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 着替えをし、朝食をとり。何気ないこと一つ一つが最後かと思うと感慨深い。母さんは入院し、俺は親戚の家へと行く。俺が先に家を出るから、母さんは俺を見送る形となる。まぁ、どちらが先でも別れは別れだ。  目の奥がずきりと痛む。体もどこか気怠かった。  荷物を詰めたカバンを持ち、玄関に立つ。十三年間この家に住んでいたはずなのに、この家から持って行きたい物は全て旅行カバンに全て収まってしまった。軽い手荷物に不思議な感覚を覚え、じっとカバンの膨らみを見つめる。  昔であれば分かったのかもしれない。このところ鈍くなったのかなんなのか。自分の感覚をよく見失うようになった。薄い膜に覆われたような、不思議な距離感を自分の中に感じるのだ。  他人事じみた感覚を我がことに対し覚えるのは奇妙だが、都合が良い。 「では由くん、行きましょうか」 「……ん」  新しく畠さんが買っておいてくれたらしい靴は、履き慣れた物よりも生地が硬い。門出に際し、という畠さんなりの俺に対するフォローだろう。少しでも明るい気持ちで今日を記憶できるようにという心遣いに、俺の口元は微かに緩む。  がちゃん。  背の方で玄関の閉じる音がした。  いってらっしゃいと見送る声は当然のように続かない。家の前に停めている車に乗って、それで終わりだ。また自分の中に分からない感覚を覚え、首を傾げる。 「いってきます」  応じる声がないと知っているのに呟いた自分がおかしくて。振り向くことなく一歩踏み出すと、家の中から叫び声が聞こえた。母さんの声だ。  悪夢でも見たか。それとも発作が起きたか。そのまま車に乗り込もうとした俺の耳に、声が届く。 「――りッ、由ッッッ!!!」  ぴたり。足が地面に縫い付けられたように止まる。母さんが、俺の名前を、呼んでいる。もう母さんの口から聞くことはないと思っていた自分の名前に、思わず玄関の扉を開けた。 「由ッ!!」  開けるなり体を引き寄せ、抱きしめられる。母さんの匂いだ。蜂蜜入りのミルクティーのような優しい匂いに、ぎゅうと抱きしめ返す。 「かあ、さん」 「由。ごめんね。ごめん。幸せになって。ごめんね。一緒に暮らせなくしちゃって。弱い母さんでごめんね……ッ」  分かっていたのだ。  正気の状態であるらしい母さんは、自分の症状のために俺と引き離されると分かっていた。一緒にいたいと縋るような素振りを見せながら、自分が傍にいては俺が幸せになれないと、離別を選択したのだ。 「……かあさん」 「なぁに、由?」  優しくそう、名前を呼ぶものだから。まるで、もう一度生まれ落ちたような感覚に陥って。  薄い皮膜がぴりりと破れる。間違いなく歓喜を訴える心に堪らなくなって、そっと吐息を落とす。漏れ出た喜びに、俺の心は密かに決まった。 「ごめんね」  いけない選択だと分かっていた。母さんの思いや畠さんの厚意を踏みにじる行為だと、理解していた。  それでも、再び呼ばれ、求められた。ただそれだけで今までの全てが肯定された。そんな気がしたから。 「ごめんね」  自分の我が侭で、全てを踏みにじることにした。誰も彼も、未来の俺ですら求めないような結末が訪れたとしても。今の俺は確かにそれを求めていたのだから。  

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