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大切な人 第30話

 アドバイス通りゆっくり息をすれば息苦しさは引いていって、僕は落ち着きを取り戻す。  目尻に涙が滲むのは、高ぶった心の名残だろうか。 「葵、ごめん……」  穏やかになった呼吸を繰り返し虎君を見上げれば、虎君は悲しそうな表情で僕を見下ろしていた。 (どうしてそんな顔してるの……? 僕が下手だったから、呆れたの……?)  初めてのキスにされるがままだったからダメだったのかな……?  そんな見当外れなことを考えていたら、虎君の大きな手が僕の頬っぺたを包み込んでくる。  僕はまだ体に残る甘い熱に夢見心地のままその掌に甘えるように擦り寄った。 「今のキスって、恋人同士がするキス、だよね……?」 「そうだよ。……いきなりごめんな? 嫌だったよな……?」  虎君を今までで一番近くに感じて胸がいっぱいになっていた僕だけど、虎君が言った『ごめん』の意味がようやく分かって慌ててしまう。  虎君は僕がさっきのキスを嫌だと思ったと勘違いしていたのだ。 「い、嫌じゃなかったよ?」 「無理しなくていいよ……。大丈夫、ちょっと欲が出ただけだから」  無理に『大丈夫』になって欲しいわけじゃない。  そう笑う虎君の笑顔はいつも通り。  僕の気持ちが育つまでちゃんと待つと言ってくれる優しい虎君。でも、今はその『優しさ』が悲しい。 「ねぇ、決めつけないでよ。僕、無理してないよ?」  僕は虎君の胸に顔を埋めると羞恥を耐えて「どうやって息したらいいか分からなかっただけで、嬉しかったよ」と素直に想いを伝えた。 「! 本当に? ……本当に、無理してない?」 「してないってば! そんなに疑うなら、もう一回してもいいよっ?」  我慢しなくていいって言ってくれる虎君はやっぱり僕の言葉を信じてくれない。  それが悲しくて腹立たしくて、思わず頬を膨らませて不機嫌を露わに僕は挑発のような言葉を投げかけてしまう。  今の言い方は良くなかったと直後に反省するんだけど、言った言葉は取り消せないから僕は虎君を見上げ、キスをねだるように目を閉じた。 (キス、してもらったらちゃんと後で謝ろう)  して欲しいって思ってるからこその言葉だから、勘違いしないでね? 「本当にするぞ? いいのか?」 「ん!」  脅すように言ってくる虎君に、キスして! とつま先立ちする僕。  僕の『本心』をちゃんと理解してくれたのか、虎君は僕の頬を再び包み込むように両手で触れると、チュッと甘いキスを落としてきた。  触れるだけのキスは、甘くて心を蕩けさせてくれる。でも、さっきのキスはそれ以上に甘く、心だけじゃなくて思考までも蕩けさせた。  僕はもう一度あの幸せな気持ちになりたいと今度は自分から薄く唇を開いて虎君を待つ。 「鼻で息、しろよ? 分かったな?」  恋人同士のキスの直前、「今度は息を止めてたら死んでしまうからな」って囁きが聞こえた。  僕が返事をする前に唇に割って入ってくる虎君の舌。  僕はその温かくて弾力のある感触に心臓を破裂するほどドキドキさせた。  虎君の舌は僕の舌をからめとり、舌の裏側を優しく撫で上げ、そうかと思えば食べようとするかのように啜られた。  ねっとりとした虎君の舌の感触を感じる度、頭のてっぺんからつま先まで電流が流れたような感覚を覚える。  虎君が言ったように、今回のキスは息を止めていたらとっくに窒息死していただろう。  なおも僕の口を優しく甘く可愛がってくれる虎君を感じながら、僕は離れたくないと伝えるために虎君の首に腕を巻き付け、傍に来てとばかりに引き寄せた。 (虎君とのキス、気持ちいぃ……)  虎君の舌はとても甘くて、僕の全てを蕩けさせてしまう。  僕はいつの間にかキスに夢中になっていて、もっと甘く幸せな気持ちになりたいと虎君の舌を追いかけてしまう。  唾液を飲み込むことも忘れてキスに溺れていたら唇の端から何かが垂れる感覚を覚え、それが恥ずかしくて一度唇を離そうとする僕。  でも虎君はそれを許してくれず、僕を追いかけるように角度を変えて深く口付けてきた……。 (気持ちいい……。本当、気持ちいいよぉ……)  ちゅくちゅくと口から音がするのは、唾液のせい?  僕はその音がとてもエッチなものに思えて、途端に恥ずかしくなる。けど虎君は全然放してくれなくて……。 (あ……、やだ……、なんだか、変……)  さっきまで気持ちよかったキス。いや、今も気持ちいいんだけど、『気持ちいい』の方向が変わってしまった気がする。

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