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第1話
「ほんとうの愛を手に入れたら、人魚は人間になれるの」
「恋を成就させて愛に変えられたら……世界で一番幸せになれるのよ!」
姉たちが話す愛の奇跡の物語。まるで夢のような幸福な日々を想像して目を輝かせたのは幼い少女。まだ恋を知らない人魚姫。彼女はいつか自分に訪れる恋の奇蹟を穏やかな海の底で夢見ていた。
海の見える王国。周りを海に囲まれた美しい国。
そこがお伽噺の最後の舞台になった。
愛する王子の裏切りを知り、海の泡となる事を選んだ少女は声なき声で最後に何を言ったのだろう?
彼女は人魚姫。海の王が最も愛する子供。
恋の為に声を失い鰭を捨てて陸に上がった力なき少女は、唯一人彼女を愛してくれる筈の王子と隣国の姫が永遠の愛を誓う傍らで、静かに涙を零して海の彼方に消え去った。
そして二度と戻らない愛に涙を流したのはこの国の王子。たった一つの愛を失った憐れで愚かな人間の男。
それから長い年月が流れた。
岸壁に立つ塔の中には、両手に手枷をつけられた金髪の少年の姿があった。
彼はこの国の第一王子。自分の両親を信頼していた叔父である大臣に殺され、そこに一人閉じ込められた憐れな子供。
狭くて薄暗いその部屋の下部には鉄格子が嵌っている。海にせり出すように立った石の壁に波が当たり、そこから冷たい飛沫が入り込んで子供の足元を濡らした。
彼は部屋の隅で小さなペンダントを見つめて涙を零していた。
青空のような……海のような青い瞳から滴が音を立ててそれに落ちた。それは両親と共に少年が微笑むカメオの肖像画だった。
二度と戻らない幸せな時間。愛する者を失った彼に残されたものは、たったこれだけ。
「父上!母上……」呟く声は震えていた。
震える指先で愛する者の姿に触れようとした子供の手から、それが滑り落ちた。彼の指は金色の鎖を掴んだが……ペンダントは硬い石の床を跳ねて、鉄格子の隙間から暗い海の底へ落ちていった。
あれだけなのに……!この手に残ったのは……あれしかないのに!!
大切な思い出を取りこぼしてしまった事で怒りに駆られた少年は、鉄格子を掴んで力一杯揺さぶった。泣きながら返せと叫んだ。
ガコン!!
大きな音がしたと思った次の瞬間、潮風で腐食したそれは枠ごと外れた。そしてその勢いのまま子供は外へ……海の中へ放り出された。
夜の海底に小さな人影があった。
澄み切った水の流れを風のように受けて、黒い髪は海藻のように揺れている。
幼いその顔は誰もが息を飲む美貌を備えていた。
海の中を弾むように歩く子供は人魚。海の王が溺愛する人魚の末っ子は、今夜も月の綺麗な晩に海底を散歩していた。
頭上を見れば、銀色の美しい光の帯。月の光が水をキラキラと輝かせて周囲を明るく照らしていた。
少しだけ海上の景色を見にいってみようかな。
人の住む家は少し変だけれど、中々に綺麗だ。
そう思いつくと人魚は軽く飛び上がるようにして、上へ昇り始めた。
「あれは……?」
月の光を浴びてキラキラと輝くのは、金色のもの。
太陽の光を紡いだ……それは人間の髪の毛だと気付いて驚き固まったのは一瞬。
人魚は素早く水を蹴り、水面から勢いよく落ちてくるそれへ手を伸ばした。
このままでは溺れて死んでしまう。
人魚は慌ててその人間の顔を覗き込んだ。
目を固く瞑っているが、どうやら水に落ちた時のショックで気を失ったらしい。水を飲んでなければいいのだけど。
人魚は唇をそっと合わせ、空気を分けてあげることにした。
よし。これで大丈夫だろう。
自分の唇から空気を取り込もうとする、微かな呼吸が感じられて漸くホッとすると人魚は人間の子供を抱いて岸へ向かってゆっくりと泳ぎだした。
ここら辺の海なら何度も遊びに来たことがある。ここは彼には庭のようなものだった。
岸壁に開いた小さな穴を潜って先に進めば、そこには広い洞窟があった。人魚は波の力を借りて少年を海藻が積み重なった場所に押し上げた。
気を失った子供が寒さに震えているのを見て、人魚はそっと寄り添い温めてあげることにした。
人魚は人間と違って水に体温を奪われたりはしない。温かな掌で手足をさすってやると、人間の子供は薄く目を開いてこちらを見た。綺麗な青い瞳だった。
空の青。海の色の瞳。
そして太陽の光。金色の髪。その人間の子供は、人魚が好きなものを沢山持っていた。
助けてあげられてよかった。
嬉しくなって人魚は微笑んだ。
大丈夫?
そっと耳元で囁いたけれど、人魚の声が彼に届くことは無いのだ。陸の上で人魚は話すことができないのだから。
それがちょっと残念だったけど、それでも彼は自分の顔を見て、握られた手を見て驚いた顔で目をぱちぱちした。
その動作がとっても可愛かったので笑うと、彼もちょっとだけ笑ってくれた。
君は誰?どうしてこんな夜に海に飛び込んだの?
それ以前に、君ってば泳げないんじゃないの?
