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恋する夜伽

「もう、君のことは買わない」 「え?」  壮年の広いけれど張りのない大人の背中。  肩甲骨に黒子が三つ。うなじには俺がつけたキスマークがある。  耿介(こうすけ)さんは困ったように頭をかいた。  受け取ったばかりの万札をつい握った。手の中でぐしゃりとつぶれる。  遮光カーテンの合わせ目から昼の日差しが漏れ、俺がいるベッドまで伸びている。それでも部屋の中にはまだ真夜中の名残を色濃く残していて、何となく空気もこもっている。  この雰囲気が好きだった。昨夜のことを思い出せる淫靡な匂いがするベッドは二人の巣みたいでずっとシーツにいたい。  俺はそう思っているのに、耿介さんはもう服を着始めている。 「……帰るのかよ」 「ああ」  サイドテーブルの指輪を薬指にはめる。  あの指輪が嫌いだった。耿介さんが寝ている間にトイレに流そうかと何度も考えた。でも、やらなかった。そんなことをすれば、彼はきっと俺の前に現れなくなる。  今だってもぎ取って飲み込んでしまいたい。もう会えないのなら、なおさら。……そうせず、黙って耿介さんが身支度を整えるのを見ているのは、最後の最後の思い出を嫌なものにしたくないから。  耿介さんの指輪には結婚以外にも特別な意味がある。  彼は結婚と同時に会社の経営権を手に入れた。つまり、夫婦生活の破綻は今の地位を捨てることに繋がる。年収は三千万以上。住まいは閑静な一等地の豪邸。奥さんには隠しているもののゲイだから、夜の営みはうまくいかず子どもには恵まれなかったらしいが、養子がいる。  そんな夢のような暮らしは、勉強に勉強を重ね一流大学を出て、汗水流して遮二無二働いた彼自身の功績だ。  俺に奪えるわけがない。  恋人みたいに何度もキスをしたって、俺と耿介さんの関係には金が絡まっている。  最初に会った時はオッサン相手になんて……と思っていたのに、一緒にいると楽しいし、優しくしてくれるし……本気で抱かれたいと思った客は耿介さんが初めてだった。  本番ナシの規則を律儀に守るのも、この人くらいだ。大抵は金を積むから抱かせろと言ってくる。  体を繋げただけで恋人面してくる輩もいるのだと先輩たちから聞かされて、金には釣られるなと警告を受けていた。でも、生活が厳しい時などは倍額以上提示されると店に内緒で足を開いた。何日も風呂に入ってないような悪臭を漂わせる男でも、相手のことなど考えず、好き勝手に腰を振るしか知らない男でも、金を払ってくれるなら俺は抱かせた。恋人面してきても構いやしない。金さえ出してくれるなら。面倒で嫌だったけど、金が必要だから……。  どれだけ店に内緒にしても、こういう話はどこからともなく漏れるらしく店で俺は煙たがられている。それでもきっちり上納金は納めているわけだから、店側も追い出すに追い出せないらしい。  耿介さんは正規の値段で俺を買う。  抱きたいとは言わないし、俺が寝ている間に無理やり襲ってきたりもしない。  そもそも、常人の神経なら、娼夫を抱きたいとは思わないのかもしれない。性的に幾人とも触れ合う仕事だ。汚いと思われても仕方がなかった。  実際、俺は汚い。金のために規則を破っている。  耿介さんが俺の仕事ぶりを知らないとは言え、何となく不潔さを感じたのかもしれない。  だから、俺を買うのを止めるのだろう。  次は誰を買うのだろう。誰に優しくするのだろう。  何だかむしゃくしゃして、枕を投げた。  ぼすっと耿介さんの肩に当たる。  耿介さんが俺を見てきょとんとした。  今日初めてまともに顔を見た。  日本人離れした彫りの深い顔立ちはいかにも誠実そうで、嫌になる。 「何で投げたの?」  枕を拾い上げ、ベッドに置く。 「僕、そろそろ行くよ」 「勝手にすれば」 「いつもみたいにキスしないの?」 「別にしないし」  まるで俺がキスしたがっているみたいな言い方に腹が立った。  もう買ってくれないくせに。  買わなきゃ会えないのに。  さも当然のことを言うみたいに「君のことは買わない」なんて。  じゃあ、誰を買うの。