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 痛い。  そう感じたことを自覚する。靄のかかった思考からふわり、自我が浮上する。状況が飲み込めずに体を起こすと、俺がいるのは自分の部屋らしかった。 「……あ」  喉に違和感を感じて声を出す。別人のようにしゃがれた声。……そうだ、漂白剤や洗剤を混ぜた風呂場に閉じ込められたんだっけ。心の防衛本能とでもいうのか、最近は意識のはっきりしない日が続いていた。が、流石のこの状況ではそうもいかないようで。  中一の冬。クリスマスも近付く十一月の末、母さんの症状はもはや最悪だった。父さんと俺が円のせいで死んだとそう思い込んでいる。母さんに寄り添おうにも、俺を円と認識している以上それもかなわない。母さんは俺によって症状が悪化し、俺も母さんによって心を閉じていく。完全なる悪循環だった。  膿んだ背中に溜息を漏らす。これは処置しておかないとまずい、だろうなぁ。とはいえ、有毒ガスで爛れた背中に何をしたらいいかなんて分からない。どうしたものかとぼんやり窓の外を眺める。ふわりふわりと降る雪は家の前を白く染めていた。家の周りもすっかり冬の色に染まっていて。家の前と周りの境界線が曖昧になる。月明かりが俺の部屋の窓へと伸びる。その一本筋が外への抜け道のように見えた俺は、玄関からこっそり靴を持ってきて、窓の外へと抜け出した。  靴底が雪を踏む。白から灰に変わった雪にぞっとした。とんでもないことをしでかしてしまったような、そんな気分。思わず立ち竦んだ俺を促すように風が鳴く。ひゅお、と吹いた風に勇気づけられ、一歩踏み出す。一歩、そしてまた一歩。気が付けば家の外へと出ていた。振り向けば、いつもと変わらない家が月明かりに照らされるようにして立っていた。月明かりで青みがかった家からは、不思議と恐怖を感じない。夜の雰囲気に飲まれているからかもしれない。  家の外には出ることができないと思っていた。出る所を咎められたこともなければ、ましてや玄関の鍵を回せない訳でもない。  いざこうして外に出てみれば、なぜ出なかったのか自分でもよく分からなかった。行く当てのないままにふらりと歩を進める。もし母さんが追いかけてきたら、と考えて少し緊張した。  ふらふらとした歩みに合わせて足下の雪がざくざくと鳴る。ざくざく、ざくざく。音に意識を取られる。月明かりを追うようにして歩いていた俺は、雪に赤や青といった色味が混ざっていることに気付いて顔を上げる。顔を上げて、驚いた。いつの間にかネオン街に来ていたらしい。キャッチの声や酔っ払いの笑い声。随分と賑やかな場所に来てしまったようだ。  ずきん、体が痛んだ。  それが背中なのか喉なのか。判然としないが気怠いのは確かだった。路地に入り、座り込む。コメカミを押さえ、項垂れる。頭を庇う自分の仕草に、そういえば頭痛がするなと思った。 「……ゲホッ」  喉に手を当てる。肋骨の奥が軋むような感覚。タオルで押さえたとはいえ、多少はガスを吸い込んでしまったのだろう。薄らと蘇る今日の記憶に思いを馳せる。なんだか疲れたな。 「――めろッ!」    微かに聞こえた悲鳴に、自分の記憶かと一瞬混乱する。 「――の野郎ッ」  続いて聞こえる怒号、殴打音。もしかして追ってきたのだろうか。恐怖に竦む体に鞭を打ち、こっそりと様子を窺う。物陰に隠れながら覗いた先に、母さんはいなかった。よかった、と安心した俺はそのままぼんやりと佇む。  何ともなしに見ていると、不意に一人と目が合う。仲間を庇っているのか。必死な色を滲ませる男からそっと視線を外す。  所詮知らない人間だ。どうなろうが興味もない。俺だって誰にも助けて貰えないのに、なんで俺が助けなきゃいけないのか。そのまま立ち去るのは容易かった。なのに、それができなくなったのは縋る声が聞こえたからだ。 「助けてくれ!」  ぴくりと肩が動く。母さんからの痛みを一人で受けていた円は、きっとこうして助けを求めていた。