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疑惑のカフリンクス

またやらかした。 二日酔いで痛む頭を押さえながら野崎賢人(のざきけんと)は、ベッドから体を起こして部屋を見渡した。 そこは自分の部屋でも誰かの部屋でもなく、明らかに高級そうなホテルの一室。 また、酒の勢いで一夜限りの夜遊びをしたのだとすぐに分かった。 隣を見れば相手の姿はなく、すでに帰ってしまったらしい。 野崎はベッドから降りて携帯を探すと、部屋の隅に一人掛けのソファーが置いてあり、そこに自分の脱ぎ捨てたものが置いてあった。 上着のポケットをまさぐると、予想通りに携帯があり、時間を確認するために電源を入れた。 時刻はAM6:30。 起きるのには最適な時間だった。 着信やその他の連絡が来ていないか確認したが、広告のメールばかりで誰からも連絡はなかった。 もしかして連絡先に相手の番号が入っていないかとさらっと一覧を見てみたが、知っている名前しか見つけれらない。 だが、相手のことは全く記憶に残っていないので、未練らしい未練もないのが救いだ。 まぁ、そんなものかと携帯をテーブルに置いて、シャワーを浴びに行く。 分かっていたがベッドから出た体には何も纏っておらず、ただ睡眠をとるために寝ただけではないことはそれと体の気怠さからも分かる。 事に及んだ次の日は、腕や腰にそれなりの倦怠感がある。 それを思うといつもとは違う違和感を感じるところもあったが。 シャワーを浴びながらその違和感の場所に触れてみると、ヒリヒリとした痛みが増す。 あまり考えたくはないが、野崎も今年で25になる。 体のどこかに不調の一つや二つ出ても別段おかしくはない年齢になった。 もしかして痔になったのだろうかと嫌な考えが一瞬頭をよぎる。 とはいえ、それほど強い痛みを感じるわけでもないから、たまたまちょっと痛いだけだろうと、あまり悲観することはなかった。 シャワーを浴び終えて体を拭きながら洗面台に立つ。 いいホテルのおかげで洗面台や脱衣所が広く、鏡も3人並んでも問題ない程に大きかった。 それを一人で使う贅沢さを感じながら、ドライヤーを使って髪を乾かしているとふと自分の体に目を向ける。 「…すごっ…」 首や鎖骨にいくつかの鬱血痕があった。 シャワーを浴びている時は気付かなかったが、それが結構くっきりとついていて、そのキスマークの濃さに相手の女性が結構積極的なタイプだったのかと思う。 自分が付けることはあっても相手に付けられたことはないし、せいぜいあっても交際している彼女くらいだ。 一度限りの相手に残すには少し珍しいと思った。 今は特定の相手がいるわけではないから困ることはないが、この痕が消えるまでは他の人と寝ることが出来ないのは少々面倒だった。 そんな頻繁にあることでもないので、やはりそれもそこまで悲観するようなことはなかったが。 適当に髪を乾かしてベッドルームに戻り、手早く服を身に付ける。 もう一度携帯で時間を確認すると7時を少し過ぎた頃だった。 このまま仕事に行くか一度帰って着替えるか微妙な時間だ。 そもそもここがどこのホテルかも分からないので、それによっては帰らなくても急ぐ必要があるかも知れなかった。 出勤時間は大体8時半頃と決まっているが、9時を過ぎなければ遅刻とはみなされないので距離によっては帰れそうでもある。 とにかくチェックアウトして早くここがどこかを知るべきだと、荷物を持って部屋を出ようとした。 最後に忘れてるものはないかと部屋を見渡した時、ベッドのサイドテーブルに何か置いてあるのを見つけた。 「ん…?カフリンクス?」 それはゴールドでダイヤ型をしたカフリンクスだった。 ダイヤ型の中には模様というより、どこかのロゴのようなマークが彫られている。 野崎はそのマークに見覚えがあったが、どこで見たのか思い出せない。 それは少し気になるものの、誰のものかも分からないそれをどうするかの方が今は問題だった。 前の宿泊者の忘れものだろうが、ホテルでそんなことがあるのは珍しい。 というより、無いに近いのではないか。 