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9一1
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すっかり陽は暮れてしまって、念願の露天風呂に浸かっているはずの橘は車中からここまで何かの意地のように無言を貫いている。
ピリピリとした雰囲気を纏っているせいでまだ怒りが治まっていないのかと思ったが、魔王全開なので無言の理由を聞くに聞けないでいた。
(また大暴れしてたもんなぁ………)
橘の言葉達は小さな衝撃を生んでいて、由宇の心はツンツンと痛かった。
そんな心情に浸る間もなく、ヘッドホンからは少々の雑音混じりに橘の怒鳴り声と物が大量に破損する音が轟いてきて、咄嗟にイヤホンを耳から外してしまった。
とてつもない物音と、何と言っているかは分からなかったが橘の怒号は引くくらい壮絶であった。
呑気な二人が、以前と変わらないスタンスを継続中で「なぜ会ってはいけないのか」と橘の怒りに火を付ける能天気発言を繰り返していたせいだ。
話を聞くと言っていた通り、始めは真剣に耳を傾けていた橘も、ヘッドホンで中の様子を聞いていた由宇が思わず「ヤバイ!」と叫んだほど、呆気なくその時は訪れた。
最後の橘の台詞に、無神経なバカップル二人はきっとビビり上がった事だろう。
『二度目はねーぞ。 人の心の痛みを軽んじてる奴は俺が容赦なく制裁くわえるからな。 二人とも、左目と左耳使えなくなる覚悟しとけよ』
それは、橘の右足から繰り出される回し蹴りにて制裁をくわえる事を意味していた。
物を次々と破壊していたのは、本当は二人に回し蹴りをお見舞いしたいが妥協して暴れているのだと、そこで初めて知った由宇である。
怜の母親の状態を目の当たりにしたはずの歌音は、まったく心変わりしていなかった。
それだけ、怜の父親との恋愛に溺れているという事だ。
由宇にはとてもじゃないが分からない世界だった。
「ペナルティが12なんだけど」
「何っ?」
しばらく口を噤んで露天風呂に浸かっていた橘が、唐突に話し掛けてきた。
先程の怒号と捨て台詞にブルッと身を震わせた直後だったので、いきなりさも手伝い何と言われたのか分からなかった。
「ペナルティ。 今晩でチャラにしてやるから、拒むなよ」
(……ペナルティ? あぁ、ペナルティね)
「な、えっ!? ちょっと待って、俺の知らない間にどんどん増えてんだけど!」
納得しようとして慌てて橘を振り返ると、由宇から離れて露天風呂を堪能していた橘がいつの間にかすぐそばまで迫って来ている。
移動したはずなのにお湯の跳ねる音もしなかったから、橘の気配の消し方は尋常ではなくうまい。
などと悠長に感心している場合ではなかった。
ペナルティとやらが、由宇の記憶よりさらに追加されている。
「あー2はおまけ」
「何だよそれ! おまけシステム要らないよ! てかペナルティってマジで何!?」
「緑が見たかったのになー。 曇ってっから月も見えねーし。 ほんと最悪」
「ふーすけ先生!! はぐらかさないで教えてよ!」
橘は空を見上げて眉を顰めた。
まだ若干怒りの名残りがあるようだが、それは由宇には関係のない事だ。
いつもいつも、説明が足りない。
何度聞いてもはぐらかされる謎のペナルティで、由宇はいつまで怯えなくてはならないのか。
「教えるまでもねーだろ。 ペナルティはペナルティ。 俺をキレさせた分、ぷんポメは俺を宥めないとな」
「宥めるって……」
「いいか、明日からの放課後は勉強三昧だと思っとけよ。 職員会議の日は早めにLINEしとく」
「先生ーっ会話しようよ! 俺パニックなんだけど!」
話が噛み合わないのはよくある事だけれど、今日は特にヒドイ。
怜の説得は終わって次の段階に進んだのだから、放課後の約束も無くなったのだろうと思っていたがどうやら違うらしい。
今日は由宇にとって目まぐるしい一日だったので、頼むからこれ以上疲れさせないでほしいと思った。
ただ単に説明を欲しているだけなのだが、張本人は悪魔な顔で夜空を見上げて唸っている。
雲の切れ間から時々現れる月を眺めていた橘は、また少し黙った後、なんの躊躇もなく立ち上がった。
「出るか」
「ちょっ!? 待ってよ、先生! …って、行っちゃうし」
(何だよあれ! 訳分かんないよー!)
気まぐれでマイペースなのはいつもの事だ。
だが今日は本当にいろんな事が起き過ぎた。
このままではとても眠れないと思い、橘を追い掛けた由宇も慌てて脱衣所へと向かう。
「先生! 何なんだよ! お願いだからちゃんと説明して!」
夕食時だからか、由宇達以外は誰も居ない広く快適な露天風呂を満喫する余裕は微塵も無かった。
浴衣を羽織る橘の色気に圧されながら、タオルを握り締めて詰め寄る。
「拭いて来いよ」
「俺はそれどころじゃないの! 先生、何がしたいんだよっ? 言いたい事もさっぱり分かんない!」
オロオロと取り乱す由宇を、冷静な橘の視線が射抜く。
(こ、この目…!)
意味深な視線から逃れるように、由宇は雑に体を拭いてから浴衣を羽織ってみた。
全裸で居続ける事が嫌で大慌てだった。
そして苦手な帯を巻いてみようと頑張るが、思うようにいかなくて首を傾げてもたついてしまう。
間近まで橘が迫っている事にも気付かないで。
「何がしたいって、セックス」
「セッ…!?? い、いや、俺はしたくない!!」
「お前とじゃねーよ。 何を勘違いしてんだ。 こんな雰囲気あるとこ居たら、そう思っちまうのはしょうがねーだろ?」
もたつく由宇の手から帯を奪うと、橘がサササッと帯をしめてくれた。
ネクタイもそうだが、由宇は不器用過ぎて仕上がりはいつもぐちゃぐちゃだ。
昨日も、そんな悲惨な帯を見て微笑を浮かべて巻き直してくれていたけれど、これは少しだけ抱き締められる態勢になるからかドギマギした。
入学式の日に桜の木の下でネクタイを結び直してくれた光景がチラついて、心臓がうるさくなってくる。
「せ、先生、っあの………」
(近い、近いよーーー!)
「黙れ」
抱き締めてはくれない橘の顔が迫ってきている。
黙れと言われても、今にもキスされそうなほど迫られては心臓に悪かった。
説明のないキスなんか、されたくない。 どうせまたはぐらかすに決まっている。
由宇は拒否の意思を持って、迫り来る橘の胸を押した。
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