何で俺じゃなくてそいつにするの。  シーツを頭から被ってベッドに横になった。  何でわざわざ買わないなんて言ったんだ。黙って消えてくれたらよかった。  そしたら、二度と会えなくても「今日、会えるかな」と期待しながら幸せに待てたのに。  最悪だ。 「ホテル代、置いていくよ」  耿介さんは情緒もへったくれもない言葉を残して部屋を出ていった。  くそったれの父親が酒とパチスロに突っ込んで作った借金、総額四百二十万を返済し終えたのは、耿介さんが俺を買わなくなって半年が過ぎた頃だった。  返済が終わってすぐ俺は店を辞めて、コンビニのバイトを始め、馴れた頃に居酒屋のバイトも増やした。  バイトじゃまとまった金は手に入らないものの、安定した収入と生活リズムでやっと真っ当になれた気がした。  それでも、一人安アパートに帰ると、寂しくて死にたくなる夜が三日に一度はある。眠れなくて、そのまま部屋にいたら本当に手首でも切ってしまいそうで、そんな夜は怖くなってネオンが喧しい繁華街へ足を向ける。  喧騒の真ん中にいると、頭の中が空っぽになった。  そうやってぼんやりするか仕事をしている間だけ、耿介さんのことを考えずにすんだ。  そんな生活がまた半年。  コンビニバイトの後輩、坂下が急遽実家に帰ることとなり、ピンチヒッターとして深夜バイトに駆り出された。居酒屋とコンビニで深夜帯に仕事となるため、すっかりこの数日は昼夜が逆転している。  俺が働くコンビニは繁華街から少し離れた場所にあるせいか、深夜はさほど忙しくない。店長は俺より少し年上の女性。年は二つしか違わないのにものすごくしっかりしていて、立派に切り盛りしている。まあ、夜は閑散としてるけど。  今日も俺が入ってから店に来たのは不良っぽい少年二人組と、くたびれたスーツの男ひとり。  店長が奥の部屋で休息を取る三時を回る頃、雨が降り始めた。あと一時間もすればいつもなら明るくなり始めるが、雨降りの今日は五時を過ぎないとくらいままだろう。  寒々強い外に背を向け、店内の曲を聞きながらぼんやり空っぽのおでんの鍋を見ていると、不意に来店を告げるベルが鳴る。 「らっしゃいませー」  雨の中、こんな時間に動いているのはどんなやつだ。  顔を上げて、座っていた椅子から転げ落ちた。  店に入ってきた客が真っ直ぐレジに向かってくる。レジスペースで転げた俺を見下ろしている壮年の男性は……。 「こ、耿――」  名前を呼ぼうとした時、俺が椅子から落ちた音を聞いて店長が奥の部屋から寝起き顔を出してくる。 「あらら。(わたる)くん、大丈夫?」 「あっ、は、はい。すみません」  起き上がり「平気ですから」と奥の部屋に心配そうな店長を押し込んだ。  振り向いて、改めて耿介さんを見る。  夢じゃない。本物だ。  ただ、服はいつもの仕立てのいいスーツではなく、ジャケット姿だった。荷物は量販店の紙袋ひとつ。俺と会う時はいつもスーツだったのに。 「なにか、変?」  俺がまじまじ見ていたせいか、小首をかしげて不思議そうな顔をする。 「別に変じゃないけど」  嘘だ。違和感しかない。スーツ姿に、結婚指輪。それが俺の中の耿介さん像だ。つい癖でチェックした左手の薬指には指輪がない。……こんな格好、知らない。  それに、耿介さんは普段、コンビニなんか使わないはずだ。そもそも、自分で買い出しになんていかない。  こう言う風に買い物するとしたら、一緒に誰かいる時だ。駅で待ち合わせをして、一緒にホテルへ向かう。その前に飲み物や軽くつまめるものをコンビニで買う。  わざわざスーツから誰かのために私服に着替えたのだろうか。指輪もその誰かのために外した……。  つい、店の外を見た。  俺の次はどんなやつなんだろう。  そうやって俺の代わりになった男を探したが、店内が明るいせいで雨降りの外はよく見えなかった。 「外、気になる?」 「……別に」 「本当は気になるんだろう?」 「は?」 「『別に』は君が本心を隠す時に使う言葉だよね。外には誰もいないよ」 「なんだよそれ」  いらっとして、つい睨み付けた。  もう会えないと思っていたから何とかして忘れようとしてきたのに、悪びれる様子もなく目の前に現れた。