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第1話

「俺は愛が何かなんて、わかってなかったんだと思う」  今朝恋人と別れた。自分のためだった。だいぶ前から、このままずるずる続けていっても何の役にも立たないと感じていたから。  進学する予定だった大学院に願書を出さず、親には家業を継ぐと電話を入れた。そこまで自分が逃げられないようにして、やっと彼に別れを告げることができた。 「君が初めて俺にキスしたとき俺はまだ十二で、世界が自分に対して敵意を抱いているように感じていたから、愛してる、と囁いた君を、俺も愛していると錯覚したんだ」  愛していないのに別れられなかったのは、ひとりになるのが恐しかったから。ただそれだけの理由。 「それからずっと、そうやって生きてた。  君が俺を愛してる。それだけが俺が生きていていい理由だった。君を愛してる、その錯覚によってだけ俺は存在を許された。  俺は君を愛してるはずだと自分を思い込ませるために君に近づく人間に嫉妬をした、そして君を傷つけた。  君は本当に俺を愛してくれてるんだと思う。でも俺の心はどんどん凍りついていくんだ。何回愛してると言ってみても、駄目なんだ。  どんどん俺は君に淡泊になっていく。たぶん俺は自分にすっかり嘘をついているんだ。それは俺の存在を根本から突き崩すから見ないようにしていた、でもこの嘘ももう長くは保ちそうにない。  つまりね、……俺は君を…愛してないんだと思う。  だから、君は俺から自由になった方がいいし、俺も君から、自由になった方がいいと思う。…別れよう」  彼はいつものように少しだけ苦く笑って、気づいちゃったか、と言った。たぶんその瞬間が、一番彼を愛しく思った瞬間だった。  彼は何もかも知っていて、それに僕が気づかないでいる時間がなるべく長く続くことを祈っていたのだ。だったら、彼のために気づかないふりをするべきだったのだ。  そのくらいは、僕も彼が好きだったんだから。  でも駄目だった。自分は子供すぎて彼がそう言うまで彼の思いに気づけなかった。もう言ってしまったことは、なかったことにはできない。  もう彼とするべきことはさよならを言い合うことぐらいしか残されていなかった。さよならと彼が言ってくれた。彼はいつだってトニーを助けてくれる。  さよならとトニーも言った。  彼は頬杖をついたまま顔を上げなかったし、トニーも彼を見ないでフラットを出た。それはすごく、重要なことだった。そうでなかったら、トニーはその場で泣き崩れてしまったかもしれないから。  フラットを出てすぐ、駅からサセックス行きの電車に乗った。  サセックススコット。エディンバラからイーストボーンまでを走っている。大学生になってからは、クリスマスも実家に帰らなくなっていたが、寄宿舎学校にいた少年のころは休暇のたびによく利用した。  何度も見た車窓からの風景。イングランドの平和な田園風景は、どこまでも広がってトニーにやさしい。もう二度と、見ることもないのだろう。  ダッドとマムと、死んだ犬のトーマスのいとこのバーナード。それから馬のブルーとホリー。トレーナーのジャック。ロージーはどのくらい家に連絡をしてるんだろう。最後に会ったとき、ベッドの上だったダリルは?  逃げ出してきた恋人の名前を思い出さないようにしながら、彼はひっそりと呟く。  四年ぶりの故郷だ……。  アンソニー・C・ブラッドフォード、二十一回目の夏が始まろうとしていた。  トニーの家はバーンハウスと言って、もともと馬場だったものを改築した農家によくある特徴的な家だ。そっちの方が近道なので、彼はいつもの通り裏口から入っていった。通り抜けてきた背後は林。彼の家の私有林である。  重い木製の扉を開ける。  若いジャックラッセルがやってきて、トニーの匂いを嗅いで親しげに短い尻尾を振った。トニーに膝を折り曲げてそれを撫でた。まだ子犬だ。新しい犬を飼ったのだろう。  トニーはどこか違和感を感じたが、長い間帰って来なかったせいだと自分を納得させた。  