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特別な人 第175話

 苦しい想いに必死に耐えていれば、また車が止まった。  目を閉じていたから現在地が分からなくて、また信号に引っかかったのかと思っていたら僕の耳からエンジン音が消えた。どうやら家に着いたみたい。  僕は早々に部屋に閉じこもりたいと逸る気持ちを押し殺し、不自然じゃないように目を覚ましたフリをしないととタイミングを見計らった。きっと虎君はこの後僕に声を掛けてくれるはず。そう思っていたから。  でも、待てど暮らせど虎君から家に着いたと声がかからない。  なんでだろう? って凄く気になったけど、今目を開いたら虎君に狸寝入りだったとバレてしまうと思って身動きが取れない。  虎君の様子を伺うように耳に全神経を集中させて僅かな音も全部拾おうと聞き耳を立てていれば、聞こえるのはドアの開閉音。冷たい外の空気が虎君の側から吹き込んできて、やがて止む。虎君が車から降りたのだとすぐに分かった。 (もしかしてまだ家に着いてないのかな……? コンビニ、とか……?)  喉が渇いたとかそういう理由で寄り道をしたのかもしれない。  僕はそれならばと様子を窺うように目を開けようとした。でも、僕が目を開く前に今度は僕の側のドアが開いて、凄くびっくりした。  普通なら驚いて目を開けるところ。でも思わず目を閉ざしたまま寝たふりを続けてしまったのは、いったい何故だろう……? (どうしよう……起きるタイミング見失っちゃった……)  暖かい車内に慣れた身体に突き刺さる冬の冷気。コートを脱いでいたせいかいつもよりもずっと寒く感じた。  僕は次に目を覚ましても違和感のないタイミングを見計らいながら、虎君が起こしてくれることを待った。でも、やっぱり虎君は僕を起こしてはくれなくて……。  近くに感じる人の気配。そして冷たい外気が遮られ、僕は虎君をすぐ傍に感じた。  触れ合っていないのに感じる虎君のぬくもりと鼻に届く匂いに、いつもなら、目を覚ましていたなら、じゃれ合うように抱き着くことだってできただろうにと胸が痛んだ。  どうして起こしてくれないんだろうって思いながらも声を掛けられることを待っていれば、カチッと音がして身体を座席に固定するためのシートベルトから解放されたことを知った。 (今なら不自然じゃないよね?)  僕は意を決して目を開けることにした。自分は今まで眠っていたんだと暗示をかけて、寝起きを装う。 「虎君……?」  ゆっくりと瞼を持ち上げれば、すぐ目の前に虎君がいた。シートベルトから僕を解放するために腕に触れてくる虎君は、いつも通りの優しい笑顔で僕に笑いかけてくれた。 「ごめん、起こした?」 「ううん……、平気……」  シートベルトを戻すと、ほっぺたに伸ばされる手。  頬を包み込むように添えられたその手はいつもよりも暖かくて、無性に泣きたくなってきた。この手に縋るように頬を摺り寄せ、『僕を好きになって』と懇願しそうだった……。  この手は、この温もりは僕のものじゃない。虎君が本当に大切にしたいのは、僕じゃなくて姉さんなんだから。  ナイフを突き立てられたように痛む心臓。僕は顔を背けるように虎君の手から逃げてしまった。 「葵?」  僕らしくない行動だって言いたげな声と眼差し。でもそれは僕だって分かってる。いつもの僕なら――数時間前の僕なら、甘える子猫のように頬を摺り寄せていたに違いない。大好きな人に触れられて嬉しいと、喜んでいたに違いない。  そう。何も知らなかった頃の僕なら。  でも今は全部分かってる。全部知ってしまっている。  だから、無邪気に虎君に甘えることなんてできない……。 「先に家に入ってていいよ……。僕、もうちょっとだけ寝てから入るから……」  何でもないよ。ただ眠いだけだよ。  そんな嘘をつきながら僕は座席にもう一度身を任せて目を閉じた。僕は、虎君と一緒に居たいと望んでいる心の叫びに蓋をして一人にして欲しいと暗に訴えた。 (きっとダメだって言われるだろうけど、でも、気づいて……)  いくら家の敷地内といえど、夜中に一人で車中に残るなんて危ないって怒られるに決まってる。それを分かっていながら一人になりたいと願ったってこと、虎君は分かってくれるかな……?  ダメだと怒ってほしい。でも、一人にもしてほしい。  僕って本当、我儘で面倒な性格だ。  この数時間で僕は今まで知らなかった自分の嫌な部分を何個も見つけてしまって、それがまた辛い。きっとこれを茂斗に話せば、『人間なんて欲の塊なんだから嫌な面の方が多くて当然だ』なんて言われそうだ。けど、それでも僕はできればこんなドロドロした感情を知りたくなかったし、持ちたくもなかった。  でもそれは『綺麗な心でいたい』とかそんな夢見がちな話じゃなくて、自分の大切な人達を疑ったり妬んだりしたくないって話だ。 (ねぇ虎君、僕、虎君が好きだから今すごく苦しいよ……)  どうすれば楽になれるのか、分からない。  想いを捨てれば楽になれるのかもしれないけど、捨てようと思って捨てられるならこんなに苦しまない。望んでも捨てられないから、僕は今苦しいんだ……。  苦痛を訴える僕。表情に辛さが滲んでしまっているのかもしれないと思ったけど、取り繕うにも限界だった。 「そっか。分かったよ」  僕の願いを聞き届けてくれる虎君の声は、苦笑交じり。  願いが叶ったのだから喜ぶべきなんだろうけど、僕の心は粉々に砕かれた気分だった。 (そ、うだよね……。もう姉さんのことが好きって僕にバレちゃってるんだし、取り繕う必要なんてないよね……)  突き付けられる真実は残酷だ。僕は姉さんの代わりに優しくされていただけで、いわば身代わり。そしてそれがバレてしまったのなら、今までのように優しくするなんてことは虎君ならしないだろう。むしろ『身代わりにしてごめん』と謝って距離を置かれる気がする。  今がまさにそれだ。 (誰かの代わりなんて嫌だ。絶対に、嫌だ……。……嫌、なのに……)  姉さんの代わりでもいいから優しくして欲しい。なんて、どうしてこんな風に思っちゃうんだろう……。

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