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5-13 桜楠円side
俺さ、と語り出した自分の声は苦々しい。今でこそ馬鹿みたいな思い違いだったと理解しているが、始業式で倒れる直前まで愚直に信じていた誤解について話すのだ。無理もない――と思いたい。
うんと律儀に相槌を打つ弟に、素直だなぁと笑う。やたらツンツンするくせに気を抜くと無邪気さが出る。弟の好きなところの一つだった。傷ついた素振りを見せてみれば、すました態度を瓦解させ、途端可愛い弟になる。疑うことを知らないという訳ではないのに、こと身内に関して由は疑念を持ちにくいようだった。
今もその癖が健在なのは新聞部の取材時に確認済みである。とてもかわいい。しっかり者を自認してる筈の弟が、なぜこうもあっさり俺に騙されるのか。深く考えたことはないが、めちゃくちゃかわいい理由であることは確かだ、俺の弟だし。
しまった、考えが逸れた。
黙り込んで悶える俺などつゆ知らず、由は怪訝そうな声をあげている。円? と問う声は訝しげながらも心配の色が感じられた。こほんと咳払いをし、口を開く。
「俺、捨てられたと思ってたんだよ」
スマホの向こうの弟は驚いた顔をしているのだろう。え、と戸惑う声が聞こえる。言葉にならない息を漏らした由は、なんで? と小さく尋ねた。
遠慮がちな問いに眉根を寄せる。完全な誤解だと知っている今、これを口にするのはかなり苦しい。
「俺、虐待されてた記憶がなかっただろ? ……、いくら伯父さんが養子縁組を考えていたとはいえ、父さんの死んだあのタイミングで俺にお鉢が回るのは不自然だ。母さん一人で家を支えなくちゃいけないからか、とも考えたけどそれもおかしい。家事に関してならお手伝いさんでも雇えばいいし、事業のことなら畠を含めグループの人間がなんとかするだろう。父さんの仕事に母さんは関わってないんだから。まぁ、その、なんだ。つまるところ、家庭的な事情を除いて俺が桜楠の養子になる理由はなかった」
幼い頭でそこまで考えて……気付いた。きっと、俺は椎名にとって要らない子なのだと。
椎名で要らないなら桜楠ではもっと要らないと気付かなかったのは幼さゆえの詰めの甘さだ。とはいえ、中学に至るまでそのことに思い至らなかったのだから思い込みというのは怖いものである。
「もしかしたら誤解だったんじゃ、と考えたのは中学一年の冬のこと。クリスマスだったら、プレゼントを渡すっていうお題目があって、体のいい言い訳ができると思った。胸ポケットにプレゼントを忍ばせて……、万が一会えなかった時のために手紙も用意した。報告の意味も兼ねて、写真も数枚入れて」
緊張しながら赴いた家は記憶と違わなかった。何一つ変わらない家と、椎名でなくなった俺。要らない子の意識があるだけ、インターホンを押すのが恐ろしかった。次第にかじかむ指先を自覚しつつも、なかなかボタンは押せなかった。
もし、歓迎されなかったら。否、そもそも俺を覚えているだろうか。誰だと言われたらどうしよう。
暗い方向に走る思考を止めたのは、他人行儀な弟の声。
――こんばんは。我が家に何かご用ですか?
反射的に肩を揺らし、振り返る。父さんと同じように柔くうねった黒髪。つい先日ストレートをかけるまでは俺もそうだった。長めの襟足はどこか色っぽさと男らしさを感じさせた。暗闇に溶ける黒に、赤いストーンピアスが映える。手首のブレスレットはピアスの色と揃えているのだろうか。こちらもやはり赤色だ。にこりと微笑む顔は、完全に外面。
俺を認めた瞳は薄らと瞠られ、口元の笑みも解ける。円、と呼ぶ声に忘れられてなかったと安心する。
「家、入ってもいいか」
緊張しながら尋ねると、俺以上に強張った顔をした由がいた。
「ダメだ」
警戒したような視線を向ける由に、ああやっぱりと思った。
そりゃ、そうだ。俺は桜楠で、椎名じゃない。椎名の要らない子。それが俺なのだから、敷居を跨がせてくれる筈もない。
違う結果を望んできた実家だったが、結果は惨敗。悲しいほど俺の養子縁組は予想通りの経緯で運んだという訳だ。
俺を呼ぼうとする声を遮り、帰宅を告げる。傷ついた内心を隠すので精一杯で、弟がどんな顔をしているか気付けなかった。気付いていたならもっと違う結果を迎えられただろうに。
「あぁ、そうだ」
ゆっくり振り返り、今できる最大限の微笑みを由に向ける。
「メリークリスマス、由」
これはケジメだ。俺が椎名円でなく、桜楠円であるという一つのケジメ。胸に忍ばせたプレゼントを渡す勇気はもうなかった。家に上がることすら却下されるのに、俺の渡した物を気に入って貰えるとは思えない。
……なんて。
記憶が戻るまではそーんなこと考えてましたね。アホかと。
