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謝罪を求めていたわけではなかったけれど、橘が由宇の気持ちを分かってくれたのなら、それだけで心が落ち着いた。
ツラくない、いや、ツラい、いややっぱりツラくない。
そうして気分が上がり下がりしながら、約一年間の橘への片思いを無理に持続させていた。
そうしなければ、由宇の不安定な心が粉々になってしまいそうだった。
美化された片思いの間、橘の姿を見る度に心が締め付けられて痛くて、けれどどうしようもないほど甘やかな想いにも襲われて、戸惑う由宇にはたった一つの事しか分からなかった。
橘の事が好き。 ──これだけ。
切なくなるほど、苦しくなるほど、眠れなくなるほど、心がむず痒かった。
婚約者が居て、おまけに十近くも歳上な橘にはこの先何があっても振り向いてもらえないと思っていた。
悪戯に由宇の心をかき乱すだけかき乱し、何事も無かったかのように冷たくなった橘に憤った事もあった。
しかし、由宇を見詰める彼の物言わぬ瞳はいつも、未練を匂わせた熱を含んでいた。
(冷たくするならそんな目で俺を見るな!って、何回も言ってやりたかった…)
叶わないなら、言わない方がいい。
橘の心が由宇に傾く事で正義を貫けないなら、由宇は身を引く事しか出来ない。
行き場のない淡い恋など、本当は死ぬほどツラかった。
平気なフリなんて出来ていないと思っていたけれど、持ち前の謙虚さが由宇の虚勢をうまく隠してくれていたのだ。
寂しかった。
ツラかった。
もっと早く振り向いてほしかった。
この気持ちを橘に言ったところで、「そっかそっか、悪かったな」と軽い口調で返されてしまうと思っていただけに、心からの謝罪の言葉は由宇の胸を打った。
恋人になれた事だけですでに心満たされているのに、橘はあの時の思い丸ごと抱き締めてくれた。
これ以上、伝えようがない。
もう充分。 充分、報われた。
由宇は橘の胸を押して、息苦しさから逃れた。
加減を知らない橘からの包容は、苦しいのに頬がほころぶほど力強かった。
「沈黙が長いな」
「な、何…っ?」
「「謝らなくていいよ」っての待ってんだけど」
「それは俺が言う事だろ!」
「だから待ってる」
「なんで先生はそんなすぐふざけ……っ! むぐっ!」
「うるせー。 何時だと思ってんだ」
(先生が悪いんだろ! さっきから感動したり呆れたり忙しいんですけど!)
感涙したはずの由宇がキッと目尻を吊り上げた矢先、口元が包帯で覆われた。
あれほどたっぷりと「ごめんな」に気持ちを乗せてくれていたのに、台無しである。
すぐに冗談めかす、橘のこの癖は何とかならないものか。
「いや、悪い。 こんな空気味わった事ねぇから。 …その辺の青臭いガキみたいだな、俺」
「ほんとだよ。 照れ隠しで茶化してるように見えるよ」
「なんだと?」
「わぁっ、怖い! 睨むのやめてよ! 俺、先生の可愛い恋人!」
「……フッ…自分で言うのかよ」
「だってそうだもん! えっ、てか、そうでしょ!? ハッ…ち、違うの!? いや、待って、先生からちゃんと「好き」って言われてないし、まだ俺は先生の恋人じゃないって事!? 体だけもてあそんだのか! ひどいよ! なんでそんな事が出来るんだ! やっぱ悪魔だ! この悪魔め!」
茶化された事が頭にきて、由宇はもう一度橘の胸ぐらを掴んで揺さぶりながら怒り狂った。
自分で言って思い出したが、まだ橘から「好き」という言葉を聞いていない事も火に油を注いだ。
あり得ない。
それを聞くためには由宇は射精を我慢しなければならなかったが、そんなもの出来ようはずがない。
現に橘は射精を促してきたのだ。
インチキ混じりの条件下だった事までも思い出すと、由宇のむくれは治まらなかった。
一度でいいから言ってくれてもバチは当たらない。
目の前で橘がクスクス笑い始めても、由宇はムッとしたまま胸ぐらを掴んでいた。
「お前どんだけ喋んだよ……ウケる」
「ウ、ウケ…る…っ!? 先生は正真正銘の悪魔だ! 俺がこんなに怒ってんのに、なんで今笑えるんだ!」
温度差の違いが可笑しいらしく、橘はひどく楽しげに、だがとても上品に笑っている。
息巻く由宇は、そんな橘を信じられない思いで彼が笑い終えるまで見詰め続けた。
数分もの間クスクスしていた橘は、唐突に由宇を抱き上げて立ち上がり、ベッドルームへと移動する。
落ちないように慌てて首にしがみつくと、また「フッ…」と笑われた。
もう笑うな、と言いたいが、普段が普段なので橘の笑顔が眼福なのも確かだ。
優しく横たえてくれた彼は、笑みを絶やさないまま由宇に言い放つ。
「今すげぇ幸せだからだよ」
「…………へっ?」
また、出て来た。
先程から出たり引っ込んだりする、真剣かつマイペースな橘風助が。
感情が忙しいどころではなかった。
呆けた由宇の見上げた先には、その言葉通り幸福に満ちた穏やかな恋人の顔が、そこにあった。
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