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「こんにちは。お久しぶりです」  にこやかに笑みを作ると、吉衛先輩は 嫌そうに顔を歪める。集会の最中、一際強い視線に目をやると先輩がこちらを睨んでいた。集会後、先輩が待っている気がして講堂の裏手に回って今、という訳である。 「そんなご機嫌伺い要りません。……何が事実なんですか」  先輩の強い眼差しを正面から受ける。敵を見るような目つきでこちらを見つめる。一瞬息を呑んだ後、ゆるりと頬を綻ばせると先輩は訝しげに眉を顰めた。 「……なんで笑うんです」 「ふふ、すみません。こんなに睨んでるのに俺に真実を聞いてくれるんだなと思って」 「……君は僕の嫌な態度をいいようにばかり受け取りますね」  で、と横柄な態度に切り替えた先輩は話の軌道を修正する。 「どうなんだ、椎名由。お前は円様を虐めたのか。殴って、家を出なくてはいけないほど傷つけたのか」  柔く微笑み、問いに答える。 「いいえ? 俺が円を虐めたという事実はありませんし、円が家を出たのは俺が虐めたからでも、まして俺が椎名を継ぐためでもない。……信じるかどうかはお任せしますよ」  半ば投げやりな俺の答えに、先輩はそうですかと素っ気なく頷く。 「じゃ、もういいです。これから親衛隊にも注意しておきますが、暴走する子がいるかもしれません。気をつけてください」  先輩はあっさりと背を向けて立ち去る。信じるのか、とは聞けなかった。答えが信じられないようなら初めから俺には聞かない。そういう人だ。馬鹿な質問をしたら侮辱するなと怒られてしまうだろう。 「怒ってくれるなら、聞くのもありだったかもな」 「赤?」  呟く俺に声が話しかける。振り返ると青が心配そうにこちらを見つめている。 「どうした」 「いや、赤を探してたら桜楠のとこの親衛隊長がこっちから帰ってきたからさ」  ああ、それでその表情か。  円第一主義の先輩が俺と二人。何かされたと考えるのが自然だろう。少なくとも吉衛先輩は何も用がないのに俺に近付いたりはしないから。 「別に、何もない。円を虐めたか確認されただけ」 「聞いて、信じるのか?」 「さぁ。先輩は信じたみたいだけど。他の奴らが信じるかと言えばそりゃまた別の話だ」  面倒な、と伸びをする。目に入った景色に、俺は青の背中を突き飛ばした。 「赤ッ……?」  大量の水が地面にぶちまけられる音。高さがあるからか、石が地面に投げられた時のような音がした。ぐっしょりと濡れた前髪を掻き上げ、上を見上げる。空のバケツを持った何人かの生徒は、こそこそと俺の視線から逃げるように窓から離れた。  濡れた制服の匂いを嗅ぐも、特に変な匂いはない。どうやら水道水のようだ。育ちの良いお坊ちゃんにそこまでの思い切りはなかったようである。 「赤ッ」 「ん? ああ、青。濡れなかったか」 「ッ、そうじゃ、ないだろ……!」  傷ついた顔をする青に、何かを間違ったようだと気付く。ええとと言葉を探す俺に、青はくしゃりと顔を歪めた。青の手が、俺の頭を撫でる。 「……、風邪引く。一旦寮に帰ろう」 「おー」 「……赤。逃がしてくれて、ありがとな」    ありがとう、と言いながら痛そうな表情をする青に、変な奴だと思う。俺のせいなのだということは分かる。だが、ただ少し濡れた、それだけなのに。  なぜここまで青は辛そうなのだろう。 *** 「赤。寒いかもしれないが外から回って帰るぞ」 「ああ、廊下が濡れると困るからな」 「……、違う」  俺の言葉に、青は重く首を振る。赤、とこちらを見ぬまま青が言った。 「今の赤は、人の悪意に晒されている状態だ。それは分かるな?」 「ああ」 「他人に水をぶちまけられた。赤にとっては大したことじゃないのかもしれない。でも、その他大勢にとっては充分大したことだ。危惧していた事態が始まった。一人で尻込みしていた奴も、赤の立場が弱くなったと知れば動くかもしれない。侮るようになるかもしれない。校舎内はその危険が高い。だから今はダメだ」  分かるか、という青の問いに軽く頷く。なるほどな、確かにそうなれば面倒が増える。それは厄介だ。 「俺は、赤が傷つくのを見たくない」 「……、青って俺の保護者みたいなことを言うよな。今の、一秀に似てた」 「……すげぇ不服」  心底嫌そうな顔をする青に、クスクスと笑う。一通り笑った俺は、「あー」と呟き寮へと歩き出す。ぐしゅりと靴の中敷きから水が出た。髪から水がしたたる。日の光が俺を照らす。このまま帰るまでに乾かないかなと思った。 「円、平気かなぁ」 「さぁな。赤、俺のブレザー羽織れ」 「あちぃ」 「暑くない。風邪引くと困るだろ」  強引にブレザーを羽織らされ、背中の傷が透けていたのかと気付く。青は俺の視線に気付くも、何も言わない。忘れてくれと、言ったからか。 「律儀だよなぁ……」 「何のことだか」  一歩歩くごとに足跡がスタンプのように地面に写る。青のわざとらしくとぼけた返事に、もういいかと思った。 「青」 「……ん?」  足を止め、振り返る。足下のスタンプはじわりと滲み大きくなる。自棄になった訳ではない。忘れろと、あんな意味の分からない自分勝手な頼み事を律儀に聞いてくれた。それに改めて気付かされた瞬間、不意に大丈夫だと感じた。きっと青なら弱い俺でも離れないと。 「ありがとう。忘れたフリは、もういいよ」 「なんで急に」 「夏休みに俺の話をしただろ。一番知られたくないとこ話したのに、知らないフリだけ継続っていうのも変な話だ」  青の戸惑う顔を見る。それにさ、と言葉を紡ぐ。 「お前だから、信じたい。流石に背中を皆に晒すことはできないから……内緒には、してほしいけど。ダメかな」  尋ねると、青は困ったように微笑む。ずるいなぁ、と口が動いた。 「……勿論。赤の信用には応える。内緒にしたいことも、赤の大切なものも、守るよ。必ず」 「ふは、じゃあお前は自分の身でも守ってくれ。あとは俺を見捨てないでくれたら、嬉しい……んだけど」  控えめに頼むと、青は俺の肩に腕を回して歩き出す。服が濡れるのも構わない青は、どことなく足取りが軽い。 「そんなの、頼まれるまでもない。言っただろ、離れてやれないって」 「……、ああ」 「赤」 「、ん?」  気恥ずかしさから曖昧な返事を返す俺を、青がじっと見つめる。ふっと大人っぽい笑みを浮かべた青は、薄らと唇を開く。 「――嫌なことはちゃんと怒れよ。約束」 「っ、え、ああ……」  俺にはそうしてほしい。  あの日の言葉をもう一度。  青の眼差しがゆるり、緩む。なんだかとんでもない約束をしてしまった気がして。俺は密かに息を詰めた。   

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