犬はリヴィングまでついてきた。父はそこの暖炉の傍で本を読んでいた。夏なので火は入っていない。 「ただいま、父さん。母さんは?」  父は顔をあげて彼を見た。老眼鏡を外して机の上に置く。彼は随分老けた父の顔を見て、少しショックを受けた。わかってはいたはずだったが。 「あれ、どこに行ったんだ? ついさっきまでここにおったんだがな」  もともと自分は遅くなってから生まれた子供だから、父はもう何年も前に仕事から引退している。 「手紙はどこかね?」  父が聞いた。 「手紙って、何のこと?」 「お前さんは郵便配達夫じゃないのかい」 「父さん、何言ってるの…僕は大学を卒業して帰って来たんじゃないか。電話しただろ? 農場を手伝うって……トニーだよ?」 「トニー? お前さんもトニーと言うのか。奇遇だな。わたしの息子もトニーと言うんだ。わたしのトニーは寄宿舎学校に入っているんだが。あれは昔から友達を作るのが下手で、いつも心配しているんだよ」  トニーは唐突に、違和感の理由に気がついた。家の周囲が静かすぎる。自分と父の声以外誰の声も聞こえないのだった。  ……馬のトレーナーの掛け声も母がキッチンで食器を動かす音も、馬の嘶きも。  ……僕は、本当に自分の家に帰ってきたんだろうか?  眩暈がした。  玄関のベルが鳴って、トニーは体を震わせる。隣に住んでいるミセス・レーンだった。 「まあ、トニー! 帰ってきたのね、ジェフも喜んでるでしょう」  婦人の問いになんと言ってよいかわからず、トニーは黙っていた。  彼女は小柄で白髪の老女だが外見ほど老けておらず、トニーの記憶のかぎりでは四年前には日曜に教会でオルガンを弾く係で、ほぼ父と同い年だったはずだ。 「ジェフ、これが今日のディナーよ、ラムが手に入ったの」  彼女は親しげに父親に話しかけた。早くに夫を亡くしたせいもあって、彼女は昔からブラッドフォード家と仲がいい。 「ああキャロライン、よく来たね。ありがとう。わたしの時代には男が料理なんかしない時代だったものだからね、ジニーがロンドンに行くと本当に困ってしまうんだ」 「母さん、ロンドンにいるの?」  やっと会話のきっかけを掴んで、トニーは聞いた。婦人は哀れみをたたえた表情になった。 「…トニー……知らないのね?」 「知らないって、何をですか」  彼女は少し黙りこんでから、父にに向かって微笑んだ。 「ジェフ、わたしこの青年とお話があるのだけど、いいかしら、ちょっと失礼して」  彼も微笑んだ。 「いいとも。でも早く帰ってきてくれよ。一人で夕食を食べるほど侘しいことはないからね」  いやな予感がした。できることならこのまま、回れ右をして学校に帰りたくなるくらい。  小さいころ、日曜に教会に行くのが怖かった。墓地には死んだ人の霊が出ると誰かが言ったからだ。  不安になってある時学校に帰ってからキースに聞いた。キースは笑ってそんなの非科学的だ、と言った。トニーが安心して笑うと、笑うと可愛い、彼はそう言ってキスをした。  今だったら、幽霊でもいいからあなたに会いたい。マミー。 「……どうして…誰も、俺に連絡くれなかったんだろう……実の母親が死んだっていうのに……」  言いながら、もう何もかも無意味だと思った。悪いのは、いつまでも家に帰らなかった自分なのだ。 「ジェフとジニーしか、知らなかったの、あなたとロージーが今どこにいるか…わたしたち、一生懸命あなたたちの居場所を探したのよ。でも、ジェフは、多分ジニーがもうここにいないってことが信じられなかったのね、トニーはボーディングスクールにいる、なんて言うの」 「……」 「…あなたは四年も前に大学に行ってるのにね。ロージーはフランスにいるって言うのよ、…ダリルと結婚して。ジニーはいつもロンドンで……つまりジェフの時間は昔に戻ってしまったの」 「…ダリルは今、どうしているんです?」 「二年くらい前にフランスに帰ったようよ。…彼にとってはそれが一番いいと思うわ」  トニーは首を振った。 