でもこれは野崎のものではないし、多分、同衾(どうきん)をした相手のものでもないだろうから、やはり前の人のものだと思った。 チェックアウトの際に従業員に渡せばいいかとそれをポケットにしまって野崎は部屋を出た。 まだ少し時間が早いからか、廊下では誰にもすれ違わず、物音もほとんどない。 おかげでまだ痛む二日酔いの頭痛はそこまで響いてはいない。 エレベーターに乗り込んで、受付のある2階を目指した。 体を壁に預けてガラス張りになっている外を見ると、あまり見慣れない街並みがそこにあった。 どうやら家からはあまり近くないらしいことに、野崎は少々落胆する。 しょうがないからこのまま会社に向かうことを決めて、とりあえず受付で精算をする。 さすがに払えない額ではないだろうが、部屋はもちろん、通ってきた廊下やエレベーターの内装などの気品から、安くはないんだろうなと思っていた。 野崎の給料も25歳のサラリーマンが貰う平均の給料と大差はなく、痛い出費になると思っていたのだが、受付でルームキーを渡すとすでに代金は支払われていると告げられた。 こんなにラッキーなことはないが、こうなると相手の女性の素性が少し気になってしまう。 自分より同じか、もしくは若いであろう相手がこんなことまでするだろうか。 そもそも、こんなホテルを選んでいる時点で何かいつもと違う気はしていた。 酔っぱらいの見栄でも自分がここを選んだとは思えず、しかもこのホテルの存在を知らない時点でここを選ぶことはできないのだから、やはりこのホテルに連れてきたのは相手の方だろう。 もしかして今までには経験がないが、年上の女性を相手にしたのだろうか。 可能性がないとは言えないがそれは野崎の好みではないし、年上の女性を引っかけるという経験がなさすぎてどうやってここまで持ち込んだのか、首を捻ることばかりだ。 それでも清算済みだったことにほっとして野崎はホテルを出ると、空車のタクシーを停めて会社へと向かうことにした。 案の定、ホテルから会社まではタクシーで1時間もかかってしまい、運転手にここはどこなのかと聞いたところ、家からはさらに30分は遠い場所だった。 最後に飲んでいた居酒屋からも随分と距離があったと思うが、どうしてこのホテルにいたのだろうかとつくづく思う。 会社には早めについてしまったが、今日は取引先へ訪問する日だったので、その準備をするのにはちょうど良かった。 思えば昨日も取引先の人と飲みに行ったのがきっかけだった。 だが、途中から確か別の仕事関係の人と遭遇したのだった。 徐々に思い出される昨日の記憶でも、寝た相手がどこから居て、どこで褥を共にする話になったのかは思い出せない。 それに、一緒にいたはずの取引先の人はどこに行ったのか。 最後まで飲んでいたとしたらその人も相当酔っていたと思うが、失礼なことはしていなかっただろうか。 あまりに記憶がなさすぎてだんだんと心配になってきた。 後でお礼の電話も含めてそのあたりも確認しておかなければ…と野崎は一人ため息を吐く。 粛々と準備をしていると徐々に社員が出社してきて、中には野崎が昨日と同じ服を着ていることに気付いた社員もいたが、それも冷やかされる程度で済んだ。 9時を過ぎて朝礼が終わると、取引先に向かうために外勤を上司に告げて会社を出る。 訪問先のビルはあまり訪れたことがないのだが、方向は今日いたホテルと少し近い場所にあった。 タクシーで再び朝と同じルートを走っているが、街のおもむきは朝より活発化している。 訪問先のビルに着いて1階の受付に名前を告げると、受付の女性が内線で担当者に連絡を取りはじめた。 それをぼんやりと見ていると、ふと胸元にある名札が目に留まった。 白地に黒でくっきりと名字が書かれているが、その横にこの会社のロゴマークが入っていた。 それにはとてつもない既視感を覚えて、はっと顔を上げた。 ホテルの部屋で見つけたカフリンクスの模様と同じなのだ。 ホテルの受付で渡そうと思っていたのに、清算済みだったという安堵のせいか、すっかりと忘れて上着のポケットにいれたままにしていた。 ポケットに手を入れるとやはりそこにあって、野崎はそれを取り出すと受付の女性に見せた。 