ぱくぱくと口を動かす自分を見て、少年は首を傾げていた。
そして何かに気づいて、顔を強張らせると涙を零した。
「……失くしてしまった……!大事なものだったのに……!あれだけしか残らなかったのに」
嗚咽交じりに呟く少年の指先には、金色の鎖の切れ端があった。
指先が白くなるほど強く握りしめられたソレに、人魚は少年が落としたモノを追いかけて海に飛び込んだ事を知った。
悲しそうに泣く彼を慰めてあげたくなった。
大丈夫。
俺が探してあげる。
海の中なら誰よりも良く知っているよ。
ねえ泣かないで?必ず君の大事なモノを届けてあげる。
だから……笑ってほしいな。
君が笑うのを見ると、なんか胸があったかくなるんだよ。
声なき声で人魚は囁いた。
届かないと分かっていても、それでも彼を元気付けてあげたかったから。
流れる涙を唇で拭い、握りしめられた指を優しく撫でた。
「……こっちから声が……!ご無事ですか?」
「殿下!!助けに来ましたよ!」
「ああ!よかった!お探ししておりました!」
「おおーい!こっちだ!早く!!」
その時聞こえて来た人間達の声に、咄嗟に人魚は海の中へ入り姿を隠した。人間の大人は人魚には、とっても危険な存在だ。それでも少年が心配だったから、波の隙間からちょっとだけ顔を出して様子を伺うことにした。
もし大人の人間が少年に害を及ぼそうとしたら、そうだな……毒を持つ魚を呼び寄せて片っ端から投げつけてやろう。
だが少年を見つけた大人達が喜びに顔を輝かせて震える少年を温かな外套で包み、とても大切に扱っているのを見て、人魚は漸く安心してそこから去ったのだった。
それから十年後。
月の綺麗な晩に、海上に豪華な船が浮かんでいた。
今日は第一王子の十八の誕生日。海の上の王国の王子は、成人の儀を必ずこの場所で行うのだ。
次期国王が無事成人したことを人々は喜び、船上で華やかな宴を繰り広げた。
皓々と月が照らすそこはまるでお伽噺の再現。遠い昔に失ってしまった最愛の人魚姫に再び出会う奇蹟を願い繰り返し、何度でも……失くした愛を取り戻そうとするように宴は続く。
本日の宴の主役。第一王子は不機嫌だった。
彼は海が嫌いだ。
両親を失った晩に、大切な思い出を飲み込んだ海は彼にとって憎い敵のようなものになっていたのだ。
海に落ちたペンダントを追って冬の海に投げ出された彼は、救いにやってきた家臣たちに城へ連れ戻されたその日から一週間も高熱を出して寝込み……すっかり海の事が嫌いになってしまったのだ。
ただ時々、こんな月の美しい晩に波間を揺らす黒い影を見ると胸が締め付けられる。
大切な何かを忘れてしまったような……そんな焦燥があった。だから彼は余計に機嫌が悪かったが不機嫌な宴の主を置き去りにして……その場は賑やかだ。
だが、そこに波間から来訪者が現れた。
一瞬にしてその場は静まり返った。
海の王からの使者が今度もやって来たのだ。
この国の王子が成人するには、海の王からの使者を丁重にもてなすというしきたりがある。
命を救ってくれた海の娘を裏切り死へと追いやった事実を決して忘れぬように。
尊く美しい愛を自ら切り刻んで捨てるという愚かな行いを心の底から悔いた人間を許せる日が来たら、海の王は再び人間の許へ自分の子供を嫁がせるだろう。
そう伝えられていた。
遠い昔からの約束ごとなのだ。
だから成人の儀にやってくる人魚は老人ばかりなのか。
人魚姫達は皆美しい。
一目見れば欲しいと思わずにいられない。そんな美しい生き物を強欲で愚かな人間に見せることを海の王は決して許さない。
だから今夜もまた、年老いた人魚がやって来たのだと誰もが思っていた。
始めに目についたのは黒い外套。
ぽたぽたと滴を垂らす海藻に似たものを纏うのは、人魚しかいない。
船上をゆっくりと歩くその足に履いているのはヒールのないつま先が覗くサンダル。人魚は足の指に薄い水かきを持っている。窮屈な靴など履けないからだ。
だが……その白い足の甲は滑らかで皺ひとつないのが見えた。驚く人々の視線の中で、はらりとフードを払い落とす手もまた白くて細い。
月光の下。現れた白皙の美貌に、息を飲む人々の群れ。
黒い髪は水に濡れて頬に張り付いているが、その美貌は輝くばかり。
ぴったりと身体に張り付いた服。細くてしなやかな体を見て漸く彼が……若い男性だと人々は気付いた。
その瞳は……月の光を跳ね返して深い海の色を湛えていた。
年の若い人魚がこうして人前に姿を現すのは本当に稀だった。
海の王が許すはずがなかった。
だが彼はやってきた。何故なら……ここに来る理由があったからだ。
人に恋をした人魚は、その恋が成就しなければ死んでしまうという。
人魚が生き残るには人と永遠の愛を誓うか、恋しい人の胸にナイフを突き立てるか二つに一つ。
だから人に恋をした人魚は、クラーケンの牙で作られたナイフを海の王から渡されて陸に上がる。
「相手の胸にそれを突き刺し、ここへ戻っておいで」
そう言われてやって来るという。
愛しい子供を二度と人間なんかに殺されたくはないのだ。海の王は人間が本当に嫌いなのだから。
海の魔物の牙で出来たそのナイフは、今夜現れた若い人魚の胸にも下げられていた。
間違いない。
彼は……たった一人を求めて海の底から陸に上がった人魚姫だった。
人魚姫の前に王が進み出て膝を折った。
「ようこそ……お待ちしておりました。海の王との約束に従い今宵よりあなたは我が国の賓客。どうぞあなたの望みを叶えて下さい。我らはどんな協力も惜しみません。麗しき海の王のいとし子よ。あなたの為の宮殿へご案内いたします」
王の声に人魚姫は微笑んだ。
まるで月の化身のような……見る者全てを従える美しい微笑みだった。
待ちわびた賓客を乗せた船はゆっくりと岸へと戻り始めた。
その間も宴は続く。
目出度い日。
海の底からの賓客を無事に迎える事ができてみな一様に安心したのだろう。
