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クリスマスの後の
「おつかれ」
同僚が暖かいコーヒー缶をくれた。暖房も切れたこのフロアでは130円の優しさもありがたい。けど、わざわざ脅かすみたいに頬に当てなくてもいいじゃないか。
「……やけどするかと思った」
「そりゃごめんって」
肩をふるわせて笑う彼は、西藤幸彦。非常に効率が良い仕事ぶりで評判の男だ。本来ならこの時間まで残る必要もない。なのに、最近俺が年末の処理に追われていると、さりげなく残って、ちょっかい出しながらもさりげなく手伝ってくれている。
デスクに山積みになっている資料をひと束とって、彼は隣の席へ座った。
「クリスマス、どうだった? 彼女と過ごしたんだろ」
「散々だったさ」
手を動かしながら口を動かすのは苦手だ。どちらかが必ず止まる。だから一度手を止めて、もらった缶コーヒーをぷしゅりと開けた。古いオフィスチェアだから、背もたれに頼ると、恐ろしい音がする。小さい休憩タイムに入っている俺とは対照的に、彼は口を動かしながら手も動かしている。さすがと言わざるをえない。
「え、なんでさ。楽しみにしてたじゃん」
「まあ……。お前に言っても仕方ないだろ」
「そうだけど、あれだ、後学のため的に」
はい、どうぞといわれても。
あの日のことを思い出すのはおっくうというか、元々面倒だった彼女との逢瀬がいっそう面倒になるなあという感想だ。女の子はサプライズ好きなんだから、女の子は甘いもの好きなんだから、女の子はプレゼント大好きなんだから……年がら年中『私を女の子として特別に扱いなさい』なんて言われてちゃ、気が滅入るというもんだ。
ましてや、クリスマスなんて特別な日。そんな『私は女の子』な彼女が、普通のクリスマスで喜ぶわけがない。
「参考にならないと思うぞ。俺の彼女はちょっと……あれだし」
「はは、あれってなんだよーのろけかよー」
声は笑っているけど、顔は笑っていないし、目も画面に向けたままだ。だだっ広い、二人しかいないフロアの中で、機械的なタイピングの音が響く。缶からたつ湯気に嘆息した。
「のろけなんかじゃない。デート中、食事中、なんならホテル泊まる間中ずっと、『次はどんなことしてくれるの?』って言う目で見られてみろ。女なんてって思うわ」
大げさな話でなく本当に、俺は気が滅入っていた。つきあってようやく1年越して、まあ最初の一ヶ月はこんなもんだろと思っていた彼女の『わがまま』も、度を超したものだとやっと気づけた。結婚する前に気がつけてよかったと思っておく。
「それは…あー、萎えるな」
「だろ」
「彼女から言ってきたんだっけ、つきあおうって」
「そー、そんときフリーだったし、見た目もきれいな子だったからいいやと思ったけど、もうそろそろ別れようかなと」
「あんま好きじゃない子とずっといるのきついよな」
「きついし、わがままばっか言うからな」
缶で手を温めながら、俺はそいつににやっと笑いかけた。
「よかった、『女の子のわがままなんだからかわいいものだろ』って言われたら、お前とのつきあいを考えなきゃいけないとこだった」
「今のそれ、彼女の口癖?」
正解、と言いながらコーヒーを口に含んだ。微糖コーヒーの味がのどから胃へするする落ちていく。甘過ぎもせず、苦すぎもせずだ。俺はそれでも無糖派だけれど、こいつが好きなのが微糖なので、まあ今日くらいはつきあってやっても良いか、という気持ちだ。
消えてる電灯の数を数えていたら、ふと頭をよぎることがあった。缶コーヒーをちゃぽんちゃぽんと揺らしながら、西藤と呼ぶ。
「……お前さ、何年くらい彼女いないんだっけ? 5年?8年?」
「5年だよ、ばーか。さすがに8年はもうED疑惑がつきまとうレベルだぞ」
「それはないだろ」
噂を聞きかじった程度だが、西藤は相当、女遊びがすごいときがあったらしい。本人に確認するまでではない。それが5年前、入社してパタンとなくなったというんだから、噂好きの野次馬たちは『同期か先輩、上司にぞっこん惚れ込んでいるんじゃないか?』なんてとんでもない説を立てていたりする。
恋人がいないからといったって、『お金が有り余ってるから、風俗いくぞー』って風俗に1年で百万つぎ込んでいるかもしれないのに。どうやら野次馬の脳内にはお花が咲いているらしい。
「溜まんねえの?」
なにが、とは言わない。西藤も即答しない。さすがに下世話だったかもしれないな、と一つ空咳をして、画面に向き直った。
いつも上司に褒められて気に入られて、先輩たちにも好かれて、後輩には普通にあこがれられて、そんな好青年面をしているこいつの、何か一つゲスなところを暴きたかった。それを誰かに言いふらす訳でなく、ただ俺の胸の底に沈めておきたかった。これはたぶん、俺の悪いところだと思う。
好青年面のそいつは、横目にもわかるくらいにやっとして、俺の片手をがしっと握った。ぎょっとして動作が止まり、危うく缶コーヒーを倒しそうになった。彼は、まぶしいくらいの下心がのった笑顔を俺に向けて、これは二人だけの秘密な、と言った。思わずのけぞった。こいつでなければアッパー食らわせただろう。身の危険を感じる。