これで俺がどれだけ傷つくのかも知らないで。そのくせ、こんな風に俺のことを何でもわかったような口を利く。  胸の中がもやもやするし、いくら好きだったとは言え、こんなの不愉快だ。  俺が黙り込むと、空気を読むことを知らないのか、耿介さんが「借金、終わったの?」と聞いてくる。 「関係ないでしょ」  耿介さんには、あそこで働いている理由を打ち明けていた。父親が残した借金を返済するためだと。その時、代わりに返済しようかと提案されたが、断った。嫌っているとは言え、実の父親の借金だ。他の人に頼るわけにはいかない。それに、これは俺の役目なのだと、そんな話をして……。  ベッドの中でどこまでも気を許せたのに、今は何も話したくなかった。 「冷やかしなら帰れよ」  レジの前から動かない男に言ってやった。でも、顔を見て言うほどの勇気はなくて、つい下を向く。  もう、俺は娼夫じゃないからこの人と触れ合うことができない。そもそも、娼夫だったとしても、この人は俺を買わないと宣言した。それはイコール、俺に魅力を感じなくなったと言うこと。  わかっている。今さらどうしようもない。そう言う客は耿介さんだけじゃなかった。たまたま好きになった人が、俺に飽きただけ。  そんな相手に会っても、ただ悲しいだけだ。  耿介さんは紙袋をレジに置いた。 「ちょっと」  文句を言おうとしたのに、耿介さんは紙袋から大きめの茶封筒を出して俺に差し出してくる。 「探偵業を営んでいる友人に君の居場所を探してもらったんだ。これはその資料」 「……は……?」  意味がわからなかった。  耿介さんが俺を探していたなんて。 「前の番号にかけても繋がらなかったから」 「だ、だってあれは営業用だし……」  当時、個人用を持つ余裕がなかったため、店から支給された携帯電話を使っていた。気に入った金払いのいい客にメールアドレスを教えていたが、電話番号を教えたのは耿介さんにだけだった。  もう買わないと言われたけど、耿介さんの連絡先が登録された携帯は手放しがたかった。ボタンを押せば繋がる。ひょっとしたら声が聞けるかも……。そんな未練たらしい女々しさを吹っ切るためにも店を辞める時に携帯電話を返し、自分で契約した新しいスマホにはデータを持ち込まなかった。  だって、耿介さんにとって、俺はもう買う価値のない男だから。  まさか、探されているなんて。そんなこと夢にも思わなかった。  耿介さんはもうひとつ封筒を出した。 「これは僕が独身に戻るために必要だったもの」 「ま、待って、独身? 嘘だろ、そんな」  こればかりはなんの冗談かと思ってしまった。  確かに彼の左手には指輪がなかったが、そんな理由だとは思っていなかった。  あれほど憎かった指輪なのに、いざ実際になくなると、ぞっとした。 「ど、どうして離婚なんか……。仕事、あんなにがんばってたのに。それに、あんた子どももいるんだろ?」 「うん、いるけど、子どもと言ってももう成人しているからね。僕がいなくても平気だよ」 「し、仕事は?」 「取締役からは外されたし、ほとぼりが冷めるまでしばらくの暇を出されたけど、近々ニューヨークの子会社を任されることになった。悪くない話だよ」 「ニューヨークって……」  何だか、理解が追いつかない。俺が店を辞めて居酒屋とコンビニで働いている間に、耿介さんは離婚してニューヨークに行くことになっていたなんて……。 「ニューヨークってね、同性でも結婚できるんだよ」  耿介さんはポケットに手を入れて話を続けた。 「あの日、ホテルを出てから君がどうしてあんな風に怒っていたのか考えた。……もう買わないなんて、急に言わらたらそりゃあ、怒るよね。何も知らせていなかったわけだし」  耿介さんはポケットから何か取り出して、僕に差し出す。  店内の照明できらきらと銀色に光るのは、平打ちの指輪だった。シンプルで品がいい。 「でも、僕は君の最後の客になりたくなかったんだ。最後になる前に、君と縁を切りたかったんだ。金で繋がった縁をね。 僕が既婚者で、現実から逃げてきた客のままじゃ、絶対にできないことを君にするために、妻とも別れた。