遙か遠い昔からの約束。それを違えることは決してない。何故なら海の見える王国が存続できるのは、海の王のお心次第。
海の王の怒りに触れ、海の底へ沈む筈の王国を救ったのは、この国の王子を愛していた末の人魚姫の願いがあったから。
涙ながらに、死んだ妹の気持ちを汲んで欲しいと願ってくれた姉姫たちのお蔭だと言う。
だからこそ約束は破られることなく今までも、これからも続いていくのだ。
船はようやく美しい月を背に従える王国へと戻った。
船から最初に降り立ったのは王と王妃。
その二人が見守る中を、人魚姫の手をとった第一王子がゆっくりと歩く。
王宮には月の離宮と呼ばれる美しい建物がある。人魚姫の為に、新鮮な海水を常に湛えた湯船のような物がある白い建物のことをそう呼ぶのだ。そこに自分の誕生日を祝いに海の底からやってきた賓客を案内して、成人の儀式は終わる。
人魚姫の手を引き、白い部屋へと案内すると第一王子は漸く役目を無事果たしたとホッとした表情を浮かべた。そんな彼に向って人魚姫は微笑んだ。
「お役目お疲れさま。また明日」
囁く声はふんわりと甘い。
眩暈がしそうだと思いながら、第一王子は「また明日」と答えた。
人魚姫が滞在する月の離宮は、王宮の中で最も海に近い場所にある。
海に面した大きな窓の傍に、大人が数人悠々と泳げるほどの……海水の湯船は肘掛けのある長椅子が置かれた床の少し先からなだらかに傾斜して、窓際に向かって深くなっている。一番深い場所は大人でも頭が出せない位だ。
彼はなだらかな傾斜の部分にシーツを敷いて、夜行性なのか……昼間はよくそこで寝ていた。
半年だけの滞在だと聞いた。
彼はその間に意中の相手に接触して、愛を誓うか心臓にナイフを突き立てるかを決めるらしい。
それまでは仲良くしてねと微笑む彼に第一王子は頷いたのだった。
ここに人魚姫が来て数週間が経った。相変わらずのんびりと昼寝をする人魚姫に、一体どういうつもりなのかと呆れて聞くと
「……実は、どうするのかまだ決めていない」
そう言って困ったように笑う人魚姫を見て、内心ほっとした。
まだここにいる。
まだ誰のものにもならない。
ずっとここにいればいいのに。
第一王子は、一目見た時から人魚姫に惹かれていた。
こんなに美しい生き物が、自分の為に遠い海の底からわざわざやって来てくれた。それが純粋に誇らしかった。
だが彼は自分の為だけに来たわけでは無かった。
自らの恋の為に陸に上がったのだ。それが少しだけ面白くない。
そんな第一王子の気持ちに気づいていない人魚姫は、揶揄う言葉を楽し気に投げかけてきた。
「そういう君こそ、随分とのんびりしているけれども……そろそろお妃様の最終候補絞ったのかな?もしかして先週の宴で君が二回踊った、あの子かな?大人しそうな雰囲気の……巨乳というベタな好みに吹き出しそうになったよ?」
ベタとか言うな。
巨乳は男のロマンだろ!
そう返せば、彼はふうん?と言って小さく笑った。
見た目は確かに大事だよねと、仰向けに水に浮かんで頷いていた。いつ見ても器用だなと感心する。
お前はどんなのが好きなんだ。
どんな顔の奴がいいんだ。
そう言って相手の反応が知りたいとこっそり思うのだった。
とても聞けはしないが。
俺は海が嫌いだ。というよりも怖い。
だが……彼は嫌じゃない。好きだ。
滞在する間彼は客人だが、世話になっているお礼だよと言って、城で開かれる宴で時々竪琴を奏でてくれる。白く淡い光を纏うそれは、彼が海の中から持って来たものだ。
「月光に百年照らされた鯨の骨で作られたものだよ」
それはとても美しい音色を奏でた。
宴で彼がそれを弾くと、いつも人々はうっとりとして耳を傾けた。
静寂の中でその音は月の光のように儚く……夢のように響いた。
「俺には人魚の歌が歌えないからね。だから……これはその代わりなんだよ」
その見事な演奏の後、彼の為の特別な部屋で褒めるとそう言って彼は細い指先で弦をはじいた。
何故歌えない?
純粋な好奇心から聞いた自分に彼は自分の過去を話してくれたのだった。
「子供の頃にね。どうしても人に言いたい言葉があったんだよ。伝えたい思いがあったから……」
彼は知っているよね?と微笑んで話を続けた。
「人魚は成人してからでないと海上に出てはいけない。その決まりは昔からあったけど、あの悲劇の後それは徹底されたんだ。人魚の声は人とは違う所から出ているんだよ。海の生き物と話す為にね。人と同じ音域で話すには、かなり無理がある。大人になり切れていない子供の人魚が人の言葉を話せば……人魚本来の声を失う。海の生き物と話すことが出来なくなる。だから禁じた。でも、俺はそれを破った。美しい……あの調べを俺が歌う事は永遠にないだろう」
「充分すぎるほど綺麗な声なのに?それでも駄目なのか?」
俺の疑問に彼は少し困ったように微笑んだ。
「……セイレーンっていう海の魔女の話を知っている?彼女達は、恋を失った人魚の成れの果てだよ。
恋人に裏切られた人魚は、胸にクラーケンの牙のナイフを突き立て恋人から心を奪う。
恋する心。愛の思い出をすべて失った人間は……美しい月の晩に一人船に乗って沖に出る。そして歌を聞くんだ。失くした恋の歌を。永遠に自分を求める愛の歌を。
人魚は、歌に魅了された人間を海の底へ引きずり込むんだ。深い深い……海の底へ。
そして魚たちによって綺麗に洗われたかつて恋人だった頭蓋骨を抱いて、ようやくその恋を終わらせることが出来る。人魚はどうしたって、恋に生き恋に死ぬ。
人間に恋した人魚の寿命は短い。たとえその恋が実っても愛する者が死ぬ時、人魚も共に死ぬからだよ。
それでも……恋を知らずに生き永らえる人魚達よりも幸せだろうね。世界で一番、幸せだろう。だからセイレーンにさえなれない俺は……この恋を殺す為にここへ来た」
微笑む人魚は、胸に下げられたナイフを愛おしそうに撫でた。
何故?