「……信じられない」  そんなトニーの腕を取りながらミセス・レーンが囁いた。 「わかるわ」  トニーは思わずその手を振り払っていた。 「俺は信じない…! 信じるもんか…」  ミセス・レーンは何か言いたげだったので、耳を塞いでトニーは叫んだ。恋人と別れてから初めて、涙が零れた。止まらなかった。 「それじゃあ君はリーズ大学で数学と生物の学士号を取っているのか。ポストマン」 「僕は郵便配達夫じゃないと言っただろ、父さん? あなたの農場を手伝いに帰ってきた息子のトニーだよ」 「そうか、思い出したぞ。君はトレーナーのジャックなんだな。そういえばジャックはいつもわたしのことを父さんと呼んでいたっけな」 「僕はトニーだよ」 「お前さんの名前はトニーというのか。わたしの息子もトニーというんだ。本名はアンソニーと言ってHが入るんだ」 「だから僕がそのトニーなんだよ」 「冗談はやめてくれ。トニーはまだ十二歳のリトル・ボーイなんだ」 「………」 「…デザートはいかが、ジェフ、それからトニー? 苺のクランブルがあるけど、クリームかアイスクリームか、どちらが良いかしら?」 「少なめのクリームをよろしく、キャル。トニー、お前さんは何がいいかね?」 「……いらない」 「そうか、もったいない。それならわたしが食べよう」 「…読みたい本があるから、上に行ってもいい?」 「上は子供部屋しかないよ。ジャックの部屋を使いなさい。そこの廊下の終わりだ」  ……冗談をやめてほしいのは、僕の方だ。  トニーは隣家までレーン婦人を送っていった。道すがら、彼女はトニーに言った。 「ねえトニー。失ったものは取り戻せないけど、今まだ手にしているものまでも捨ててしまわないでね?」  なにもかも知った様子の、彼女の態度が気に障る。自分は、誰よりも不幸の経験があるみたいな顔をして!  白馬の上にロージーがいる。その隣の光の当たり具合で青く見える馬がトニーのブルー。慣れない乗馬帽に眉をしかめている僕。裸の馬に乗っているのは父さんと母さん。この写真を撮ったのはダリル。ロージーのフィアンセ。  長い廊下の壁に、延々と飾ってある子供の時の写真。もう十年以上前からここにある。  ひとつだけ、寄宿舎学校の卒業式の写真があった。父さんと母さんとスーツを着た僕。十七歳。僕はまっすぐカメラを見ていない。だって、僕はあの時ひとりで立っている、恋人だった彼を見ていたから。彼の家族は彼の卒業式に来てなくて、僕は罪悪感を感じてた。  これが最後の写真だった。僕の家族はだんだん減っている。ダリル、ロージー、それからマミー。そういえば家族ではなかったけれど恋人も失った。  近いうちに僕は、父親も失うのかもしれなかった。もう、半分以上失ってるのかもしれない。彼はトニーをトニーだとはもう思っていないのだから。  もう涙は出なかった。ああそうか、と、そんな感じですとんと理解した感じだった。誰も劇的に失ったわけじゃなくて、後からもういないんだよと告げられてばかりいるせいかもしれない。  世の中はこういうふうにできてるんだ、そんなふうに納得させられた感じだった。  もうひとつの喪失感は寝る前にやってきた。  梟の鳴き声が聞こえるほど周りがしんとしているのも違和感を感じたが、四年ぶりのひとりきりのベッドも辛かった。恋人と暮らしていた四年間、ひとりだった夜がなかったわけではなかったが、それはいつも彼の帰宅を待っている夜だった。  誰も来ないとわかっているのに、小さな物音に目が覚めた。目を開けるとそこは見慣れた部屋ではないので、それが辛くてまた目を閉じる。しかしまた次の物音にドアを振り返ってしまった。  三時五分。手元の時計が光ってそう言っていた。十中八九、彼はフラットにいないだろう。誰か、彼を慰めてくれる友達か恋人の所に逃げこんでいるはずだ。  そんな夜に彼が携帯電話を持って出かけているわけはない。フラットに置きっぱなしに違いなかった。  電話をかけることにした。彼の声は聞こえないが、彼の声が聞きたいわけではなかった。  夏でも、夜は冷える。廊下を歩いているうちに足の指が冷たくなった。  