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特別な人 第170話

 人は幸せすぎるとそれが現実だと思えないものなのかもしれない。ふわふわと身体心も浮わついて、全てが夢見心地になってしまうから。  僕はまさに今そんな状態で、壁にもたれながら右手に感じるぬくもりに、現実の自分は今気を失っているのかもしれないと考えてしまう。  浅く俯く僕の目に入るのは、隣に立つ虎君のつま先。  肩が触れ合いそうなほど近い距離は、さっきまでならドキドキしすぎて苦しくなっていただろう。  でも今は、確かドキドキはしているけれど、今までよりのもっとずっと切なくて、それでいて飛びきり甘い痛みに心が痺れているような感じだった。 (虎君、全然喋らないな……)  あれから――僕が想いを抑えきれず泣きながら告白してから、虎君はほとんど口を開いてはいなかった。  きっとこれまでの僕なら、沈黙に耐えきれなくてなにかしら話題を探していただろう。もしかしたら虎君が怒っていると気落ちしていたかもしれない。  でも、今は居心地の悪さも不安も感じない。ずっとこのままでいたいと願うほど幸せで、隣に大好きな人がいるその事実だけでも心が満たされ穏やかでいられるから。  そしてそれは虎君もきっと同じだと思う。交わした言葉はほとんどないけど、言葉なんて要らないと思うほど心を傍に感じることができるから……。 (大好き……)  止め処なく溢れる想いに身を任せる事ができるなんて、幸せすぎる。  僕は胸を満たす想いを籠めて繋いだ手に力を籠める。すると、虎君からは同じように手が握り返されて、堪らなかった。 (これからもずっと虎君の一番近くにいていいんだよね……?)  許してもらえるなら、ずっとこんな風に傍にいたい。1日だって離れたくない。  強欲なまでに虎君を求める僕は、虎君にも同じように望んで欲しいと願いを込めて寄り掛かるように頭を預けてみた。  すると僕に寄り添うように頭を預け返してくれる虎君。本当に、今日ほど、今ほど幸せを感じたことなんて15年間なかったと思うぐらい幸せだった。 (ずっとこうしてたいよぉ……)  いっそ時間が止まって欲しい。そうすれば僕は虎君とこの先もずっと二人きりでいられるから。  そんな非現実的なことを考えるも、すぐに本当に時間が止まったら困ると考え直してしまう。  でもそれは理性的な思考によるものではなくて、もっとずっと感情的で情熱的なもの。 (もっと、もっと虎君の傍にいたい……。虎君ともっと幸せになりたい……)  思い出すのは僕の両親の姿。父さんの隣いる母さんはいつも幸せそうに笑っているし、そんな母さんを見つめる父さんの眼差しはどこまでも愛しげで、二人にとってこれ以上の幸せなんてないんだろうなって子供ながらに思ってた。  そんな仲睦まじい二人の姿をずっと見てきたから、いつか僕も虎君とああなりたいと思い焦がれてしまうんだ。お互いが唯一の人だと、何年経っても、何十年経っても、心の底から想い合える二人に。  そんな風に想い焦がれていたら、頭上からチュッと音がした。  それは虎君が僕の髪にキスを落としたからのもので、自分が思っている以上の『想い』を受け取った気分になってしまう。 「と、らくん……?」  虎君が好きすぎて苦しい。でも、この苦しさも愛しいって思う。  だってこんなにも誰かを好きになれるなんて、本当に凄いことだと思うから。そして、その相手が他でもなく『虎君』だったから。 「ごめん。名残惜しくて、つい……」  溢れる想いが顔に出てる気がしたけど、もう隠す必要もないんだし、恥ずかしいと思いながらも僕は虎君を見上げる。  すると虎君は複雑な想いが隠せていない笑い顔を僕に向けてくる。何故か辛そうな、困ったような顔。でも、それでいて愛しそうな顔……。  一瞬だけ、不安を覚える。でも虎君の手は僕の手を握り締めたままだから、胸を掠めた不安を無理矢理振り払った。  きっと虎君は変わってしまった関係にまだ戸惑っているだけだ。  そう自分に言い聞かせた。 「そっか……。うん、僕も『名残惜しい』や……」  虎君の笑い顔に僕も笑い返す。『離れたくない』って気持ちは一緒だよ。って。  でも、気がつけば多少の騒動はあったものの盛り上がっていたクリスマスパーティーもそろそろお開きの時間。周りを見渡せば賑わっていた会場には話が尽きないであろう十数組のグループが残るだけになっていた。 「藤原達、捜さないとな」 「だね」  虎君の声はとても静かで、穏やかな音だった。  胸がいっぱいな僕もきっと同じ音を返してるんだろうな。なんて考えながら、きっと僕に気を遣って広間の外で待っているだろ慶史達を探しに行くため、歩き出す。  繋がれたままに手が、やっぱり愛しい……。 (困ったな……。虎君が好きってことしか今考えられないや……)  きっと僕と虎君の関係が変わったことなど既にお見通しだろう慶史は、合流するなり茶化してくるだろう。悠栖も朋喜も、もしかしたらそれに便乗してからかってくるかもしれない。  僕は三人が悪ノリする前に止められるか考えるも、不安とかそういうのは全くなかった。だって、どう茶化されたとしても、僕が今とても幸せだってことは変わらないから。 (虎君がいてくれたら、何も怖くない気がする……)  どんな困難にだって恐れず立ち向かっていける気さえするから、『幸せ』ってすごいと思う。  僕は未だに信じられないと思うものの、僕の手を引いてくれる虎君を想うだけで表情は笑顔になった。  でも、夢見心地だった現実が本当に『夢』だと知ったのは、幸せを噛み締める僕がパーティー会場である広間から出たすぐ後のことだった……。

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