「馬鹿だよなぁ。由は一生懸命俺を守ろうとしてたのにさ。気付きもしないで被害者面して。それでまた傷つけてることすら知らずに」
自嘲めいた声にスマホ越しの弟は言い淀む。なんと言ったら良いかと悩む弟に、好きだなぁと思う。同い年のこの弟が愛しくて仕方ない。
「そっから俺は、せめて桜楠では必要とされなくてはと思った。ここでも要らないと思われたら捨てられると思ったからだ。叔父さんが向けてくれる愛情も信じ切れなかった。椎名の家族にも愛されてた。それでも捨てられたと思ってたから。一つの失敗さえ許されないと思い詰めてた」
例年にないことをするなんてもっての外。新しいことをして成功する保証なんてない。挑戦なんて、失敗できない俺には到底できないことだった。
「F組の奴らにはそれですっげー嫌われたなぁ。まぁ、F組の権利の訴えをまるっと無視して悪習通りにしたんだから当たり前だが」
特に、由が風紀に引き入れた二村菖。F組をまとめていた奴は会うたび拙い言葉選びで俺に話を持ちかけた。悉く無視をしている俺に手を出し、翌日頬が腫れていると騒ぎになったこともある。
誰にやられたかは握りつぶしたが、一部の生徒はF組の生徒がやったと気付いていたのではないかと思う。
それでも俺は彼らの話を聞く訳にはいかなかった。それが俺の生存戦略だった。
今となっては軽~く現実逃避でも挟みたいような所業である。
「……まぁ、その。盛大な勘違いで勝手に自信喪失して滅茶苦茶ネガティブになってたって感じだな。ハハ。最悪」
方々に迷惑かけっぱなしだ。情けない。
『円は、悪くないよ』
暫く沈黙を保っていた弟が口を開く。言葉を迷っているのか、話し方はどこかぎこちない。
『こと人間関係で正解の解決法なんてものはないんだ。不正解はあるけど、正解はない。その時できた最善こそが一番正解に近しい。だから、それが正解かはやった本人が決めるんだ。なぁ、円?』
お前はお前にとっての最善を選んだか?
いつの間にか俺に似た話し方をするようになった弟が、俺に問う。弟も会わない間に自分なりの最善を選んできたのだろう。選んで、迷ったその結果が現状だ。俺の赦すという言葉一つに声を揺らした由だって山ほど後悔を抱えているだろうに、精一杯背伸びをして俺を支えようとしている。
参ったなぁと眉を垂らす。この表情だって、弟には伝わっているのだろう。その確信が今はあった。長らく分からなかった弟の心が手に取るように理解できる。双子ならではの感覚が再び自身に宿っていた。きっと由も同じだろう。
「ああ。俺は最善を選んだよ。自分のやったことが正解だとは思わない。でも、一生懸命だったのは確かだ。お前だってそうだろ、由?」
『……、うん。まぁ、多少は頑張った、かもな』
「なら、それが正解ってことだ。二人とも頑張った! 大正解だ!」
『バッカじゃねぇの』
呆れた口調の由の声は濡れている。泣くのを我慢しているのだと分かった。もう切るから、と告げた由に少し慌てる。まだ言いたいことを伝えきっていないのに切られては堪らない。
「ちょ、待て! あと二週間でそっち行くから! ちゃんと怪我せずいい子で待ってろよ!」
『いい子って。何歳だと』
「十七ちゃいだろ。こないだ俺と同じ誕生日を迎えた由くんは。ま、いつもいい子だから言うまでもないか?」
『……っ、いいよ。怪我せず、いい子でだったか。 任せろよ、お兄ちゃん?』
悪戯っ子のような台詞を言う由が、どうしてか今泣いているような気がして。由、と問うとどうした、と軽い返事が返ってくる。
「……なんでもない。そういや、叔父さんも俺が退院するタイミングで学園の方に立ち寄るってよ」
『立ち寄る?』
訝しげな声に言葉を足す。
「ああ。叔父さん普段は学園にいないからな。理事長ったって普段から学園にはいねぇよ。代わりに学園長なんてポスト作って常時学園に置かせてるけど」
『へぇ、学園長ねぇ。そんなもんいたんだ、この学園』
「なんでも叔父さんが学園に多くいた初めの頃はなかったらしいけどな。桜楠の事業拡大とともに忙しくなった叔父さんが適当に拵えた役職だから中途半端に権力持ってるとか。まぁどうでもいい話だが」
言葉を区切り、息を吸う。由は俺が何かを言おうとしていると察してかああと短く相槌を打った。
「学園に戻ったらまた話をしよう。今度は叔父さんと三人で」
『……うん』
照れくさそうな声。じゃあなと言うとああと返事。切れた通話の画面を見ながらぽつりと呟く。おかえり、俺達。
伸びをし、勢いをつけて立ち上がる。そろそろ夕飯の時間だ。一緒に夕食を取ろうと買い出しに行った叔父さんもそろそろ戻ってくるだろう。
取りあえず、そうだな。
戻ってきた叔父さんにこう言ってみようか。
「おかえり、父さん!」
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