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めんどくさいだの、電子煙草が吸えないから嫌だ(食事の後は我慢出来ないらしい)だの、色々と理由を付けて断るものだとばかり思っていたけれど、父親と打ち解けた橘は本当に由宇宅で夕飯を済ませた。
橘との趣味の話に上機嫌な父親は高級和食店での仕出しを振る舞っていたが、橘は遠慮無しに自分の刺し身皿を由宇に渡し、代わりに冷奴を奪った。
嘘と飾り気が皆無な橘の事を、厳格な父親がたった数時間で気に入ったのは明白だった。
「ところで、由宇君の話なんすけど」
「あぁ、何かね?」
食事の後、ダイニングからソファの方へ移動し、母親が入れたコーヒーを飲む橘が唐突に切り出す。
橘の隣でコーヒーカップに口を付けていた由宇は、打ち解けたその日のうちに何か余計な事を話し始めるのではないかと気が気ではない。
ただし、間接的にではあるが「由宇君」という呼び名が聞けて、頬が緩みそうになった。
「医学部受験のために予備校考えてるっしょ? てか今の時点で行ってないのはかなり遅れ取ってると思うんすよ」
「………そうだな。 いつからか知らないが家庭教師を断ったそうだからな」
「俺的に家庭教師はダメっす。 数学は俺がマンツーマンで教えるんで他を補えれば充分。 由宇君の場合、数学以外は偏差値基準クリアしてるし」
「数学をマンツーマンで? なぜそこまでしてもらえるんだろうか?」
存外真面目な話に安堵し、熱々のコーヒーを吐息で冷まして飲む。
ほろ苦いそれは由宇には少し大人びたものだったが、家族が揃い、かつ恋人である橘もこの場の朗らかな空気に、その苦味さえ旨味に変わった。
放課後の数学の個人授業はこれからも続けてもらえると聞いて、嬉しかったのもある。
ランニングはスパルタかもしれないが、それも由宇のためを思っての事だと分かっている。
(先生とたくさん時間を過ごせるなら、俺、頑張るもんね。 ……うん。 先生、俺…頑張るよ)
父親と同じ外科医になるには並の頑張りでは駄目だ。
隣で発破をかけてくれる橘が居なくては、由宇は頑張れない。 頑張りたいと思えない。
目標が定まっている由宇は、これからの事を橘も交えて両親と語らうつもりでいた。
なぜなら橘がそういう話に持っていってくれたからだ。
由宇は何気なく、橘の横顔を見詰めた。
彼の口から思わぬ台詞が飛び出す事など、知る由もなかった。
「高校卒業したら貰いたいからっす。 てか貰いに来る気満々。 俺が守ってやんねーと誰が守るんだって話だしな」
「………どういう意味かね…?」
「せっ、先生っっ!」
(なっ、なっ、何言ってんだよーっ! お父さんもお母さんも唖然としちゃってるじゃん…! この空気どうしてくれるんだ!)
皆が皆、橘のように強心臓ではない。
いきなりの爆弾発言に、両親はその意味を理解しようと沈黙し僅かに首を捻っていた。
橘もそれ以上は発さなかったが、当然である。
ほんの三分前に時間を巻き戻せたらいいのにと、由宇は震える手でコーヒーカップを掴んだ。
橘の言葉を、両親がどう理解したのか分からなくて怖かった。
二人の言い争う声はあの暴露会からパタリとなくなり、こうして家族で夕飯を囲む事も増えて家の中の雰囲気はとても良いものへと変わったけれど、現在またあの時の比ではない重苦しい空気が流れている。
沈黙は長かった。
普段は気にもならない冷蔵庫の機械音がまともに聞こえて、外の冷気が家の中にまで入ってきているのではないかと疑うほど、由宇の心が動揺し体が冷えてきた。
すると何を思ったか、橘は悠然と背凭れに体を預けて由宇の肩を抱いた。
『これを見て察しろ』
そう言わんばかりの態度に、目の前の両親の瞳が見開かれる。
(うわわわわっ……! ヤバイよ先生…! こんなっ…こんな…っ)
いきなりここまでしなくても、橘との関係は少しずつ少しずつ、時間を掛けて両親に打ち明けていくつもりだった。
そう。 他の誰でもなく由宇自身が言うべきだろうと思い、図らずも橘と父親が仲良くなった今日はその第一歩だと喜んでいたのに、一瞬でふいになる可能性が出てきた。
橘の腕を振りほどかない由宇を見た父親は、橘からの無言のメッセージを受け取ったのか、由宇達から視線を逸らしてコーヒーに手を伸ばす。
目を逸らされたとビクビクしていると、橘はさらに由宇の肩を抱く手に力を込めた。
ついには母親にまでも目線を逸らされたが、由宇はイチャイチャしていたつもりなど毛頭なく、単に脱力しきってしまい振りほどく気力が無かっただけだ。
「…………今は受験だ。 何よりも、受験が最優先だ。 分かるな、由宇?」
チラと由宇を見た父親は、「何よりも」を強調した。
それは、橘のメッセージを受け取った事の確固たる証明だった。
もう諦めるしかない。
ここで由宇が何をどう弁解しようとも、隣には悪魔の顔でニヤリと笑った橘が居る。
時期尚早過ぎだとは思うが、由宇は橘を信じて頷いた。
「……う、うん、……分かってる」
「橘、先生…と言ったかな」
「おぅ」
「……あの時の君の激怒は効いた。 すべて図星でぐうの音も出なかった。 君の言葉で我が身を振り返ってみると、恥ずかしくてたまらなかったんだ。 自分のしてきた事が」
「八方塞がりになるように全方位固めてから突撃したんで、改心してくれて何より」
由宇は、不敵に唇の端を上げて笑う橘の横顔と、呆気に取られた母親の顔、そして厳しかった父親の畏まった表情をぐるりと見回して、最後にもう一度、橘を見た。
彼は、不敗神話男の異名を欲しいままにした。
短期集中型。
橘の信条が貫かれた瞬間をまたも目の当たりにして、由宇は惚ける事なく心に誓った。
(───ずっと付いてく。 俺は先生に、ずっと、付いていく)
これまでの出来事どれ一つ取っても、橘は己の道を突き進んでいた。
隠しきれないヤンキー感は丸出しだが、彼は常にブレない。 正義感と責任感の塊だ。
「由宇の家庭教師がてら、また茶でも飲みに来なさい」
帰宅する橘を玄関まで見送る父親の隣に居た由宇は、不思議と晴れやかな気持ちだった。
「お父さん、…ふーすけ先生の実家は茶道家らしくて、先生の淹れてくれるお茶めちゃくちゃ美味しいんだ。 今度会う時は先生にお茶淹れてもらいなよ」
「えーめんどくさ」
「先生っっ!」
「軽やかな冗談じゃねーか。 そんな目ん玉開いてたら眼球落とすぞ」
「落とさないよ!」
「冬休み明けたら個人授業再開すっからな。 それまで「宿題」は欠かさずやるよーに。 じゃ」
背を向けた橘は、「お邪魔ー」と言いながら玄関を出て行った。
パタン、と戸が閉まり、家族だけの空間になると途端に由宇は心細くなる。
「───教師全員が橘先生のようだったら、世の中は平和になるのにな」
ポンポン、と頭を撫でてきた父親のこの台詞に、泣き虫な由宇の涙腺は崩壊した。
好きだと、橘の事がどうしようもなく好きだと、男前過ぎる彼との内情が尊いあまり、涙が枯れるまでむせび泣いた。
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