恋の成就を望まない理由を問えば、意外なことに答えはあっさりと返された。
「……覚えて無いんだよ。子供の時だったから……当然話しをしたこともない。相手も……きっと俺のことなんて覚えて無いだろうしね」
困ったもんだよねと笑う人魚姫と呆然とした顔の間抜けな俺。
そんな馬鹿な!!
絶対忘れるもんかと言えば、苦笑された。
なんで君がむきになるのと言われて、こんなに綺麗な顔を忘れる訳がないだろうと言えばまた笑われた。
笑い事か。
必ず見つけてやる。
だから……絶対に諦めるな。
必死で言い募る俺を見つめる彼の眼差しは、何故か少し潤んでいるように見えた。
「お前だけを愛しているよ……!」
男の声にふわりと花が綻ぶ笑顔が零れた。
愛しい人。
大切なあなた。
微笑んでいるのは、水の中に半身を浸した長い黒髪の人魚姫。
「永遠にお前だけだと誓う。だからどうかここで私の帰りを待っていて欲しい」
そう告げた男の言葉が人魚姫には分からなかった。
海の生物の言葉とは全く違う人間の言葉の殆どが人魚姫には理解できない。
知っている言葉はほんの僅かだけ。
ドレス。花。宝石と愛の言葉。人魚姫が知っているのはそんな言葉だけ。
だから愛しい人の瞳を見つめて、その吐息で思いを測る。
愛している。男の瞳がそう言っているのが分かった。
だから自分も告げた。
「あなただけを、永遠に愛している」と。
男が部屋から居なくなって暫くして、自分の世話をしてくれる人間の言葉を聞いて彼女は吃驚した。
結婚式。そう聞こえた。
人魚姫は、それが永遠の愛を誓う儀式だと知っていた。姉たちが語ってくれた、夢のような愛の奇跡の物語を何度も聞いて覚えていたのだった。
嬉しい。これで私は人間になることができる!
人魚姫は急いで彼が自分の為に用意してくれたドレスを着て、窮屈な靴を履いた。
あとは白い花。
花嫁が持つ白い花は、部屋に飾られた花瓶に入っていたからそれを持って部屋を出た。
窮屈な靴に押し込められた足が痛かった。
でも彼と一緒にいる為なら平気よ。
人魚姫は彼の許へ急いだが、開かれた扉の向こうに愛しい人の姿を見つけて……彼と口づけを交わす自分ではない花嫁を見た時に悲鳴を上げた。
人魚姫の声なき叫びに気づくものは……誰も居なかった。
ああ……!どうしてなの?
私じゃなかったの?
あなたは、私だけだと言った。
私もあなただけだと言った。
あなたが好き。
あなたも私が好き。
だからここまで来たのに。
全部捨ててここまで来たのに……!
人魚姫は自分の部屋へ戻り、クラーケンの牙のナイフを見た。
涙が零れ、水に落ちたそれは真珠に変わった。
その真珠の色は黒。
絶望の色。
人魚姫の涙は美しい輝きを失っていた。
「……なんで待っていてくれなかった?」
男の囁きは涙に濡れていた。愛しいモノを抱く腕は震えていた。
胸にナイフを突き立てた人魚姫をかき抱き、男は泣いていた。
恋に破れた人魚姫は、男の胸ではなく自分の胸をナイフで抉った。セイレーンとなり、失った愛を取り戻すことを選ばず自らの恋を殺す事を選んだのだ。
男の目の前で呪いの黒い刃はゆっくりと人魚姫の心臓で溶け、心臓の形の黒い痣を残して消えた。
暫くすると波打ち際から人魚姫の姉たちがやってきた。自分達の妹の叫びを遠い海の底で聞き、迎えに来たのだ。
そして男の腕から抜け殻のようになった人魚姫を奪おうと手を伸ばしたが、それを拒むように人魚姫の瞳から涙が零れた。
一粒の真珠となったそれは、淡い水色だった。
悲しいの。寂しいの。
小さな水色の真珠は水の中で囁いた。
人魚姫の心の中に、まだ男への恋が残っていたのだ。
そしてまた一粒、真珠が生まれた。
離れたくないの。傍にいて。
囁きながら、真珠は水に沈んだ。
姉たちは、人魚姫を引き離すことを諦めて彼女を抱いた男に告げた。
再び男が人魚姫に命を救われたことを。
そして失った愛に苦しみ死ぬがいいと言い残して遠い海の彼方に去っていった。
男には、人魚達の言葉は分からない。だが一つだけ分かったことがあった。
永遠の愛を失ったのは、男の方だということだけが分かった。
「人間の世界と人魚の世界は違う。それを分かっていなかった人魚が悪いと……君達は言う。王族は子孫を残さなければならない。だから……隣の国のお姫様と政略結婚した王子を責めることはしないで、愚かな人魚姫が自分の恋に殉じた悲劇の物語に作り変えてしまった」
彼は寂しそうに言って、本当に人間は馬鹿だねと溜息を吐いた。
俺は答えられずに俯いた。
知っていたからだ。
俺は人魚姫を心の底から愛していた男の末裔なのだ。
国の為に仕方が無かったのだと……つまらない言い訳をした、愚かで悲しい男の子孫。それが俺だった。
「……まさか、人魚姫が人間の言葉が分からないなんて……知らなかったんだ……」
言い訳は、あまりにも無様な響きで自分の胸を突き刺した。
知らなかった。
そんな重要なことを何一つ知らず……自分達は生きてきたのか。
言葉が届かない。それがこんな悲劇を生んだのか。
無知が恨めしかった。
一体何が悪くて大切な人を殺してしまったのかも分からず悲嘆にくれた男。
情けないなんてもんじゃない。その場で死にたかっただろうな……その王子。
ちょっとだけ先祖に同情してしまった。
「だからね。海の側も大慌てで人魚姫達が不用意に人間に近づかないように対策を立てた。でも……俺みたいなのが時たま出てきちゃうから、人魚と一番近い関係にあったこの国とだけは交流していたんだろうね。人魚姫を殺した罪悪感を薄れさせない為に、王族の成人の儀に使者を送り、人間の言葉や世界を知る者を増やした。お蔭で人間の言葉自体は成人前の人魚でも聞き取りだけはできるんだよ?」
驚いた。
人魚達に繰り返し伝えられているという悲劇の物語。決して人間に近づいてはならないと教えられて育つという人魚姫。
それなのに残酷で愚かだという人間に近づき、恋までするなんてどうかしている。
正直に俺がそう言うと本当に嫌になるよねと彼は笑った。
「人魚の間にはね、長い間言い伝えられている秘密があるんだよ」
永遠の愛を誓いあった人間と人魚には、至上の幸福が訪れると。
たった一つの愛を成就した人魚の瞳からは虹色の真珠が生まれ……そして人魚は人間になることが出来ると言うのだ。
「人間になりたいって思うのは、やっぱり同じ場所に行きたいからだと思うな。海から離れられない身体っていうのは、どう考えても不便だしね。君が話してくれた一面の花畑や山や森や……麦の穂が揺れる黄金色の海!人間になれば簡単に見に行けるだろうね」
人の世界はとても面白いよと彼は笑った。
その瞳には憧れが輝き、とても綺麗だ。
見せてあげたいと思った。
彼が望む地上のあらゆる景色を二人で見に行けたら……!