「すいません、このカフリンクスなんですが、私のではなくて昨日泊まっていたホテルの部屋においてあったものなんです。ついそのまま持って帰って来てしまったんですが、御社のロゴが入っていると思うんですけど、どなたのものか分かりませんか?」 野崎がそう尋ねると、その女性はカフリンクスを見とめてすぐに笑顔を見せた。 「そちらは当社の社長のものかと思います。そのロゴが入ったカフリンクスは社長と重役社員が身に着けているものなんですが、その中でもゴールドなのは社長だけなので。」 「あぁ、そうなんですね。良かった。では渡して頂いてもかまいませんか?」 「お預かりいたします。それから担当の小畑がもうすぐ降りて来ますので、そちらのソファーにお座りになってお待ちください。」 「わかりました。ありがとうございます。」 女性にカフリンクスを手渡してから、案内されたソファーに腰を下ろす。 うっかりとはいえ他人のカフリンクスを持ってきてしまったが、偶然にも持ち主のところに届きそうで良かった。 そしてあのロゴに見覚えがあった理由も分かってすっきりしたのだが、それを知ったことでまた新たな疑問が生まれてしまった。 それを女性に確認しようかどうしようかと悩んでいたら、担当の小畑が足早にやって来た。 「野崎さん、お待たせしてすいません。」 「いえ、とんでもない。お忙しいのにお時間を頂いてありがとうございます。」 「早速なんですが、会議室の方でパンフレットを見させて頂いてもいいですか?」 「もちろんです。」 「ではこちらに」 小畑の案内のもと、野崎は会議室へと足を向ける。 野崎のいる会社は企業向けのオフィス家具やその他の用品、コピー機やPCなどを納品する会社である。小畑のところに今回訪れたのは、新規の店舗を出すと言うのを事前に聞いていたので、そこに納品する家具などの推奨と選定の為だった。 企業によっては見積もりを出してから他社と比較して購入するか検討するが、ここの会社は最初から野崎の会社を選んでくれた非常にありがたい企業なので、いつも以上に失礼のないようにと気を配っていた。 だが、担当の小畑は何度か飲みに行ったこともあり、気を遣いつつも少し砕けた会話が出来る相手でもあった。 「小畑さん、ちょっと聞いてもいいですか?」 「はい?」 先を歩いていた小畑が野崎の方に振り返った。 「ここの社長さんって、男性ですよね?」 「えぇ、そうですけど…」 「最近代変わりもしてないですよね?」 「まぁ、10年くらいは変わってないかと。」 「そう、ですよね」 「何かありましたか?」 「いやぁ…」 多少の世間話は許される相手とはいえ、自分のふしだらな部分を告白するのは会社的にも良くはないし、自分自身そんなことを赤裸々に話すのは流石に恥がある。 かと言って、その部分を省いてしまうと、野崎が抱えている疑問点にはたどり着けない。 ましてやその疑問点にたどり着いたとして、「もしかしたら昨日御社の社長と寝たかもしれない。」などと言えるわけもない。 とりあえず社長が女性ではないということは知れてほっとしたが、不審なことを聞いておいて、その理由を言わないのもじれったいだろうし、どうしたものかと答えあぐねていると、小畑が不意に「あっ」と声を漏らした。 小畑の顔を見るとその視線は野崎の後方に注がれていて、野崎はそれにつられて後ろを振り向いた。 「あれが噂の社長です。」 「…えっ、あの方…ですか?」 「えぇ」 野崎は振り向いた先に見とめた男性を見て驚いた。 社長というからてっきり定年を間近に控えたおじいちゃんの様な人かと思っていたが、そこにいたのは40代後半くらいの想像よりはるかに若い男性だった。 それでも野崎よりは倍ほどの年齢差はあり、男としての色香は十分に濃く、経験から自信を身に着けたであろう深みを感じた。 「皆、社長を初めて見る人は野崎さんと同じような反応をしますよ。」 小畑は小さく笑いながらそう言った。 「こんな大きな企業だから、てっきりもう少しご年配の方かと思ってました。お若いですよね?」 「えぇ、確か今年で48歳だったかな?」 「という事は、38歳の時に社長になったということですか?」 