「なんだそれ、ガキくさい」
「うるせー、わくわくするだろそういうの」
「はいはい、それで? なに、二人だけの秘密って」
どこまで言おうなーと、西藤は楽しそうにしている。
「あの噂知ってる? 総務課の女の子が教えてくれたんだけど、俺が五年間彼女いないのは、同期か先輩の誰かに、すっげー惚れ込んでるんじゃないかってはなし」
同意するように何度もうなずいてやる。まさか本人から、その話の真相を聞けるとは。二人だけの秘密って、セフレが三人(もっと?)いるとか、出会い系アプリでヤリ友探してるとかそういう話だ思っていただけ、少し面食らった。
それを見て取ると彼は嬉しそうににやにやして、
「それな、大当たりだから。上司じゃなくって、同期の同僚だけどさ」
「まっっじ!?」
「そんなにびっくりするか?」
そのにやにや笑いは照れ隠しだったのか。
というか、こんな元ヤリチンクソ野郎でも、そんな惚れ込むことなんてあるのか。
「その顔なんて顔だよ」
そいつは存外すっきりした顔で、缶コーヒーを俺に近づけてきた。冷めるぞとでも言うつもりか。うるせえと心の中で罵倒しながら、奪い取った。
もやもやする。有給申請出したのに承認されなかったときくらいもやもやくる。なんだこれ。嫉妬とか、やきもちとかそういうような気持ちだと思う。口をつけたコーヒーは、だいぶ冷めてきている。
俺は、彼女のこと好きでもないのに、こいつがつきあいたいって思ってるのは、本当にこいつが、好きなやつで。
性欲とか人肌恋しさとか、俺の彼女みたいな「こいつといればものがもらえる」「自分の株が上がる」みたいな打算じゃなくって、ひたすら純粋な『好き』って気持ちで。
その、俺自身が経験したことがないひたすら純粋な『好き』という気持ちが、今俺は、すごく羨ましかった。けれどその敗北感みたいな気持ちを言うのは嫌で、おれはついつい意地悪をした。
「……お前、顔赤いけど?」
「興奮しちゃってさ、だって純粋に好きになるなんて初めてで、ついでに言うとこんな『あいつとヤリたい』式の恋バナじゃない恋バナ、初めてしたし」
入社してから、初めてづくしだ、だなんてそいつは笑った。それで、立ち上がって俺の背後に回ってきた。男物の香水のにおいがする。マウスをつかむ俺の手に手を乗せて、ここ違うぞ、と間違った箇所を教えてくれる。ありがたいけれど普通に教えてほしい。
訂正しても、西藤は後ろからどいてくれない。心臓に悪いので、早く隣の席へ戻ってほしい。耳に西藤の吐息が当たる。鼓動が一段と大きくなった。
「それで言ってたよね、村崎。溜まらないのかって。めっちゃ溜まるよ。若いってすごいなーって思うくらい朝勃ちするし」
純粋な話題からいきなりイカ臭い話になって、うっとなる。誰が初恋野郎のシモ事情なんて知りたがるんだ。俺は西藤のほうを向かずに、画面を見たまま、けど手が動かないで、頭の中がパニックになってた。
「もういい、わかった」
「わかってないでしょ。でもわかるよな、男同士なら。好きなやつがいて、そいつ以外に食指が伸びないときどうするかって」
初恋野郎め。さりげにモテた自慢か? 好きなやつがいなかったときなら、平気で誰にでも食指伸ばしてたってことだろ。
お前が本気でなくても本気でも、誰かに『お前とヤリたい』って言えば、相手が勝手に本気になって盛るだろ。言ってみれば良いだろ。いらだちと興奮と、意地悪な気分に任せて、だいたいそんなことを口についていた。
その瞬間、そいつの目の色が変わったのを見なかったのが、幸か不幸かわからない。やっとどいてくれたと、隣の席を見たときにはもう、何でもない顔でキーボードを打っていた。資料をめくる速度がさっきと段違いに上がっているのは気のせいじゃないと思う。
「へ~……」
興味津々だけれど、逆にそれを抑えて冷静に見せているつもりの気のない返事だった。そいつは、分厚い資料をぽんと叩いてはい終わり、といった。それで、こっちに向き直った。
目が真剣で、少し怖い。まるでにらまれているようだ。
「お前だったらどうなの? したいって言われて、ほいほい股開くの?」
「はあ? ……そりゃ、めちゃくちゃ好みだったらな。大人っぽくって美人で、外国の血が入ってればなお良し」
「……帰る」
「はあ!?」
「資料まとめた分、メールで送ったから。もうほとんどやることはないと思うよ」
言外に早く帰れと言われているようだ。彼は俺を待っているように、立ち上がって黒のトレンチを着、こちらをじっと見下ろしている。やはり目が怖い。
「わかった。いく。晩飯おごらせろ」
「資生堂パーラーな」
人の金だと思って……! とは言わなかった。貴重な年末の時間を3時間も無駄にさせてしまったんだから。
缶コーヒーだけ飲み干して、データを保存すると、促されるまま立ち上がった。
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