が否応なしに上がる。 「副くーんっ!」  ばーんと扉をあけ放ち、江坂が入ってくる。きょろりと辺りを見渡し、雰囲気の硬さに気付いた江坂は、お取り込み中? と首を傾げた。 「副くん今日部屋に来ないかな~って誘いに来たんだけど……」  そんな場合じゃないよね? と困った表情をする江坂にピンと来る。ははーん。さては今日あたり江坂の部屋に日置が来るんだな……?  呆れた気持ちで江坂を見ると、てへっと笑って誤魔化される。俺を呼んだところで被害を分散なんてできっこないぞ。俺と江坂の無言のやりとりに気付くことなく、悪態を吐く者が一人。 「どれだけの人をタラし込んでるんです?」  お綺麗な顔で誑かしでもしたんですか?  嘲笑う宮野に、弛緩しかけた場がまた緊張する。流石の鯉渕もぎょっとした顔で宮野を見やる。ん? と首を傾げた江坂は、宮野に向かってにこりと笑った。 「君はお馬鹿さんなのかな?」 「なッ、」 「副くんを慕う人が顔しか見てないって?」  この、融通の効かなそうな奴らが?  江坂は風紀室に視線を走らせる。何人かの唸るような声が聞こえた。 「──冗談でしょ」  ふっ、と大人びた笑みをこぼした江坂は、不意にいつもの悪戯っぽい表情に戻る。ねぇ、という宮野への呼びかけは、微かに苛立ちの響きをまとっていた。 「君さ、新歓で風紀に入った子だよね?」  自分のファンもコントロールできない委員長。  ぽそりと呟かれた言葉は、声量以上の威力を持っていた。江坂の言葉に、宮野はハッと肩を強張らせる。 「君が、夏目の評価を下げてるんだよ。──夏目の中の君の評価もね」  宮野の視線が、青へと向けられる。青は、冷たい眼差しを湛えていた。  声にならない叫びを出し、宮野は風紀室を飛び出す。 「宮野ッ」  反射的に追おうとした体は、神谷によって止められた。 「ダメですよ。あんた、具合が悪いんだから」 「でも、」 「副委員長、いいです」 「鯉渕、」 「いいんです。あいつも頭を冷やす時間が必要だと思います。千景が失礼なことを言ってすみませんでした。書記さまも、俺の友人が失礼しました」  ぺこりと頭を下げる鯉渕に、他の面々も倣って頭を下げる。いえいえ~と笑う江坂は、すっかりいつも通りの様子だった。 「で、副くん部屋来れる?」 「あー…、じゃあ、」 「椎名は行かない」  俺の言葉を遮り青が言う。は、と見ると、青の顔はやけに険しかった。江坂はあ、と口元を引き攣らせると、違う違うと手を扇ぐ。 「違う違う! 待って!! 俺を当て馬にしないで!! 冗談じゃなく!!」 「え、なに?」 「違う!? 違うのか!?」  俺の言葉を無視し、江坂に反応していた奴らは表情を緩める。だからなんなんだよ。 「コホン。まぁ、違うにしても椎名は今日体調が悪いから、行けないだろ」 「えっ、そうなの副くん。言ってよ~。言ってくれたら看病セット持ってきたのに。嘘だけど」 「あ、ああ。ごめん」  いいけどー…と言った後、肩を落とし、いいけどと言う。恐らく日置の来訪を気にしているのであろうその表情に、俺は静かに手を合わせた。安らかに眠れ。  江坂も帰り、風紀室では引き続き勉強会が行われた。部屋に帰るのが面倒だった俺は、結局風紀室に居座った。勉強会はいつも通り、六時頃に終了した。青が職員室に鍵を返しにいっている間ドア前で待っている俺の元に、誰かの廊下を走る音が近づいてくる。 「副っ、委員長!」 「鯉渕?」  駆け寄ってきた鯉渕に戸惑いながら声をかける。 「千景がッ、千景がッ!」 「落ち着けっ、どうした」 「千景がッ、まだ帰ってきてないんです!」  どうしよう。  足元に崩れ落ちた鯉渕に、ぞわりと事件の歩み寄る気配がした。

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