だがその願いを叶えるには、彼は人との間に愛を誓わなければならないのだ。
ああ!
彼に生きていて欲しい。
望みを叶えてやりたいのに。
でもその為には、彼は自分ではない誰かの物になるということだった。
それは嫌だな。すごく嫌だ。腸が煮えくり返って吐き気がするほど嫌だ。
でも彼が死んでしまう方がずっと嫌だ。
彼が死んだら俺もきっと死んでしまうと思う位に……嫌だと思った。
「大丈夫だ。必ず、幸せになれるさ」
俺が確信を込めてそう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
その日幼い人魚は、朝早くに昨晩助けた人間の少年と出会った場所へ出かけた。
本当は人間が近くに住む海域は出入り禁止になっている。見つかったら……きっと物凄く沢山のお小言を言われるに違いなかった。
それでも幼い人魚はそこに向かった。
約束したのだ。
金色の髪と青い瞳。とても綺麗な子供の大切な物を必ず自分が探してあげると。
泳げもしない癖に。しかも波が高い危険な夜の海に落ちてまで求めたそれを失って、彼は泣いていたのだから。
探し物は、結構簡単に見つかった。
海の生き物たちはいつだって人魚にとても親切だ。
「それならあっちの海藻に引っかかっているよ!」と、うつぼに教えて貰って手に取れば、そこには幸せそうに笑うあの子によく似た姿があった。
隣に居るのは両親だろうか?人間は自分達の姿を絵描いて残すものらしいと聞いた事があった。これは、貝を削って絵にしたものだろう。
幼い人魚の目からみても、それはとても良く出来ていると思った。
あとは、これをもって彼に会いに行こう。
そう思ったところで、自分の声が彼に届かない事に気が付いてちょっと眉をしかめた。
大人になってからなら、人魚は人の音域の声を出すことができる。
それでもかなり練習が必要だけど。
でも自分は……悩んだのは少しの間だった。
幼い人魚はその日から皆に内緒で人間の言葉の練習を始めたのだった。
「昼間は漁師の船を追いかけて、海の中から話し声を聞いて色々な言葉の音を覚えた。夜は自分の部屋でその音の意味を調べた。ある程度理解したら今度は、海の上の岩の陰で発声練習をしたよ。かなり大変だった。でも……どうしても言いたい事があったんだ。その為に自分が人魚として駄目になるって分かっていたけど、それでもいいと思ったんだ」
あの頃の自分は必死だった。かなり必死だった。
だってあの時あの子は泣いていた。
宝物の為に暗い海の底まで追いかけてきたのに……それを失ってどれほど悲しかっただろう?悔しかっただろう?
どうしても返してあげたかった。
そして、この手の中の彼と同じ笑顔をもう一度見たかった。
必死の努力が実を結び、なんとか人と同じ音域の声が出せるようになるまでそれでも五年かかったが、人魚は元気よく海の城を出発した。
何度も彼の大切な落とし物が入った黒い外套のポケットを撫でて微笑みながら、海の中を飛ぶように進む。
そうだ!他にも沢山お土産を持って行こう。
綺麗な色の貝殻。珍しい色をしたサンゴの欠片……もしかしたら小さい生き物が好きかもしれないからと、タツノオトシゴの子供とオウムガイの子供もポケットに突っ込んだ。
彼らは「何事!?」という顔をしていたが、人魚の事が好きだから大人しくそこに居てくれた。
目的の場所にはすぐに到着した。人魚の本気は凄いのだ。
逸る気持ちを抑えながら波打ち際の岩の陰から、そうっと砂浜を覗いた。
うっかり人間の大人に見つかれば捕まって売られてしまう。それは嫌なので用心深く相手が近づくのを待つことにした。
人魚は水の中でも遠くの音を聞き分けることが出来る。
懐かしい声。
覚えているあの子の声がした。
「……俺は海が嫌いだ。臭いし……波が生き物みたいで気持ち悪い!海に生きるものも好きじゃないんだ」
彼と同い年くらいだろうか。
砂浜に落ちている貝殻を拾って差し出した少年の手を見た、金色の髪の子供は顔を顰めてプイッと横を向いた。
嫌い。
臭い。
気持ち悪い。
彼の言葉が、ぐるぐると頭のなかで踊った。
気付けばその場から逃げ出していた。
「きみのたいせつなもの、みつけた……んだよ……!やくそくしたから。だからとどけにきた。きみのなまえをおしえてください……おれとともだちに……なってください」
練習した言葉。
届けたかった思い。
届ける事が一生出来ないと分かった時に、涙が零れた。
それは……悲しい程に深い青色をした真珠に変わった。
幼い人魚は人間に恋をしてしまったのだ。
それを知り海の王は怒り、嘆き悲しんだ。
最愛の者。彼は幼い人魚をそう呼んだ。彼こそが最愛の人魚姫。
海の神が再び戻してくれた海の王の掌中の珠。最も美しく愛しい我が子。
かつて最愛の者の裏切りによって、自らの心臓にクラーケンの刃のナイフを突き立て人形のようになってしまったその人魚姫は、死ぬまで愛する男の腕に抱かれていた。
人魚姫の命が尽きたその時、人魚姫は一枚の大きな鱗に姿を変えていた。海の神である竜神の鱗の姿に戻ったのだ。