あの時、頬を押さえて蹲る兄の口ははくりと動いて、「助けて」と呟いていたのだから。 「!!?」  気が付けば、目の合った男を庇うようにして身を投じていた。振りかぶられた拳を受け流し、首に蹴り込む。他の襲撃者も同じようにしていなすと、たどたどしい礼が聞こえた。振り返ると、黒髪の男はぎこちなく笑う。居心地の悪さに「別に」と素っ気なく呟いた。助けるつもりなどなかった。それなのに、円とダブった瞬間ダメだった。あの時後ろで驚いたような気配を感じたが、一番驚いたのは助けに入った俺自身だ。  俺の声に男の眉がぴくりと跳ねる。 「風邪か? 無理して話さなくていい」  気遣わしげな声に苛つく。何も知らないくせに。 「うるせぇな、ほっとけ」 「なんだよ、そういう言い方ないだろ」  ムッとした顔で言い返される。軽口の応酬に眉を顰める。まるで友達みたいだ、と考えてぞっとする。俺の思いに気付くことなく、男は手を出してくる。 「俺、夏目久志っていうんだ。なぁ、お前の名前は?」  にこやかに問われ、言葉に詰まる。俺の名前……? ぐるぐると頭が渦を巻く。俺の名前、俺の、名前……?  一体なんだったか。 「俺の、名前は……」  躊躇って出すのをやめた手を、夏目が掴む。混乱が少し収まり、口を開く。 「俺は、由。椎名由」  そうだ、俺は円じゃない。俺の名前は椎名由だ。ふわりと風が吹く。雪の交じった風に目を瞑る。風が収まり、目を開ける。すごい風だったなと笑った夏目は、導くように俺の手を引いた。 「そっか、椎名か。よかったら、なんだけどさ。俺達の溜まり場があるんだ。礼もしたいから来ないか?」 「……礼とか、いらねーし」  そもそも、助けたつもりもないんだが。  顔を顰める俺に構わず、夏目はぐいぐいと俺の手を引く。さっきから思っていたが強引な奴だな。とはいえ、行く当てもない。変な奴だと思いつつも、俺はその場の流れに身を任せることにした。 ***  手を引いて連れてこられたのは、ネオン街から一歩引いた場所にあるバーだった。地下へと続く石畳の階段を下りると、繊細な装飾の彫られた木の扉が姿を現す。屋根から下げられている金属製のウェルカムプレートには『バー/喫茶・ビードロ』とあった。  夏目は慣れた手付きで無遠慮に扉を開ける。   「渋川さーん」 「どうしたの……ってあら。人数増えてない?」  オーナーらしき人……渋川さんは、強面の顔ながら優しい口調で返事をする。きゅ、と眉根を寄せる彼は困っているだけなのだろうが、端から見れば夏目を脅しつけているような表情だ。対する夏目は萎縮することなく、どこかどや顔で笑みを浮かべた。   「ふっふーん。俺たちのヒーロー様だよ」  なんだヒーローって。  似つかわしくない言葉が自分を指していると気付いた俺は、眉間に皺を寄せる。 「ま、椎名。カウンターに座れよ」 「……、」  馴れ馴れしい。  既に友達認定でもされていそうな軽いノリに早くも心を閉じかけそうだ。 「……というか。あんたそんなにフレンドリーな対応するなんて珍しいじゃない。アタシにもそんなニコニコしちゃって。いつもはどこの亭主関白かって態度のくせに」 「……そんな酷かったっけ」 「ま、いいわ。今の方がずっとかわいげあるわ」 「夏目はねー、はしゃいでて頭が馬鹿になっちゃったんだよー!」 「そうそ! さっきから俺達のことも置いてけぼりっスし。迷ったらどうするんスか」 「そろそろ三ヶ月になるんだから道くらい覚えておけよ」  文句を言いながらぶうたれる緑のモヒカンとピンク頭。呆れたように文句を一刀両断した夏目に、普段は今の素っ気ない口調なんだろうと思った。  勧められた席に腰をかけると、渋川さんは目を細める。渋川さんは細めた目をそのままに、俺の方へと手を伸ばす。 「――ッ?」  咄嗟に手を叩き落とし、距離を取る。驚いたように目を丸くした渋川さんに、間違えたと臍を噛んだ。 「……ごめんな、さい」  たどたどしく謝ると、いや、と否定が返る。 「いきなり手を伸ばされて、怖かっただろう。悪かった」  男くさい口調で首を振った渋川さんは、ねぇと俺に声をかける。 