失う地位以上に、価値のあるものを知ってしまったんだ」  指輪を見せられた時点で、耿介さんが何を望んでいるのか仕事で疲れた頭でもわかった。  でも、と目の前にぶら下げられた幸せの大きさにしり込みする。  あまりにも現実味がなくて、怖い。  この指輪に触れた瞬間、この全てがパチンと音を立てて消えて、耿介さんと会えないまま、生臭い口臭の好きでもない男と金のためにセックスする現実に引き戻されそうで。  目をつむれば寂しさで息もできない夜を鮮明に感じることができる。好きな人と同じベッドで眠ることは、もう二度と叶わないのだと何度も何度もその事実に打ちのめされたあの夜の群れに。 「亘、こっち向いて」  耿介さんの声で顔を上げた。  目の前には確かに耿介さんがいる。 「……これ、受け取ってもらえるかな」  指輪を差し出す耿介さんに見つめられたまま、しばらく動けずにいた。  心臓がバクバクとうるさい。  俺はほぼ無意識に「耿介さん」と呟いて、彼が客だった時には恐ろしくて言いたくても言えなかった言葉をぽろっと溢した。  これがもしも夢だったら。  それなら、目が覚める前にこれだけは伝えておきたかった。 「好き」  一度、言ったら今まで忘れたつもりで胸の中に閉じ込めていただけの感情がわっと溢れだしてきた。 「耿介さんが好き」 「……うん」 「俺、買わないって言われて、飽きられたと思ったから……だから……」 「ごめんね」  そんな一言で許せるはずがない。  腹が立った。こんなに腹が立っているのに、どうしてか嬉しくて仕方がなかった。  言いたいことは言えた。  もう夢でもいい。  俺は耿介さんが差し出すつやつやの指輪を触った。縁をなぞるように触れていると、手をぎゅっと包み込まれる。  少し汗ばんだ温かい手だった。  その皮膚の感じが、俺に今が現実だと訴えてくる。夢ではないのだと。 「亘」 「あ……」  彼は俺の手をぐっと引っ張り、カウンター越しだけど、キスをしてくれた。  長くない触れるだけのキスなのに、顔がぽっぽと火照ってくる。  恥ずかしくなってうつむいた。前まではこんなことなかったのに。  そんな俺の頭に耿介さんは唇を寄せて呟く。 「好きだよ」  その呟きが直接的な熱を持って俺の体を温めた。  そうか。わかった。顔が火照る理由。  前までは仕事だった。どんなに好きでも、相手からどう思われているか知らなかった。  いつの間にか左手の薬指できらめく指輪を見ながら何度も何度も、好きだよと言う耿介さんの声を反芻した。頭の中で繰り返しているだけなのに耳が熱くなる。  耿介さんは仕事でニューヨークへ行くと言った。同性婚ができるニューヨークへ行くと。そして、探偵まで使って探しだした俺に指輪をくれた。  それはつまり、そう言うことなのだろう。 「……コンビニでプロポーズ?」  またも顔を見て言う勇気はなくて、自分の手を見ながら問いかける。  違ったらどうしよう。問いかけた直後、そんな風に弱気になったが耿介さんが「だって」と年甲斐もなく、何だか情けない感じで続けた台詞で胸を撫で下ろす。 「君を見たら我慢なんて無理だったんだよ」  耳を赤くして耿介さんが言った。  コンビニの外は相変わらず雨降りで、どんよりと暗く、今さらだけど、奥の部屋では店長が監視映像を見ながら聞き耳を立てている。カウンターには資料が散らかっていて、BGMはコンビニのイメージソングだ。  俺の様子を見て勘違いした耿介さんが「ちゃんと仕切り直すよ」と早口になる。 「夜景見ながらディナーの方がいいよね。それとも、遊園地とかの方がいい? 観覧車の中とか……あー、もう。僕なんでここで渡しちゃったんだろう……。ちゃんと色々、考えてきたのに」  頭を抱える耿介さん。  それは、もう、俺のことは買わないなんて言って誤解させた罪はこれでちゃらにしてあげよう、そう思わせるくらいの落ち込みようで……何だかおかしかった。  外は雨降りで、間抜けなBGM。多分、店長に筒抜けでロマンの欠片もないプロポーズだったけど、これ以上ないプロポーズだと思った。  俺は久しぶりに自分の笑う声を聞いた。

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