姉たちは妹の鱗を大切に胸に抱き、海の神の許へと運ぶと、どうか自分達の妹を再びこの手にお返しくださいと願ったのだった。
人魚という存在は海の神によって生み出されるが、何故か人間との間にしか子供をもうけることができない。
そして不思議なことにその子供は人間とほとんど変わらないという。
海から離れて生きることが出来るし、生まれてすぐに人間の言葉を話すとも言われている。
実際に人間との間に子供をもうけた人魚は今のところ居ないので、本当のところは誰も知らないのだが……永遠の愛を誓った人魚が人間になれる。それはその事を示しているのではないだろうか。
人と共に地上で暮らすことができるその子供こそが奇蹟。
永遠の愛の証。
たしかにそれは夢物語で終わるに違いないだろう。あり得ない物語だ。
まして男の性を持った人魚にその奇跡が起きる筈もない。
かつての末姫の生まれ変わりである自分に、海の王はナイフを渡してこう言った。
「……人魚の声を失ったお前は、セイレーンになることも出来ない。だからお前にはクラーケンの牙のナイフではなく海獣の牙のナイフを渡そう。必ず男を殺して戻って来るのだ。ここにはお前を傷つけるものはいない。姉たちと一緒に今度こそ……永く生きて欲しい」
悲しみを湛える父王の顔を見て、人魚姫はそれに儚い笑みで頷いた。
「白いお花が好きだというので……」
第二王子はそう言うと、部屋にある大きな花瓶に持って来た大輪の白い薔薇を生けてくれた。
人魚姫がここに来てから、その花瓶には常に綺麗な花々が活けられていた。香しい花の香りに満ちたその部屋は美しい人魚姫の為の特別な場所なのだ。
その日第二王子が部屋から出て行った後にやって来た第一王子は、何故か手に白い薔薇を持っている人魚姫に驚いた。一体どうしたと聞けば彼は楽しそうにこう言った。
「不思議だよね……!白いのにとてもいい匂いがする。地上ではなにもかもが珍しい」
人魚姫はそう言って、白い指先で花弁を撫でた。
海の中では白い色のものは、死んだものの色だから。
魚の死骸。たまーに人間の。
腐ってしまった匂いの元なんだよと彼は肩を竦めた。
だから白くていい匂いがするのが珍しいんだな。
なるほど。
海と地上ではそんな事でも隔たりがあるのか。
首を捻ってそれから頷く自分を見て可笑しそうに彼は笑った。
そう。いい香りがするものは好きなんだと嬉しそうに白い薔薇の花に顔を埋める人魚姫はとても幸せそうだ。
そんなに花が好きならもっと珍しいものを見せてあげたいと思った。
「今から良い所に連れていってやる」そう言って彼の手を引いて庭の温室へ誘った。
月明りとランプ。
薄明かりの下、咲き乱れる花々を前に彼はとても嬉しそうに微笑んでお礼を言ってくれた。
「本当は……陽の光の中の方が、もっと色が鮮やかなんだけどな」
急に思いついたからごめんなと謝ると、彼は小さく首を振った。
あんまり陽射しが強いと俺干乾びちゃうし。
それもそうか。
だからこれでいい。これが嬉しいと言うので良かったと俺も微笑んだ。
このまま永遠に時間が過ぎなければいいのに。
そんな自分勝手な願いは誰も聞いてはくれない。
第一王子は焦っていた。
死ぬほど焦っていた。
「どうして居ないんだ!!このままじゃ……あいつは……!」
死んでしまう!
期限まであと一月もない。
半年まで一月を切ったというのに、人魚と出会ったという人間が見つからないままだ。
焦りは日に日に喪失感を引き摺りながら重く心に圧し掛かってきた。
失いたくない!
たとえ自分の傍にいてくれなくてもいい。
誰かと共に幸せになるのならそれでもいいんだ。
生きていてくれればそれだけでいい。
お願いだ。
死なないで欲しい。
第一王子は、必死で彼の心を捕えたという人間を探していた。国中におふれを出すだけでなく、自分も歩いて探し回った。
足が棒のようになっても諦める訳にはいかなかった。
海の底から一目だけでもいい。ひとこと言葉を交わすだけでもいいから……そんな願いを持ってやってきた彼なのだ。
どんな人間だって彼を一目見ればきっと恋に落ちてしまう。美しい人魚姫を望まない者などいないだろう。
会えばきっと……自分の傍から居なくなってしまうだろう。
愛するものと二人。いつまでも幸せに暮らすだろう。
それを見れば自分の心はきっと壊れてしまう。
こんなにも彼を離したくないと心が叫ぶ。
どこにも行かないでくれと縋り付きたい衝動は、いつまで抑えられるか自分でも分からないほど大きく膨らみ続けている。
それでも彼が生きていてくれるなら。
それならいいと思う。
絶望に打ちひしがれて机に突っ伏していると、心配して顔を出した第二王子が、もしかして……と話してくれた、自分が忘れてしまっていた過去の話を聞かせてくれなかったら。
もうすぐ殺されるという恐怖に震え、真冬の夜の海に転落した所為で高熱を出して前後の記憶を失ってしまったというその話を知らなかったら。
今度もまた……愚かな人間は同じ過ちを繰り返してしまっただろう。
「お前なのか……?あの時に俺を助けてくれたのは……お前だったのか?」
問いかけは掠れてしまった。
頼む。どうか頷いてくれ!
