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エピローグ
ちふゆが難しい顔をして、青藍の足の間に座っている。
場所は蜂巣 のベッドの上だ。
恋人同士はこうやって座るのが普通だ、と吹き込んだ青藍の言葉を真に受けて、ちふゆはいつも背中を青藍に預けてくつろぐのが癖になっていた。
細く小柄なちふゆの体を背後から回した腕でハグしながら、青藍はひよこのような頭に顎を乗せた。
ちふゆは一度、うるさそうに顔を振ったが、青藍が退かないとわかると特に抵抗もせずに、うんうん唸りながらマットレスに広げた雑誌へと注意を戻した。
彼が読んでいるのは、色んな資格をわかりやすく紹介する……言ってみればやや子ども向けの情報誌だ。
警察官や消防士などのメジャーなものから、ひよこ鑑定士のようなマイナーなものまで載っているそれを、ちふゆは熱心に熟読していく。
ちふゆがこれまで通り淫花廓に通うことの条件として、『進学か就職かどちらでもいいからちゃんとしなさい』と突き付けてきた母親の叱責を素直に受け入れたちふゆは、まず自分がなにをしたいのか、というところから探すことにしたらしい。
変なところで生真面目なちふゆらしい思考回路だな、と青藍は思った。
「ちー」
「るさい」
「ちーちゃん。ちふゆちゃん」
「うるせぇなっ。気ぃ散るだろうがっ」
ちふゆを抱きしめたまま左右にゆらゆら揺れながら名を呼ぶと、ピシャリと怒鳴られてしまった。
青藍はムッと唇を尖らせて、頬をぐりぐりとちふゆのそれにこすりつけた。
「だって、ちー。せっかく俺と一緒に居るのに、俺のことそっちのけでさ~。拗ねたくもなるよ」
青藍がため息交じりにクレームをつけると、ちふゆが困り眉で振り向き、ぎろりと睨みつけてきた。
「お、おまえだって無関係じゃねぇんだから、一緒に考えろよっ」
「え?」
ちふゆの台詞に、青藍は首を傾げる。
確かに、ちふゆがどのような選択をするかによって、ここへ来れる頻度などが変わるだろうし、そういう意味では無関係ではないけれど……。
しかし、ちふゆの進路はちふゆ自身が考えるもので……そこに青藍の希望など挟む余地はないのではないか……。
青藍が曖昧な表情をしたからだろう。
ちふゆが眉間にしわを寄せて、ますます険しい表情になった。
彼の、赤ちゃんのような肌が桃色に染まり、耳朶が美味しそうに色づいた。
ちふゆは本当にどこもかしこも可愛いな、と半ば感嘆混じりにそれを見た青藍の耳へと、ちふゆの声が、ぐわんと大きく響く。
「せ、責任とるって言っただろっ」
ちふゆがガバっと体ごと青藍に向き直り、怒りも露わに怒鳴って来た。その様が毛を逆立てた猫のようで、わしゃわしゃと撫でたくなる衝動を、青藍はなんとか抑え込む。
「お、おまえが、オレのこと、責任とるって言ったんだろっ」
「ちー。落ち着けって。ちゃんと覚えてるよ。責任とって、ずっとちーの傍に居る」
「…………も」
「え?」
「オレも、責任とんの! おまえの傍に居るの! お、おまえがここ辞めたら、オレがおまえ養うんだから、無関係じゃねぇだろ!」
「…………」
青藍は一拍、無言になってしまった。
……なんだこの驚異の可愛さは。
こみあげる激情のままに青藍はちふゆに抱きつき、そのままベッドへと勢いよく押し倒してしまう。
「うわっ。ちょ、バカ、やめろって」
「ちー。好き。好きだよ」
ちふゆを組み敷いて圧し掛かり、ちゅ、ちゅ、と顔中にキスの雨を降らせた。
ちふゆが腕を振って逃れようとするけれど、その手首を捉えてさらに強く抱き込んだ。
「ちょ、邪魔すんなよ」
「だって、ちーが可愛いこと言うから」
「だってじゃねぇよ! こんなことしてたら、決まらねぇだろ!」
「ちー、ちょっとだけ。ちょっとだけイチャイチャしようよ。今日はまだ碌にキスもしてないんだから」
青藍の言葉に、ちふゆの動きがピタッと止まる。
それから彼は、目元を赤く染めて……ちふゆを見下ろす青藍から視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「……ちょっとで終わらねぇからヤダ」
「ちー。キスだけ。キスだけしよう?」
「だ、か、ら! キスされたら、もっとしてほしくなるからヤダっつってんだよっ」
「…………」
ちふゆの可愛さに悶えそうだ。
青藍はそのうちに、ちふゆに萌え殺されるんじゃないだろうかと本気で心配になった。
「ちー、あのさ」
「ん?」
「俺もここから出た後のこと、ちーと一緒にちゃんと考えるし、ちーに養われるばっかりじゃなくて、ちゃんと働くよ。だからちーは、俺のことを一旦抜きにして、やりたい仕事とか、学びたいものとか、そういうの考えてみなよ」
「…………」
「家でゆっくりと考えてさ、答えが出たら、俺に聞かせてよ」
青藍の言葉が終わる前に、ちふゆがなぜか、鼻の頭にしわを作って顔をしかめた。