台所にある電話の子機に手を伸ばす。記憶にある彼のナンバー。  自分の電話が彼の部屋の携帯の機能を揺らしていると思うと、身震いがするほどときめいた。呼び出し音を随分聞いた後、テレフォンサービスの無機質な声になった。留守番電話にメッセージをどうぞ。  トニーは電話を切るともう一度同じナンバーを押した。昨日までいた彼の部屋が目に浮かぶ。家にいるとき彼は大抵本棚の二段目に携帯を置いている。彼の背の高さなのだ。  『トニー、エリオット、喋る?』僕を見る、優しい顔。親友から電話をもらった時。冷たい目でずっと切った後も電話を見てる時。『……親』それだけ教えてくれる。僕から電話を受けた時、君はどんな顔をしてたんだろう。 「ああ……」  彼の嬉しそうな顔が浮かんで、思わず熱い溜息を漏らす。呼び出し音が切れて機械の声になった。  電話を切ってもう一度かけなおす。  再び呼び出し音が鳴り出した。  あの部屋で彼は少しだけ苦く笑う。……気づいちゃったか。 「ああ、キース、キース、キース、好きだよ、愛してる、愛してる、愛してる……」  何の意味もないことを知っていたけれど、恋人の名前を呼んでトニーは泣いた。  呼び出し音が切れて、彼はまた電話をかけなおした。左手が下半身に伸びる。何度も電話を繰り返しながら、夜明けまで彼は自慰に耽った。  そんな夜が、何日も続いた。他に何をするべきなのか、想像もつかなかった。  ある日の午後、…その日は土曜日だったが、どこにも行っていないトニーには関係なかった…昼食の後のコーヒーを飲みながら本を読んでいるトニーに父が聞いた。 「ポストマン」 「トニーだよ」  アインシュタインを邪魔されて、少し不機嫌な表情でトニーは答えた。大学の専攻は生物と数学だったが、物理は趣味だ。 「ポストマン。お前さんははいったいいつまでここにいるつもりなんだね?」 「いつまでって……」  トニーはびっくりして、コーヒーカップを取り落としそうになった。自分は父にとって絶対に息子ではあり得ないのだと再確認させられる。ぞっとした。  どこかに行かなくてはならないのだ。 (僕は、どこかに行かなくちゃいけないんだ) 僕には、自分の家に居場所はないのだ。 「…いつまでもだよ。……他に、行くべき場所も思いつかないし…」  父は嫌がるかもしれないとトニーは思った。他人が自分の家で何もせずにただ食事だけしているなんておかしな話に違いない。もっとも彼がどの程度おかしいと思っているのかそれはよくわからないところだったが。 「そうか。……いつまでもか」  それでもそう呟いた父は少し笑っていて、ほっとしたようにも見えた。  ある風の強い夜の合間に、全てを変える電話が鳴った。  トニーは驚いて時計を見る。ニ時だった。  どこか外からかけているのか電話の向こうはかなりうるさい。雑音も交じっているようだ。 「トニー? あんた家に帰ってたの? 珍しい」 「ロージー?」  何年も前にロンドンに行って久しい年の離れた姉だった。擦れた声は、どうも酔っ払っているらしい。 「ホント久しぶりね、トニー、あんたと話すの。最後に会ったのって、もう十年近く前じゃない? 高校…大学は、卒業したのよね。元気?」 「……元気、とは…言い難い…かな」 「ばっかねえ、恋人と喧嘩でもしたの?」  彼女にとっては特に何でもない話題のつもりなのだろう。トニーは少し皮肉げに笑って答えた。 「……そんな…ようなものかな。……君はどうしてるの?」 「ま、上等な部類に入るかしらね。父さんは? 元気?」  姉の屈託のない声が気に入らない。 「……ロージー。…母さんのこと、聞いた?」 「……気づいたわ。でも、考えたくないの」 「じゃあ父さんのことも知ってるんだ、ロージー?」 「考えたくないの。だから帰らないのよ」  トニーは思わず声を荒げた。どうして僕だけがこんな目に遭ってるんだろう。 「ずるいよ、ロージー! 僕に全部押しつけるつもり?」 「誰もそんなこと言ってないでしょう」 「ロージーがいなかったら、僕しかいないじゃないか! 