「そうですけど、正確には少し違います。」 「と言うと…?」 「38歳の時に社長がこの会社を起業したんです。なので、社長になったと言えばなったんですが、継承したというわけではないので。」 「えっ、そうだったんですね…!それは知らなかった…勉強不足ですいません。」 「いやいや、野崎さんはうちの会社のことはちゃんと調べてくれてるの知ってますから。それに社長のことはあまり知らなくて当たり前なんです。」 「当たり前?」 「えぇ、やっぱりあの若さですからね、実力も見ずに甘く見る人が多いんですよ。だからあまり世間には顔とか年齢とかは公表してないんです。だから野崎さんが知らなくて当たり前なんですよ。」 そう言われると確かにそういう世間からの偏見が無くはないだろうと思う。 でも、少し勿体無いとも思った。 見るからにカリスマ性はありそうだし、顔を出せば会社の知名度も比例して上がりそうなのに、それを利用しないなんて勿体無いと、そう思えるほどに容姿が良い。 それとも性格にバレてはいけない致命的な欠陥でもあるのだろうか。 「あぁ、今日の野崎さんが持って来てくれたパンフレットを社長も見たいと言っていたので、一緒に見てもらいましょうか。」 そう言って小畑が「社長!」と呼ぶと、誰かと話しているようだった社長がにこやかにかつ、スマートな歩みでこちらに向かって来た。 「どうかした?」 社長が呼び止めた小畑にそう聞くと、小畑は野崎を紹介した。 「こちら、WKオフィスの野崎さんです。前に新店舗の家具関係のパンフレットが見たいっておっしゃってましたよね?今日野崎さんがそのパンフを持ってきて下さったので、もしよろしければ今から一緒にと思って。」 「あぁ、そうだね。今はちょうど時間が空いているから…」 そう言う社長が野崎を見とめると、一瞬だが奇妙な表情を見せた。 それから柔らかい笑顔を見せて「初めまして」と手を差し伸べてきた。 野崎はその一瞬の表情に違和感を覚えつつも、それを何とも言えずに差し伸べられた手を握り返した。 社長の名前は河原登(かわはら のぼる)。 握手をした際に、そう自己紹介された。 小さな企業だと社長に直接挨拶する機会はあるが、この企業は規模が大きく、社長に挨拶をする機会が今まではなかった。 完璧な初対面であるにも関わらず、河原は意味深な表情を見せたのだ。 それでも「初めまして」と挨拶してくるあたりは、野崎の初対面と言う認識に間違いはなさそうだった。 小畑に案内されて入室した会議室で、野崎は持って来たパンフレットをいくつか並べた。 先にどういうものがいいか聞いていたので、それに見合いそうなパンフレットを持ってきていた。 「お好きなものから見て頂いて。念のため、要望にあったものが掲載している場所に付箋をつけてあります。それ以外のページでも良いものがあればおっしゃってください。」 野崎が勧めると、河原と小畑はそれぞれパンフレットを手に取りページをめくる。 価格や実寸はパンフレットに記載があるが、気になるものはメジャーなどを使ってより現実に近い大きさを見て、別のものも同じように見比べる。 やはり社長というべきか、小畑よりも河原からの質問が多く、チェアの背もたれの可動域や、テーブルの引き出しには仕切りがあるのかなど、細かい質問に野崎も肝を冷やした。 答えられるものは答えたが、正直、一つ一つの備品についてそこまで詳しくは知らない。 「後で調べてご連絡します。」と言う回数が増える度、野崎の気持ちは落ち込んでいった。 そんな野崎を気遣ってか、小畑は飲み物を取ってくると言って一度会議室を出て行った。 「おかまいなく」と言ったが、本当にそこは気にしないでほしいと思っていたし、出来れば河原と二人っきりにしてほしくはなかった。 河原からの質問に答えられなかった後の沈黙はどうしてもいたたまれず、小畑がその都度相槌を入れてくれていたからもっていたようなものだったからだ。 「野崎さん」 「はい…」 ほら来た、と思った。 次は何を聞かれるのかと冷や汗をかく。 「野崎さんは昨日、お酒を飲まれましたか?」 一瞬、なんの質問をされているのか分からなかった。 