「……、はい」 「背中と喉、怪我してるでしょ。処置してあげる。来なさい」 「っ」  びくりと身を縮める。俺の怯えた目つきに気付いたのか、渋川さんはそっと微笑み首を振った。 「大丈夫。誰にも言わないわ」  無言の応酬に周囲は付いてこられないらしい。状況が読めず首を傾げる周囲を置いたまま、渋川さんは奥へと続く扉へと手招いた。 「アンタたちは店の方よろしく」 「はーいっ! おいしいよスペシャル作っておくね!」 「……ネーミングセンスどうなってんだ」 「ほらぁ、親分も呆れてるじゃないっスか。やっぱモヒカンスペシャルの方がいいと思うっスよ」  夏目、親分って呼ばれてるのか。  そんなことを思いつつ、渋川さんの背を追いかける。店の奥は渋川さんの居住スペースになっているらしい。座って、と促されたのは上着の掛けられたソファーだった。 「さっきから背中を庇ってる。喉も風邪とかの類いじゃないな。取りあえずこれ吸って」  ぐいと口に何かを押し当てられる。シューという音と共に何かが噴射される。言われるがまま、噴射されたものを吸う。これ、なんだろう。 「これは酸素。さっき手を払った時、掌に血の付いてるのが見えた。咳き込んだ時に血を吐いたんだろう。ガスを吸ったんだろうと思って酸素を吸わせたんだが……合ってるか?」  焦っているのか、渋川さんの口調は男らしい。こくりと頷くと、渋川さんはほっと息を吐いた。 「呼吸も正常だし、暫く安静にしていれば問題ないと思う。様子見をして、ダメそうなら医療機関に行ってくれ。喉は案外切れやすいからな。激しく咳き込んだ拍子に切れたんだろう。安心していい」  診断を下され、肩の力を抜く。知らず、不安に襲われていたらしい。こうして大丈夫だと言われ、安心するのが分かった。 「喉は大したことないが……酷いのは背中だ。ほれ、ちょっと脱げ。額に汗も浮かんでないのに、背中の方だけ服が濡れてる。これ、膿んでるんだろう」  早く、と促され服を脱ぐ。渋川さんは俺を風呂場まで引っ張っていくと、シャワーで冷水を浴びせた。 「火傷……? いや、喉がガスによるものとすれば背中も化学熱傷と考えるべきだ。化学熱傷の基本は汚染された衣服の除去! で、冷水での洗浄だ。早ければ早いほどいい。なんで放っておいた?」  御蔭で炎症が深部に及んでる。 「……一時間くらい洗浄するぞ。腹は減ってるか」 「……わかんね」  曖昧な返事に渋川さんは顔を顰める。 「肋も浮いて……」  俺の貧相な体格を気にかけているようだと分かったのは、何かを口に突っ込まれてからだった。噛みなさい、と言われるままに咀嚼すると、懐かしい味がする。 「肉じゃが……?」 「そ。昨日の残りで悪いんだけどね」  料理。  人の作った物なんていつぶりに食べるだろう。普段は毎月親戚に渡される金で適当に出来合いの料理を食べるだけだった。自分のためというより母さんのために買っているため、食事の優先順位が自分の中で落ちているのが現状だった。 「……おいしい」 「そっか。なら、よかったわ」  にっこりと笑った渋川さんは、空になった俺の口に再び料理を放り込む。もくもくと咀嚼する俺に、渋川さんはぽつりと言う。 「アタシがあんたに料理を教える。だから、ビードロで働いてみない?」 「……俺、中一だけど。バレたら捕まっちゃうよ」 「そうねぇ、バレたら困っちゃうわねぇ。で、どうする?」 「……、」  どうするって。  選択肢を与えられたのは久しぶりで、どうしたものかと口を噤む。混乱からぼんやりとしはじめた俺を助けるように、渋川さんは悪戯っぽく笑う。 「料理のできる男は、モテるわよ?」  何を言い出すかと思えば。存外下世話な一言で、思わず笑みを零す。 「……じゃあ、習おうかな」  答えると渋川さんはほら、と何かを差し出す。見ればビードロと書かれたエプロンで。知らずへら、と笑った俺は、エプロンが濡れないようにそっとシャワーから遠ざけた。  

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