二人きりの姉弟なんだから!」 「子供が平等に親の面倒を看る義務があるなんて、誰が決めたのよ! あんたねえ、いい加減成長してないのね。なんでもかんでも誰かがあんたの不幸の肩代わりしてくれると思ってるでしょ。あたしあんたのその考え方だけは昔から甘えてると思ってるわ」 「不幸の肩代わりって、…ロージーは昔から僕よりずっと幸せじゃないか!」 「そりゃあたしは自分が幸福になるように努力してるからに決まってるでしょ。あんた頼むから自分で望んで天才に生まれたわけじゃないとか馬鹿なこと言わないでね。そんなの言い訳にすぎないんだから!」  トニーは少しの間口をつぐんだ。それから恨み言のように呟く。 「…皆がロージーのことを好きだったよ。父さんも母さんも、ダリルも、他の女の子たちも男の子たちも。…でも誰も僕のことを愛してなんかくれなかった。アンフェアじゃないか」 「あんたねえ、世の中はそもそもアンフェアなのよ、それにあたしはあんたと違って愛される前に愛したわ。二十…一よねあんた、いい歳してまだ愛されないとか言ってるの? 誰も愛したことがないのによく言うわねえ。最低、いいかげん成長したら?」  トニーは無意識のうちに首を何度も振っていた。どうして、僕が責められなきゃいけないんだろう。 「……だって、どうやって愛していいか…わからないし……誰も僕を愛してくれないんだもの…愛し方を見せてくれないんだもの……僕を唯一愛してくれた人は傷つけるだけ傷つけて捨てたし……」  小さな声で涙を流しながらトニーは言った。その事実が悲しかった。どうして彼を、傷つけることができたのだろう、彼はあんなに愛してくれていたのに。 「……トニー。あんた、本当に馬鹿ね。…父さんも母さんもあたしもダリルも、あんたのことを一番愛してたのに……今まで何も気がつかなかったの?」 「…嘘……」  電話の向こうの雰囲気が変わった。擦れたロージーの声が初めて女らしく、優しくなる。 「自分の弟に嘘ついてどうするの? 家族でしょうが」 「………」 「皆あんたのことが可愛くてたまらなかったのに…トニー」 「……でもだって、誰も僕に愛してるなんて言ってくれなかった」 「言葉で言わなきゃ気づけなかったの? ばか。…父さんと母さんがあんたが学校に行ってる間、どんなに心配してたか、家に帰ってから楽しいことをたくさん体験させてやろうとしてたか、あんた本当に、なんにも気づかなかったの?」 「………」  やっと、トニーは電話を通して聞こえてくる姉の声が震えているのに気づいた。 「…ロージー…? ……泣いてるの…? ……どうして…?」  ロージーは啜り泣きながら、当たり前のことのように言った。 「……あんたがかわいそうな気がしてくるからに決まってるじゃない…。…バカ……」  その日は少し、庭に出て何かをやりたい気がした。そんな健全な天気だった。犬のウィンディも意味もなくやってきて仕事の相手をしてくれる。トニーは笑って彼の頭を撫でた。彼はしばらくおとなしく撫でられていたが、やがて興味の対象が移ったらしく彼はどこかにとことこと歩いていってしまった。 「いってえ……」  腰が痛い。ずっと室内で暮らしていたトニーには庭仕事など簡単に出来るはずもない。彼は早々に仰向けに寝転んだ。青い空。夏の日差しが気持ち良い。  トーマスのいる家、ロージーのいる家、ダリルのいる家、マムのいる家、みんながいる教室、キースとエリオットのいる部屋、キースのいる部屋。  もう、彼のいるあの部屋には二度と行けない。  キース。  柔らかく微笑む制服姿の彼を思い出して、トニーは彼の部屋を思い出す。  もうあそこには帰れない。  そんな想いが不意に胸につきあげた。  あの場所たちは今でも存在しているけれど、そこに彼らはもういない。  トーマスとマムは死んでしまったし、ロージーはロンドンだし、ダリルはフランスだし、みんな卒業してしまったし、エリオットは大学生で、たぶん就職も決まっているだろうし、……彼も。  今まで逃げ出すことに必死で、帰れなくなるなんてこと考えもしなかった。 