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特別な人 第140話

「葵、俺は―――」 「も、もう! 虎君は僕を甘やかすのが上手いんだから!」  甘い雰囲気に呑まれそうになっていた僕の意識を戻すのは虎君の声。  想いを深めてしまっていた事に気づかれた気がして、僕は思わず虎君の声を遮るようにわざと声を被せた。  結局背中に回すことのできなかった手で虎君を押し離して、でも顔は笑顔で「しかたないから、自立はもう少し我慢してあげる!」なんて可愛げないことを言ってしまう。  それは全力の空元気。当然、虎君の顔は怖くて見れなかった。 「葵……」 (言いたい。虎君の『一番』になりたいって、言いたいよ……) 「ああもう! せっかく早起きしたのに、無駄になっちゃう! 僕、急いで準備するね!」  このままだと、口から『想い』が零れそう。  だから僕は踵を返して虎君から逃げるように一階へと足早に向かった。  背後から聞こえる「そんなに慌ててると転ぶぞ」って虎君の声は、心配が含まれた笑い交じりの音で、胸がぎゅっと締め付けられた。  リビングに顔を出すと、父さん達からもらう朝の挨拶。僕はそれに声だけを返して洗面所へと直行した。  絶対変に思われてるだろうけど、今は取り繕う余裕なんてない。  早く一人になりたくて、一目散にバスルームに駆け込む僕。  でも、なかなか一人にはなれない。だって今僕の目の前には髪をセットする茂斗がいたから。 「おはよう。ちゃんと寝れたか?」 「お、おは、よう」  鏡越しに目が合って、固まってる僕にいつもと変わらず声を掛けてくる茂斗。  その気の抜けた声に毒気を抜かれ、茂斗は僕の気持ちを知ってるからいいや! って開き直るよう考えを変えることができた。  結局寝れなかったって空笑いを浮かべて挨拶を返す僕。  すると茂斗は髪を弄る手を止めて、心配そうに顔を歪めた。 「まさかあれからずっと起きてたのか?」 「寝ようとは思ったんだよ? でも、なんか、寝れなくて……」  色々考えたら寝るタイミングを逃した。なんて、僕を知ってる人からすれば考えられない事だよね。自分で言うのもなんだけど、僕ってすっごく眠ることが大好きだし。  不安とか心配事が無い限り、夜に寝ないとかありえない。  茂斗もそれを知ってるから、心配してくれてるんだと思う。 「それ、大丈夫か?」 「うん。平気。……むしろ、さっきまで凄く幸せだったし……」 「? 『さっきまで』? 今は違うのか?」  眠るよりもずっと幸せな時間だったよって伝えたかっただけなのに、失言。  僕を良く知る茂斗はその言い回しにすぐに気が付いて、今度は鏡越しじゃなくて、振り返って僕に尋ねてくる。何かあったのか? って。 「な、何もないよ?」 「……本当に?」  あ、この顔、凄く疑われてる気がする。ううん、違う。疑われてる、だ。  これ以上喋ったら僕の『嘘』がバレてしまう。  咄嗟にそう判断した僕は、この会話を終わらせるためにヘアターバンに手を伸ばして顔を洗う準備に取り掛かった。  けど、この程度で見逃してくれるほど茂斗は優しくない。 「あっそ。なら、虎に聞くからいいや」 「! ちょ、何でそうなるの!?」  僕の為に少し横にずれてくれるところは優しいと思うけど、僕が今『幸せ』だと思っていない『理由』を見抜いて脅してくるところは全然優しくない。 「弟が落ち込んでるなら理由知りてぇーって思うのは普通のことだろ? 兄貴としてはちゃんと理由を把握しときたいんだよ」 「嘘だ! 茂斗がそうやって兄弟風吹かせる時って、大体ただの好奇心だって僕知ってるよ!?」 「好奇心で何が悪い」  心配じゃないよね? って突っかかったら、開き直られた。分かってたけど、地味にショックだ。  ムッとして膨れっ面を見せる僕。茂斗はそんな僕に苦笑を漏らして、「空回りしたのか?」なんて図星を指してくる。 「どうせ虎の事意識しすぎてグルグルして、勢いで告ったものの流されて諦めようとか思ってんだろ」 「! 覗き見してたの!?」 「え? マジで?」  楽し気に笑って僕の失態を当ててくれた茂斗だけど、僕の反応に驚きの顔を見せる。どうやら今のは全部冗談のつもりだったみたいだ。

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