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第7話

 彼と、もう1か月近く連絡を取っていない。 付き合いはじめて2年とちょっと。3度目のバレンタインを迎える1か月ぐらい前に、些細なことで僕らは言い争いになって、初めてケンカのようなことをした。  正確に言えば、ケンカというよりも、僕が一方的に彼にハラを立てて、問い詰めて、せっかく楽しく過ごすはずの週末の夜をぶち壊しにして、それ以来彼とは話もしていないし逢ってもいない。  彼によれば、暮れに実家へ帰った時に、親御さんの古いお知り合いから見合いを勧められ、「せめて会うだけでも…」と粘られてどうしても断れずに、一席設けることになった――のだという。 「だから、来週末にまた実家に行ってくるわ。すぐ帰るから」と、まるで犬の散歩にでも出かけるような軽やかさで言ってのけた彼に、僕は唖然として言葉が出なかった。  30歳目前で、確か長男ではなかったけど、職場でもそれなりにちゃんとした役職があって、見た目だって男前。襟足にかかるぐらいの長さの黒髪と、シルバーのフレームのメガネがとてもよく似合っている。そりゃあ僕みたいなのがふーっと吸い寄せられるぐらいなんだから、親御さんだっていつまでも彼をひとり放っておけないよね。  そんなことよりも、何が一番許せなかったかって、そんな大事なことを彼が僕に黙っていたこと。  ただ、ややこしいのは、彼が隠れてコソコソお見合い話を進めていたというパターンではなくて、彼に言わせれば、親の顔を立てるためにも一度お相手に会って、礼を尽くした上でお断りするんだ、と。  彼は僕に言った。 『断りに行くんだよ。だから、君には言わなかった。そのぐらいの事でも、君に話せば、気にしていないようなフリして絶対に君は気にしちゃうでしょ? だからチャチャッと終わらせてくる』…………。  ……彼のその気持ちは、嬉しかった。すごく嬉しかったけど何か、どこかがキュッと寂しくて、悔しい気持ちもあった。  そもそも男同士だし、誰が許さなくたって認めてくれなくたって、自分たちがわかり合えていればそれでいい。そう決めて付き合ってきたけれど、実際には親にも言えない、おいそれと誰にでも言えるわけじゃない――別に誰かれ構わず言いたいわけじゃないけど――恋愛を僕たちはしているんだ。そのどうしようもない現実を改めて目の前に突き付けられた気がして、寂しくて悔しかったのかもしれない。  それでも平気な顔をして、「俺は君が好きなんだから、」と何でもないことのように口にする彼に、なぜか無性にハラが立って、『そのぐらいの事、なんていう程度の話なら、教えて欲しかった』とか何とか、八つ当たりでしかないような言葉を投げつけて、彼の部屋を飛び出した。  彼はちっとも悪くない。悪くないどころか、たぶんずっと変わらずに僕のことを思ってくれていて、その気持ちから何も言わなかっただけなのに。  彼の声を聞かなくなってもうすぐ1か月。今日は2月14日。僕らが恋人同士になってから、3度目のバレンタイン。まだそれだけしか経ってなかったんだ。  今ならまだ引き返せるんだろうか。引き返すって、どこへ?  僕が男の人しか好きになれないことは、わかっている。彼を諦めて、誰か他の人を探すの? 嫌いになってもいないのに? 悪いのは僕のほうだよ。勝手に自分で傷ついて、彼まで傷つけるようなことを言って、自分勝手に彼から離れて、ケンカしたあの夜よりも、もっと寂しい気持ちになって。  うつむいて歩いていた靴の先に、花びらのような雪がゆっくりと落ちてきた。この雪がとけるまえに、はやく、やっぱり彼に逢いに行きたい。 ********* 「もしもし……、真治です」 「わかるよ。元気だった?」  あぁ――……。ほぼ1か月ぶりに聞く彼の声が、ひんやりとした端末を通じて耳の奥にまですーっとまっすぐに染み込んでいく。まるで何事もなかったかのように。  この人は、いつもこうなんだ。 『どうしたの?』なんて聞かない。いつも真っ先に、僕のことを気にかけてくれる。 「あの、……」 「うん」 「あの、ちょっとだけ和彦さんのところにお邪魔したいんです。