言葉の意味を理解するまでの数秒を有した後に、「…はい」と野崎は答えた。 「ご自宅には帰られた?」 本当に一体なんの質問なのか。 露骨に表情に出すのは問題だが、さすがに少し眉間に皺が寄る。 だが、はたと思い至った。 社長という立場の人間ならば、身形や頭髪、匂いなどの清潔感を気にするだろう。 現に河原からはずっと麝香(じゃこう)のいい香りがしている。 どこか懐かしいと感じるそれは、男性からするには少し甘すぎる気がするが、それでも河原にはよく似合っている。 「…もしかして、臭いますか?」 野崎が恐る恐るそう聞くと、河原はパンフレットから顔を上げて野崎を見た。 河原の身長は平均よりも少し高い野崎よりもまだ高い。 野崎を見下ろす形で見てきた河原の目には、少し驚嘆が含まれている気がした。 「そういう意味で聞いたのではないよ。」 「え…じゃあ」 「失礼」 河原は断りを得るのと同時に野崎の襟元に触れた。 ネクタイを瞬時にゆるめてシャツのボタンを一つはずすと、襟を横に広げて見せた。 そして野崎の首元を見ると、不敵な笑顔で「よかった」と呟いた。 あまりの素早い動作に呆気に取られていた野崎だったが、はっと気づいて河原から離れた。 「ちょっ…!なんですかいきなり!」 「確認しただけだよ。」 「確認って何を!」 「昨日、君は仕事関係者とお酒を飲んでいた。それもかなりの量を。途中で偶然、別の仕事関係者とも会い、もう帰りましょうと言う言葉を聞き入れず君はさらに別の店へとお酒を飲みに行った。あまりの泥酔に家の住所も言えなかった君は、偶然会ったその人とホテルに泊まった。」 河原は淡々と物語を読むようにそう語る。 それは野崎のことを言っているのだろうが、身に覚えがない野崎には現実味がなかった。 「そのホテルで君は何をした?」 昨日、ホテルで何をしたか。 正確なところの記憶はないけれど、野崎の中で確信していることはある。 けれど、初対面の相手にそんな言葉を言えるわけもなかった。 言いよどむ野崎を楽しんでいるかのように、河原は不敵な笑みを崩すことなく耳元で囁いた。 「セックスをした」 野崎は顔に熱が集まるのを感じた。 その行為は何度もしたことがあるし、友人同士で下ネタをいうことだってある。 その言葉に赤面してしまう程の初々しさも、経験がないわけでもないのに、河原の口から出されたその言葉は、今まで聞いたなによりもリアリティがあった。 「どうして…」 どうしてそのことを知っているのか。 そう聞こうとして、朝から感じていたいくつかの事柄が頭の中で結びついて行く。 あの部屋に置いてあったカフリンクス。 それは受付の女性の言うことが正しければ河原のものだ。 いつもとは違うと感じた体の異変。 目覚めた時になかった、女性の姿とそれらしき痕跡。 「その相手は、私だからだよ。」 河原のその言葉を信じられなかった。 信じたくはなかった。 なんで、どうして、男の俺が…? そんな筈はないのに、ありえないのに、 それでも色んなことが河原の言葉を真実だと告げてくる。 「覚えていないだろうとは思っていたけど、やはり少し残念だな。嫌だ嫌だと泣いていたけど、何度も果てていたのを私しか覚えていないなんて。」 「…いや、そんなはずは…だって…さっき、初めましてって…」 「仕事で会うのは初めてだったし、君は覚えてないと思ったからね。」 だったらどうしてそのまま黙っていてくれなかったのか。 忘れたままでいられたら、自分が男と寝たいう事実を知らずに済んだのに。 「君の為に黙っていてあげても良かったけど、残念ながら私は君を気に入ってしまった。」 そう言いながら河原は野崎の頬を撫でる。 ゾクッと背筋に電気が走り、野崎は反射的に河原の手を弾いた。 「私のカフスボタンは見つけたかい?」 「あのカフリンクス…わざと置いて行ったんですか。」 河原は人の良さそうな笑顔で小さく笑う。 「そう、少しは私を覚えていてほしかったし、思い出して欲しかったから。」 「残念ですけど、何も覚えていないので。」 「本当に?」 「本当です。」 「残念だ」 河原は再び野崎の頬に手を伸ばす。 