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8一6
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病院に到着した由宇は、待合室で待ってるからと言って怜と母親の対面の現場には行かなかった。
本当は一緒に行ってあげたかったけれど、何せ怜は母親が入院してから初めてのお見舞いなので、積もる話もあるだろうと気を遣ったのだ。
橘が一緒に行っているので恐らく大丈夫だとは思うが、読みもしない週刊誌を手にしたまま気はそぞろである。
(大丈夫かなぁ……怜…)
病院に到着すると、対面間近ともあってひどく緊張していた怜の姿を思うと心配で仕方がない。
ふとした、本当に何気ない一言で精神的に不安定な母親は激昂するようだから、念の為に橘も一緒に行くとの事でやはり優しいなと思わずにいられなかった。
どうでもいい、面倒くさいと思うなら、わざわざここまで連れて来てくれたりはしないだろう。
恩師だからとそこまでしてやる義理は、正直言って無いと思うのだ。
だが橘は正義の名の元、きちんと責務を全うしようとしている。
園田家を元通りにするために、一年も掛けて。
「それ逆さまだよ?」
「えっ…!」
突然右隣から話し掛けられて、由宇は飛び上がった。
考え事をしながら、二人が歩いて行った廊下をボーッと眺めていたせいでここが病院の待合室だという事さえも忘れていた。
恐る恐る右隣を振り返ると、少々小太り気味だが優しそうな男が由宇の隣に腰掛けている。
看護師用の白衣を着ているので、職員のようだ。
「そんなに驚くとは思わなかったよ。 ごめんね」
「あっ、いえ、こちらこそすみません! …ほんとだ、逆でしたね、ハハハ…」
一文字も読んでいなかった週刊誌を、由宇は男の言う通り逆さまに持っていた。
(なんかすごい近いなー。 距離感分かんない人なのかなぁ)
乾いた笑いが漏れてしまうのは、目の前の男がやたらと顔や体を近付けてくるからだ。
ここの看護師として聖職に就いているこの男には悪いが、ちょっとキモい。
由宇は体を若干引き気味にしているのに、男は尚もグイグイ近寄ってくる。
そうかと思えば耳にフッと息を吹きかけられ、全身に鳥肌が立った。
「誰かのお見舞いかな? 君、いくつ? 可愛いね」
「……え、え? あの……」
(うわぁぁぁっ、気持ち悪いんだけど! 何だこの人!)
明らかにおかしい雰囲気に気付いた由宇は、すぐさま逃げ出そうとしたのだが一足早く男に腕を取られてしまう。
待合室には由宇しか居らず、人手不足なのか看護師が受付も兼ねていて出払っており、辺りには助けてくれそうな人が誰一人居ない。
「いいね、お肌ピチピチだ」
ちょん、と頬を触れられてニヤリとされたが、もはやこの男の顔はいやらしさしかない。
これは絶対にマズイ状況である。
右腕を強く握られて逃げられないし、顔を寄せられて気持ちが悪いしで、背中がゾワゾワしっぱなしだ。
こんな事は初めてで、どうしたらいいのか分からない戸惑いも大きかった。
「ちょっ…!?」
もう一度触れてこようと指先が顔に迫ってくるのが見えて、さすがに「触るな!」と怒鳴ろうとしたその時だ。
頭上から不機嫌な声と共に長い腕が伸びてきて振り返ると。
「俺の連れに何してんだ」
橘がまさに魔王のそれで立っていた。
その顔面の厳つさと長身に慄いた男から、由宇を容易く引き剥がしてくれた。
「お前ここの職員じゃねぇだろ。 余罪ありまくりの顔してウロつくなよ、気色悪りぃ。 んで? 俺のもんに触った覚悟は出来てんの?」
「ヒッ!?」
すっかり逃げ腰の男の胸ぐらを掴んで立ち上がらせた橘が、すぐに回し蹴りの態勢に入る。
生ぬるい視線からも逃れられてホッと胸を撫で下ろしていた由宇は、心底慌てた。
「ふ、ふーすけ先生!!」
「あ?」
こんな所で乱闘騒ぎはよくない。
この気持ち悪い男はどうなってもいいが、手を出せば完全に橘の分が悪くなる。
仮にも先生なのだから、もう少し世間体や自らの立場をわきまえてほしい。
由宇のせいで、教師を続けられなくなる事はおろか、得意の回し蹴りなどお見舞した日には警察沙汰は必至だ。
(ダメダメダメダメ!! それは絶対ダメ!!)
これ以上ないほどの睨みをきかせている橘の腕にしがみついて、由宇は「やめて」と叫んだ。
「どいてろ、由宇。 コイツの脳みそガタガタ震わせねーと気が済まねー」
「ダメだって!! お願いだからやめて!! そこまでするような事じゃないから!!」
「は?」
由宇の叫びが届いたのか、橘は今にも失神してしまいそうな男の胸ぐらを掴んだまま、由宇をも睨み付けてきた。
(……ッッッ!? こ、怖い…!!!)
これほどキレている橘は見た事がない。
暴れていた音声だけなら聞いた事があるけれど、実際に目が血走った橘を見ると体が硬直した。
なぜ自分が睨まれるんだと思いはしても、その目は理性を失う寸前である。
恐怖で背筋が寒い。
「お前それ本気で言ってんの? そこまでするような事じゃない? それ以上言うとこのままコイツの目潰しちまうからお前もう何も言うな」
「なんでだよ!! 被害者は俺! もう、いいからっ、手離せってば!! 先生が警察に捕まったら嫌だから言ってんの!」
橘が蹴りを入れれば確実にこの男のどこかの骨が折れる。
ましてや自他共に得意だと認める回し蹴りをしようとしていたのだから、由宇には止める義務があった。
確かに男からの接触は気持ち悪かったが、すぐに橘が来てくれて難を逃れたのだからもういい。
これ以上揉めると、駆け付けた本物の看護師や警備員から本当に通報されてしまいそうだ。
「捕まらねー自信あるのに。 なぁ、お前どういうつもりで俺のもんに触ったわけ?」
由宇が必死で橘の背中と腕を押さえているので、蹴りは繰り出せないとようやく諦めてくれたらしい。
左腕で胸ぐらは掴んだまま、橘が男に凄んだ。
(ふーすけ先生、俺の事さっきからずっと「俺のもん」って言ってない…?)
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