……けど、明日の夜は空いてますか?」  甘えたいくせに素直になれなくて、カッコつけた妙にいびつな話し方をしてる。電話の向こうで彼は、「うーん」と何か考えているようだった。 「今日、これから来れないかな? 明日は同じ課のヤツの送別会があるから、夜はたぶん遅くなるんだ。今日は俺、会社休んでるから今、家にいるの」 「休んで……、って。具合でも悪いんですか?」  そういえば、ちょっと声が鼻にかかってるっぽい。 「風邪かな。熱は下がったんだけどね。あぁ、でも君にうつしちゃうかな。ダメだ……」 「いいよ! そんなの。今、バイトが終わったところだから、30分もかからないよ」  電話を切る間際、電車がホームに近づいてきているサインが目に入って、改札に飛び込んだ。 *********  玄関まで出迎えてくれた彼は、鼻声であること以外は元気そうだった。  くたっとしたグレイのスウェットも、ベッドも、ベッドサイドのテーブルも、全部知ってる。ただ久しぶりなだけ。  彼は毎年、バレンタインには会社でいくつかチョコレートをもらって帰ってくる。去年も一昨年も、それをちゃっかり一緒に頂いて品評会をやったり、『これって本命チョコじゃないの?』なんてワチャワチャやって過ごしていた。 「だから、今年はこんなのはどうかなと思って……」  小さな手提げから、バイト先を出た後に買った包みを取り出してベッドサイドのテーブルに乗せた。お菓子を語らせたら自分の右に出る者はいない、と豪語するバイト先のスイーツ番長女子が太鼓判を押した生チーズケーキを、『1日遅れのバレンタインです』とか何とか言って明日彼に渡すつもりだった。彼はチーズが好きだから。 『口の中でトロ~ッととろけるのよう!』と番長が言っていたそのケーキをスプーンで一口、ベッドに体を起こした彼の口元に運ぶ。 「!!!!」  あはは! その時の彼の表情の面白かったこと。よかった……。  彼は、僕の淹れたコーヒーが「世界で一番美味しい」と言ってくれた。  僕は無類のコーヒー好きだけど、風邪をひいた時だけはコーヒーを飲まない。でも彼は僕とは違った。 「これ、買う時に恥ずかしかったでしょ?」  こちらに腕を伸ばし、僕の前髪をクシャクシャッとしながら彼がそう言った。 「君がここにいない間、何度か自分でコーヒーを淹れてみたんだ。コーヒーマシンなんだから、豆を入れて、水を入れて、スイッチを入れて放っておけば勝手においしいコーヒーができあがるもんだと思ってた。でも、全然おいしくないんだ。一度なんて、コーヒーを淹れてから、できあがるのを待ってる間にウトウトしちゃって、ハッと目覚めた時には2時間経ってて。あれは苦かったよ」 「それ、飲んだの?」 「一口だけね」  そう言って彼はククッと笑った。 「うわ、とも声が出なかったよ。あまりの苦さに」  今度は僕がフッと笑った。 「淋しい大人は救いようがないね。俺はそんな人になってたんだね。君がいないと本当に淋しい。『心にぽっかり穴が空く』ってよく言うけど、本当にそんな感じだった。あったはずの臓器がなくなって、そこだけ見事にぽっかりと空洞になってる。何かで埋めることもできない。きれいに収まっている時は、それほどありがたみを感じないまま生きてるのに、なくなると、こんなにも大きな、大切なものだったんだって。失ってから気づくって本当なんだね。でも、その時の俺は、『失う』なんて言葉を口にも、想像にもできなかった。それを考えるだけで怖かったし、『君を失ってしまった』なんて思いたくなかった」  こんなにも頼りない大人なんだね、と和彦さんは言って僕に微笑みかけた。彼は笑っているのに、僕は今にも目の端っこから涙がこぼれだしそうだった。  彼の手に自分の手を重ねて、言った。 「大丈夫だよ。大好きだから」  ありがとう、って言うみたいに彼はまた微笑んだ。  口の中であっというまにとけてしまいそうな、クリームチーズ。この部屋は暖かいから、だから、とけるまえにはやく食べて。 end

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