それはゆっくりと首筋に流れ、いまだ濃く残る鬱血痕に触れた。 「これも、私がつけたのに。」 河原がため息を吐くと、 僅かな風に揺られて麝香(じゃこう)が香る。 その香りに野崎の眉間がくっと寄った。 「俺は、知らない。何も、覚えてない…!」 「なら、思い出させてあげるよ。」 河原は野崎の腕を掴んで捻り上げると、テーブルの上に体を押さえつけた。 暴れれば暴れるほど腕が軋み、痛みのせいで野崎の口から悲鳴が漏れる。 「やっ…やめろ!」 「やめてほしいなら思い出しなさい。昨日、誰と、どういうことをしたか。」 君は、どう鳴いたのか。 河原は野崎の耳元でそう囁く。 鳴いてなんかいない。 もし昨日、本当に河原とセックスをしたというのなら、 今と同じように強姦されたに違いない。 昨日は酒を飲んでいて上手く抵抗出来なかったのかも知れないが、 今日はそう簡単にはさせない。 そう思っても河原の拘束は的確で、力を入れただけで腕が痛むのでは抵抗も出来ない。 痛みのせいで野崎の額には汗が浮かんでいたが、河原は涼しい表情で野崎のベルトに手をかけた。 器用なその手で簡単にベルトを引き抜くと、下着ごとスーツを下ろした。 露わりなったその後孔に、河原の硬く形を変えたものを押し当てられた。 河原のものはスーツ越しで、挿入の心配がないとはいえ、そうされることに野崎は屈辱を感じた。 「離せっ…!」 「思い出したらと言ったろう。」 河原は野崎の上に覆いかぶさるように体重をかける。 そうするとより一層、河原のものが強く押し付けられた。 野崎は河原から香る麝香(じゃこう)に包まれて、 無意識に体を強張らせた。 「そのっ…麝香(じゃこう)…いやだっ!」 振り絞るように嘆いた野崎の言葉に、河原はわずかに目を見開く。 そして小さく笑った。 「君のその言葉選びが気になったんだ。昨日話していた時もそうだったし、今もカフスボタンをカフリンクスと言うし、ムスクのことを麝香(じゃこう)と言う。今どきの若い子には珍しいと思ったんだよ。」 それがなんだというのか。 言葉選びと言ったってそれはただ単に呼び方が違うだけで、物は同じだ。 単純に野崎の使う言葉は小さい頃に祖父が使っていたというだけの理由だ。 馴染みがある言葉を使うのは誰にでもあることだ。 「それで君と話すのが楽しくなってしまってね。気づけばベッドで君を抱いていた。」 「そんなっ…意味分かんない抱き方があるかっ…!」 「あるだろう。君だって女性を抱く時は先にお酒を飲みながら会話を楽しむんじゃないのか。」 そう言われて確かにそうだと思ったが、それは最初からそのつもりで雰囲気を作っていくものだし、女性側もなんとなくそれを察しているのだ。 だけど、野崎と河原の間にそんな空気があったとは思えないし、思いたくもない。 「君はまだ若いから分からないかもしれないが、大人はね、こういう駆け引きを楽しむものなんだよ。」 「これは駆け引きじゃない!暴力だっ…!」 「君はこのムスクを嫌だと言ったね。いや、麝香(じゃこう)か。この香りが嫌なのは、昨日を思い出すからだろう?」 「ちがっ…」 違う、違う、 抱かれてなんかいないし、 この香りだって知らない そう思い込もうとしているのに、 動くたびに香るそれは、どんなに拒んでも野崎の心と体を刺激する。 体が火照り、感じたくもない何かに期待している。 「…思い…出したく、ないのに…」 野崎は涙ながらに小さく呟いた。 「大丈夫。辛い過去ではない。君は幸せそうだった。」 「嘘だ…っ」 「これ以上痛いことはしたくない。思い出せないならしょうがない。だけど、この先必ず思い出してもらう。そうでなければあそこにカフスボタンを置いて行った意味がない。」 そう言って河原は野崎を解放した。 野崎は軋む腕に小さく声を漏らしながら、はぎ取られたものを身に纏う。 「カフリンクス…置いて行った意味がないって…どうして…」 野崎が絶え絶えにそう尋ねると河原は、 「それこそ君に、思い出してほしいことだよ。」 と、そう言って、 少し寂し気に、笑った。

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