願いに、目の前の黒い頭はこくりと頷いた。
「なんで……!最初から言ってくれればこんな面倒なことには……!」
「言っても無駄だと思ったから」
返された言葉は冷たく固い。
今までの柔らかさが嘘のようだった。
驚く俺の目の前で表情を硬くした人魚姫が真実を語り始めた。
「……俺は言ったよね?人間と人魚ではなにもかもが違うって。生きる場所も違うし考え方も違う。君がこの国の第一王子だって知った時に、もう駄目だって分かっていた。叶わない恋に身を焦がし……俺もまた消えてゆくしかないと分かっていた。でも……最後くらいは君と一緒に過ごしたかった。思い出だけでもいいから欲しくて……俺は海の底から来たんだよ」
もう……気持ちを抑えきれない!
儚い笑みを浮かべる彼を抱きしめた。
細くてしなやかな身体は震えていた。
いや。
震えているのは俺の方だった。
馬鹿な事を言わないでくれ!
駄目な事なんてない。
俺はお前が好きなんだから。
震える声の告白に彼は顔を上げて、俺をキッと睨んだ。
「嘘!!君は……あの時、嫌いだと言ったじゃないか。臭いし気持ち悪いし……おまけに怖いし!海も海の生き物も全部嫌だと言った!あの時俺がどれだけ悲しかったと思うの?このまま消えてしまいたいと……何度死にたいと思ったと思って……いるの……?」
泣きながら詰る人魚を抱く手を緩めない。
離すものかと更に力を込めて覚えていない事だったが、それを言わずにただ謝った。
ごめん。俺が悪かったと何度も謝り、優しく頭を撫でて慰めているといつしか彼は泣き止んでいた。
俺を見上げる瞳は夜の海の色。
あの夜に、大切な家族の面影を飲み込んだ海の色の瞳が自分を見つめていた。
「好きだ……お前がとても好きだ」
「俺も好きだよ」
囁く唇同士を重ねた。
甘い口づけを交わしている内に身体が熱を持った。
あれほど欲しいと望んだものがこの手の中に。
全てを望んでもいいだろう。
今すぐに彼を抱きたかった。
いいか?尋ねれば彼は静かに頷いた。
「……お前は……やっぱり水の中で……か?」
聞けば別にベッドでも構わないと言われたが、気になったので更に初めてかと聞けば殴られた。
「……人魚が好きでもない人間と……そんなことをすると君は本気で考えているの……?」
それもそうか。
素直にごめんと謝って、それなら水の中の方が良いなと言えば何で?と返された。
何でじゃないだろう。
溜息を吐いて腕の中の相手を見つめた。
初めてだという相手を、慣れない所で色々するなんて余りにも酷いだろう?だからお前が少しでも安心できるところの方が良い。
そう告げれば首を傾げられた。
「……水……苦手なんだよね……?大丈夫?本当に出来るの?」
物凄く不安そうに言われたが、心配するのはそこじゃないだろう。
いいから早く来い!
手を引いて水の中に入り彼を抱きしめると、優しい力で顔をそっと引き寄せられ唇に甘い吐息が掛かった。そのまま甘い口づけを深く交わした後で温かな唇を離して彼は微笑んだ。
「安心して……俺は人魚だから君を水で溺れさせたりしない。あの時だって……ちゃんと君に呼吸させてあげたんだよ?怖がらないで……水の中なら俺は君を守ることぐらい全然できるんだからね」
囁かれて、ん?と思った。
「って……!お前……俺のファーストキス!さりげなく奪ってたのかっ!?」
驚いて叫べば笑われた。
意識無かったからノーカン……じゃなくてだな。
なんで起きている時にしてくれなかったんだよ!そうしたら絶対に忘れなかったのに!
怒りだした俺を見て吹き出した彼は、物凄く嬉しそうな顔をした。
仕方ない。
そんな顔されたら……負けを認めるしかないだろう?
覚悟を決めて彼を腕に抱いたまま、勢いよく水に飛び込んだ。
水の中では彼の身体の方が熱い。
人魚は水中で体温が上がるそうだ。
熱い。すごく柔らかくて気持ちが良い。
おまけにどういう仕組みなのか、男なのに勝手に濡れてくるのは……人魚の特性らしい。
あんまり慣らさなくて平気なのが助かった。
気持ち良すぎてなんか色々限界だったからだ。
最初は水の上に顔を出してした。
自分にしがみ付く彼の上気した顔を見ながらするって……最高だ。
段々水が気にならなくなったのを見計らって、キスをしながら水の中へ沈んだ。
本当に息が苦しくなくて驚いた。
「……俺の身体の周りには空気の膜のような物が作られる。だから……どこかに口を触れさせれば、君は息苦しくないと思うよ」
言われた通りに、首筋を柔らかく噛めば口の中に空気が入ってきた。
これなら大丈夫だ。
水底に彼の肩を押し付けるようにして、腰を押し付け合った。
ぬるぬると互いを擦り付け合うだけでも凄く気持ちが良い。
キスをして、頬に齧りつき更に深く交わった。
水の中だからやりづらいかと思えば、そんなことは無かった。
人魚は水の中では本当に床上手だ。
信じられない程の強い快感に眩暈がする。
こんな快楽を覚えてしまえば、もう他なんて考えられなくなる。
手離せない。
何度も繰り返し愛撫して抱き合って。
夜が明ける頃漸くその身体を離せば、隣で呆れた声がした。
「……人魚はね、恋の為に死ぬような……まあ、所謂君達の言葉でいう所の淫蕩な生き物らしいけど?君は人間の癖に規格外の性欲の権化らしいね?この絶倫め……!流石の俺でもこれ以上は無理……しんどい……」
ぺたりと、水際に敷かれたシーツに身体を伏せた彼の隣でごめんと謝る。
謝らなくていいよと、彼は優しく微笑んで髪を撫でてくれた。
そして、脱ぎ捨てた服の上に置いてあるナイフを取りあげてその柄に引っ掛けてある小さな袋を俺に差し出した。
「なんだ?」
「約束しただろう?ああ……君には俺の声が聞こえてなかったんだったっけ。あの時……君が探していたものだよ。俺はこれを君に返してあげたくて……ここに来たんだ」
袋から転がり落ちたのは、あの日失った思い出だった。
ああ。
そうだったのか!
