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19一4
パタパタとスリッパの底を鳴らし、一応は由宇も急いで靴を履いた。
こんなに慌てふためく訪問で良かったのだろうかと不安になりながら、橘と自身が脱いだスリッパを揃える。
「橘くん」
「あ?」
扉を開けようとノブに手を掛けた橘の背中へ、怜の母親が神妙に呼び止めた。
そして、────。
「……ありがとう。 助けてくれて、ありがとう。 あのままあそこに居たら、私は今ここに居ないかもしれない。 …本当に、……ありがとう」
切々と感謝を伝える怜の母親に対し、橘はノブに手を掛けたまま微動だにしなかった。
振り返ったのは由宇だけだ。
その瞳には涙が溜まっているように見えて、思わず視線を外す。
ここに居るべきではない由宇が、まさか二人の間に挟まれるとは思いもしなかったので、立ち竦む橘の沈黙がやけに長く感じていたたまれなかった。
「………恩返しはしたからな。 …じゃ、また」
橘は振り向く事なく扉を開け、それだけ言って由宇を置いて行った。
泣きそうな女性を前にドギマギした由宇は、礼儀知らずな橘の代わりにペコッと頭を下げ、「お邪魔しました!」と言い置いて長身の後ろ姿を追い掛ける。
「先生、ちょっと冷たいんじゃないっ?」
「園田さんにはあれでいいんだよ。 親よりあの人の方が俺の事をよく分かってる」
「……………………」
そう言われてしまうと何も言えない。
由宇も「橘らしい」去り方だったと思ってしまったが故に、それ以上怜の母親の肩を持てなくなった。
胸ポケットにしまわれていたサングラスを掛けて、エンジンをかけた橘がふいに由宇の方を向いた。
シートベルトを嵌めていた由宇は視線を感じて顔を上げるも、サングラスの色味が濃くて橘の瞳がどこを見ているのか分からない。
「お前連れてって正解だったわ。 最近な、初体験のシチュエーション多くてどう対応すりゃいいのか分かんねぇんだよ。 ああいう場合はどういう顔してればいいんだ?」
「先生……ぶっちゃけ過ぎだよ…」
「お前には何言ったっていいだろ。 こんな事、お前にしか言わねーんだし」
くしゃくしゃと髪を乱す橘が、優しい。
怜の母親の元気な様子を見て安堵しているのが、その手のひらと表情からもよく分かった。
橘はいつもの無表情だが、由宇には、ここへ来る前より顔付きが穏やかになったと極々僅かな変化にも気付けるようになっている。
由宇にだけ本心を言うところにも、とてもキュンとした。
彼は責任感と正義感がたっぷり溢れる男なために、周囲には一切隙を見せないのだ。
「そう、なんだ…」
「そ。 これが弱音だと思われんのは納得いかねーけどな。 分かんねぇもんは分かんねぇ」
「……まぁ…先生らしくていいんじゃない」
「だろ」
ニヤリと笑った黒ずくめのサングラス悪魔は、お決まりの片手運転で器用にハンドルを操作する。
助手席で大人しく前を見据えている由宇へのちょっかいも、忘れない。
信号待ちの度にほっぺたをつねるこれは一体何なんだと膨れつつも、構われるのが嬉しくてされるがままだ。
車内に立ち込めるムスクの香りが、煙草の煙で薄まらない。
順調に、橘なりの禁煙が成功している。
「ガム取って」と懐かしい台詞を言われた時はドキリとしたが、去年のように試すような真似はされなかった。
代わりに、渋滞にハマった際に唇を奪われて舌を絡ませられたけれど、舌から感じたミントの風味は、今の由宇には爽やかで喜ばしい幸せの味だった。
「あ、そうだ。 帰って桃ゼリー食えば」
「え!? 俺の分あるの!?」
「三つ買ってたの見てなかったのか」
「み、見てたけど…! 俺の分だとは…!」
「かじりついて見てたから食いてぇのかと思ったんだけど。 違ったか」
「違わない! 食べたかった! やったぁ、嬉しいーっ!」
車内で万歳して喜びを表す由宇の口の中から一気にミントの味が消えて、桃味の記憶が口腔内に広がる。
一度は食べてみたいと思っていたので、いつかおねだりしてご馳走してもらおうと目論んでいたがその必要は無かった。
ショーケースに釘付けだった由宇をまさか見られていたとは思わず、この調子では怜宅に持って行ったそれを未練たっぷりにチラチラと盗み見ていた事までバレていそうだ。
「美味しそうだから自分も食べてみたい」とは、由宇の悪い癖である遠慮が先立って言えなかった。
些細な事かもしれないが、由宇は橘のこのさり気ない優しさがどうしても、好きで、好きで、たまらない。
胸が熱くなり、悪魔の横顔に心がキュンとした由宇は、万歳はやり過ぎだったと静かに腕を下ろす。
しかし堪えきれない由宇の挙動は落ち着かない。
膝をパタパタと叩いて待ちきれない様子を見せていると、ハンドルを握る橘が「コホン」と咳払いをした。
「フッ……可愛い」
「……………!!」
とてもやわらかな声に橘を見ると、口元が笑っている。
片方だけでなく、両方の口角がほんの少し上がっている。
ふとした時にこういう笑い方をするから、由宇は橘の事しか見えなくなるのだ。
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