「だあれもいなくなっちゃったなあ……」  トニーは動いていく雲を見つめた。 『失ったものは取り戻せないけど、今まだ手にしているものまでも捨ててしまわないでね?』  ふいにレーン婦人の言葉が脳裏によみがえった。  生まれてからずっと、生きていることが死ぬほど辛かった。目が覚めたらそこにあるのは絶望だった。それでも。  今、僕は生きてる。  生きているのには、やっぱりなにか意味があるんだろう。  そろそろ、誰かを愛してもいいのかもしれない。  昼食の後のコーヒーを見ながらテレビを見ていた父が、突然思いついたようにトニーに聞いた。 「ポストマン」 「トニーだよ」 「ポストマン。お前さんははいったいいつまでここにいるつもりなんだね?」  父は少し前にその質問をしたことを覚えていないらしかった。トニーは前よりもずっと、不安を感じずにその言葉を言うことができた。 「いつまでって……いつまでもだよ」 「そうか。……いつまでもか」  そう呟いた父は嬉しそうだった。トニーは微笑んでもう一度、彼に言った。 「うん。いつまでも僕はここにいるよ。だから心配しないで」  父はにこにことしている。  この大きな家の中で彼は独りで淋しかったのだと、少年は初めて気がついたのだった。  車に向かってウィンディが吠えている。ランド・ローバーが止まって、トレーナーのアルが顔を出した。彼は帽子を取ってトニーに頭をさげた。 「ミスター! おはようございます」  新しく雇った彼は、新しく仕入れた白馬のジャン・ポールを迎えに馬場に向かっていくところだった。ジャン・ポールは気が荒い。  八月の早い朝のにおいを胸いっぱいに吸いこみながらトニーは彼に挨拶を返した後、手紙を手に家の中に入っていった。  もう、彼には電話をしない。今僕が愛すべき人は彼ではないから。 「ねえ父さん、トニーから手紙が来てるよ」  父はキッチンでパジャマの上にガウンを羽織って、老眼鏡を片手に新聞を読んでいた。 「相変わらず小さな字で書く、トニーは。…眼鏡があってもどうも読めない。…読んでくれないか」  手渡された手紙を父はトニーに返してきた。トニーは微笑んでそれを受け取る。 「うん」  トニーはそれを開封した。 「…父さん、お元気ですか。僕は元気でやっています。友達もできました。僕はここで大変幸せに暮らしています。だからどうか、僕の心配をしないでください……」  父は皺だらけの手で目尻を擦った。 「どうしたの?」  トニーは聞いた。聞く前から涙が出そうになった。  父は涙を流しながら嬉しそうに微笑んで言った。 「ああ……ただ、良かったと思って…」  ああ、こんなに愛されてたのに、どうして僕は愛されてないなんて思ったんだろう。  愛はトランプのカードではないのだ。差し出せば同じだけ返ってくるわけでもないし、その価値があらかじめ決まっているわけでもない。そしてもっとも重要なことに、それはゲームではない。  愛というのはなんなのか、見据えようとしてもそれはぼんやりとして、つかまえようとしても霞のように消えてしまう。たぶん、それを形として留めていく行為そのものが間違っているのだ。  だけど目に見えないからといって、それはどこにもないわけではない。たとえば空気が目に映らないからといって、それが存在していないわけではないように。  それでいいのだ。呼吸が出来ることによって、そこには空気があるのだと感じられるように、まわりの人間が微笑んでいることによって、そこには愛があると感じられるのだから。  ねえキース、今はじめて僕は、君を君としてきちんと見ることができる気がする、僕を愛してくれる人間という偏見抜きに。  あのとき君がいなかったら今の僕はなかったと思う。僕は絶望で、もうとっくに死んでいただろう。でもね。キース、僕は今君に出会いたかった。  君を人間として愛したかった。  君はあんなに、素晴らしい人だったから。

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