「なに、その顔?」
可愛いんだけど、という語尾は胸の中だけで呟いて、青藍はちふゆの鼻すじを指の背で撫でる。
「家はゆっくりできねぇの」
ちふゆがぼそりと吐き捨てた。
「なんで?」と問うと、短い困り眉がへにゃっと下がった。
「なんか、おっさんが……」
「おっさん?」
「あの、ホームレスのおっさん」
「ああ、あのひと……」
青藍は頷き、視線だけで続きを促す。
「おっさんが、なんか知らねぇけど、オレが幸運の遣いで、オレに声を掛けてもらったらラッキーになれるとかなんとか、ワケわかんねぇこと仲間内に言いふらしたみたいでさ……最近、知らねぇ男に追っかけられんの」
「…………」
青藍は思わず絶句した。
「道歩いてっと、握手してくれとか、自分の財布に触ってくれとか、抱きしめてもいいかとか、ちょっと付き合ってくれとか、なんかそんなこと言ってくる奴が居て……家も外から覗かれてるっぽいし、落ち着かねぇから、ここでゆっくりどの仕事がいいか考えようと思って」
「ちー、ストップ」
「は?」
ちふゆは、その辺にいる毛虫が気持ち悪い、みたいな、なんだかそんな大したことではないようなテンションで話しているが……これは中々の状況ではないだろうか……。
「おかしいとこがあった。抱きしめるとか付き合うとか、なにそれ?」
「オレが知るかよ。どこに付き合えって言ってんのか知らねぇけど、オレのこと、ラッキーアイテムとでも思ってんじゃねぇの?」
「…………家を覗かれてるっていうのは?」
「さぁ? おっさんが、オレと目が合ったらラッキーみたいなこと言ってるみたいだし、ただ単にタイミング図ってんじゃねぇ?」
「ちー……」
青藍は、目眩をこらえて軽く首を振る。
それから、ちふゆへと真剣な声音で告げた。
「ちー、それはストーカーだよ」
青藍の言葉に、ちふゆの目がきょとんと丸くなる。
「はぁ?」
語尾を跳ね上げて、ちふゆがふきだした。
「バッカ、おまえ。ストーカーは、女が遭うやつだろ?」
自信満々に、知ってるぞとばかりに言い返されて、青藍は本格的な目眩を感じた。
誰だそんな間違った知識をちふゆに植え付けた人間は……。
青藍は組み敷いたちふゆを見下ろして……ひょっとしたら、と思った。
きっかけはホームレスのあの男が、ちふゆに纏わる幸運な出来事を言いふらし、それを真に受けた人間がちふゆの周囲をうろつきだしたことかもしれないが……。
ひょっとしたら、ちふゆに付きまとう内に、ちふゆのこの可愛さに気付いた者が居たのではないだろうか。
ちふゆを少し知れば、誰でも、ちふゆのこの純真な愛らしさに気付くことができるはずだ。
そして行為は徐々にエスカレートしていき……立派なストーカーに仕上がったのではないだろうか。
もやもやと嫌な予感が立ち込めて……青藍はちふゆをぎゅうっと両腕に抱きしめ、ごろりとベッドへ横たわった。
「ちょ、バカ、苦しいっ」
ちふゆが首を振って、胸に押しつけられた顔を横へ向け、なんとか呼吸を確保する。
はふっ、と開いた唇に。
青藍は自身の唇を押し付けた。
「んんーっ」
突然のキスに、ちふゆが声を詰まらせた。
青藍は構わず、彼のやわらかな舌を吸い出して、味わう。
可愛い可愛いちふゆ。
青藍のいとしいひと。
青藍の年季が明けたら、ちふゆの手を握って、『戻り橋』を渡ろう。
それから、家にちふゆを招待して。
弟妹たちに、兄ちゃんの恋人だ、と紹介しよう。
ちふゆはきっと、弟たちと仲良くなる。
そんな予感しかしない。
けれど、そんな将来よりも先に……。
取り敢えず、ちふゆの両親に向けての手紙を書こう、と青藍は決めた。
千秋たちに、ストーカーを撃退してもらって。
青藍は、ちふゆに色々と教えてあげなければいけない。
この危なっかしい恋人を、当分青藍は、この場 に居ながらまもらなくてはならないのだ。
とんだ離れ技を強いられることになるが、ちふゆとの未来のためだと思うと苦にはならなかった。
ちふゆと過ごすこれからの時間が楽しいものになるよう、努力を惜しんでいる暇などは、青藍にはないのである。
「ちー、名前を呼んで?」
そっと、口づけをほどいて。
青藍はちふゆへと、そんなおねだりをした。
淫花廓 で。
ちふゆだけが呼べる名前。
それが、青藍の道しるべだ。
ちふゆが困り眉を寄せて、少し照れくさそうな表情を作りながら、青藍の唾液で濡れた唇を尖らせた。
キスをせがんでいる表情に見えるな、と思った青藍の、鼓膜を。
ツンとしたちふゆの声が、甘く震わせた。
「苦しいんだよ、バカ夏海 」
その言い方が、彼らしくて。
青藍は笑った。
つられたように、ちふゆも「ははっ」と笑み崩れて。
蜂巣の丸窓から漏れる明るい笑い声は、清涼な外の空気へと、吸い込まれていったのだった。
淫花廓~青藍の章~ 終幕
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