これを無くして泣いていた俺を、慰めてくれたお前は……優しい声で、約束をくれたんだな。
俺に宝物を返してくれると、そう言っていたのか!
ありがとう。
そう告げようとした声は、次の瞬間凍り付いた。
「……でも、君に拒絶されたと思った俺は、これを君に返さずに消えようと思っていたんだ。これを君に返す事も考えたけど……一つぐらいは君のものを持って死にたかったんだよ……」
微笑むその顔を見て、ぐらぐらと頭が煮えた。
色々なモノが煮えくり返った。
「……え?あ……っ!ちょっと……!」
返されたペンダントを服ごと脇へ押しやり彼の身体を引き寄せた。
焦る彼の顔を覗き込んで、口づけ再び身体を深く繋げて悲鳴を上げる彼が意識を手放すまで貪った。
その彼をベッドに寝かせた。
水の中にいれば回復すると思ったから、わざとだ。
信じられないことに、彼は死ぬ気だったのだ。
俺を置いて、何も告げずに遠くへ行くつもりだったと告げられて心底恐怖に慄いた。
逃がすものか。
誰にも渡すものか!
俺無しでは生きて行けないと分からせる為に、物凄く酷いことをしている自覚はあるが……とにかく彼が何に対して俺が怒っているのかが分かるまでは、徹底的に身体に教え込むことにした。
「……なんでまた水の中に戻っているんだよ……?」
「……あんだけやっといて、おまけに水から上げて放置!俺を殺す気か?」
殺すつもりなんてない。
死なせるつもりも微塵もない。
言い切れば、今度こそ呆れた声がした。
「あのねえ……」
溜息とともに続けられる言葉は途切れた。いや。俺が途切れさせた。
「……一生お前の傍に居ると誓う。どうか……俺と結婚してください」
「……ほんきなの……?だって……」
弱々しい彼の声に、微笑み頷いた俺の顔には翳りなど見当たらなかったのだろう。
彼は瞬きもせずに言葉の続きを静かに待った。
「死んで俺から逃げ出すなんて絶対に許さない。俺はもうお前無しでは生きて行けないんだ。だから……お前も俺を選べ。一生……二人は一緒だ!」
告げた言葉と共に人魚姫の瞳から涙が零れた。
それは、水の中で淡いピンク色の真珠になった。
幸福を感じた人魚姫が流す涙は美しい宝石に生まれ変わった。
それは人魚姫の恋心。
嬉しい時には嬉しい色。
楽しい時には楽しい色。
そして悲しい時には悲しい色。
絶望したら……それは色を消す。
今、人魚姫は世界で一番幸せだと。この世で一番あなたが好きだと……!心からの声を真珠に変えて愛しい者に見せたのだった。
静かな海の上を一艘の船が行く。
行先は人魚達が住む海中の城。
小舟は殆ど揺れていない。魚達が、人魚姫とともにそれを押しているからだ。
「……まさか……海の王に会いに行くと言い出すとはね」
呆れた声だが、嬉しさを隠しきれていない。
第一王子は、自分を補佐してくれたハトコにあたる第二王子に王位継承権を譲り人魚姫と結婚した。
王位を失ったが、元第一王子と人魚姫の結婚式は国を挙げて盛大に執り行われた。
三日に及ぶ式典の後、蜜月旅行に行って来ると言って二人は小舟に乗って海の見える王国を出たのだった。
自分の両親はもうこの世にはいない。
だけど人魚姫には父王がいる。
それなら挨拶に行くべきだと言い出した男に、人魚姫は呆れた顔をした。
無謀な事だと諫めたが、男は譲らなかった。
「……俺の寿命が尽きた時、お前は死んでしまう。大切な子供をほんの僅かな時間で失う海の王に謝りたい。そして感謝を。たった一人の大切な人を育ててくれたことを……そして誓いたい。死んでもこの手を離さないと」
男の言葉に人魚姫は微笑んだ。
きっと海の王は怒るだろう。
カンカンに怒って近所の海底火山が次々と噴火するかもしれない。
でも……姉たちはみんなで自分達を応援してくれるに違いない。
子煩悩な海の王は、子供達の言葉に渋々頷くだろうと分かっていたからだ。
「さあ……着いた。ここからは……俺の身体を離さないでね?海の中での呼吸の方法……もうバッチリだろ?」
「ああ!みっちり練習したからな!任せておけ!」
愛しい人が自分の腰を抱き寄せ首筋に顔を埋めたのを確認して、人魚姫は真っすぐに海底を目指す。
首元には真珠で作られた首飾りが揺れている。
どれもこれも……嬉しい時に流された涙の色だった。
ひと際鮮やかなバラ色は、初めて彼に抱かれた時のもの。桜の花びらのような淡い色は、彼に囁かれた愛の言葉の数だけ。そして……それらは太陽の光を受けて虹色に輝いていた。
永遠の愛が成就した時、流される虹色の真珠の涙。
同じ色の輝きは、今人魚姫の胸で確かに輝いていた。
「ほんとうの愛を手に入れたら、人魚は人間になれるの。その恋を成就させて愛に変えられたら……世界で一番幸せになれるのよ」
あの伝説は本当だったよ。
姉たちにそう伝えよう。
人間と同じ時間だけしか生きられない事を嘆く者は誰も居ないだろう。
愛するものと同じ時を生きられることを羨ましいと誰もが言うだろう。
さあ……!後は海の王だけだ。
どうやってあの自分を溺愛する父親をめようか?
人魚姫は自分を抱く、愛しい男の強い視線に気付いて目を閉じた。
ゆっくりと肌を這い上がる彼の唇の熱。
辿り着いた唇は深く合わさって離れることはない。
深い口づけをしたまま、二人は水底に沈んでいく。
「永遠にあなたを愛している」
「永遠におまえを離さない」
こうして……長い年月を越えて再び始まった人魚姫の物語は、幸福な終わりを迎えることになったのだった。
Fin
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