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大切な人 第35話
「『我慢』、って言っただろ?」
「? うん、我慢しないで欲しい、よ……?」
優しい声で尋ねてくる虎君に、僕は言ったよと頷いた。
すると虎君は違うと笑う。俺じゃなくて。と。
「俺と一緒なら『我慢』できるって言っただろ?」
「! あ、あれは―――」
「ああ、分かってる。でも俺は葵が本当に大切だから、葵が自分の意志で望んでくれるまで待ちたい」
虎君は僕の手を取るとその指先にチュッと口づけを落とし、微笑む。
大切なことだからゆっくりでいいんだよ。
そう言葉を続けられたら、自分が思っている以上に僕を大切にしてくれる虎君の愛情に胸が痛くなってしまう。
「でも、でも傍にいたいよ……」
「なら、葵が眠るまで傍にいるよ」
離れたくない僕の願いを聞いてくれる虎君だけど、僕が眠った後は一緒にいてくれないみたいだ。
それを不満に思ってしまった僕は眉を下げ、それを表情だけで虎君に伝えた。
一緒にいるために深い関係になることが必要なら、僕はやっぱり我慢したいと思ったから。
でも……。
「俺も一緒にいたいよ。でも、さっきカッコいいこと言ったけど、葵と一晩一緒にいて我慢できる自信がない」
「だ、だから―――!」
「だから、ごめん。葵が眠ったら、俺の部屋に戻らせて……?」
いきり立つ僕の口を指先で制して、虎君は『分かった』と言ってほしいと少し辛そうに笑った。
「一時の感情に任せて後悔したくないんだ……」
「『後悔』……?」
「大切な夜だから思い出に残る夜にしたいって言ったら、笑うか?」
額を小突き合わせて、「ずっと夢見てたことだから」なんて告げられたら、ポッと顔が赤くなるのは仕方ない。
(そうだよね。虎君はもう大人なんだし、そういうことしたいって思って当然だよね)
つい最近大人になった僕とは違って虎君は社会的にも大人の男の人。そういう欲求を持つことの方が自然というものだ。
当たり前のことを思い出して、納得して、ちょっと恥ずかしくもなる僕。
でも、恥ずかしくなった後、ふと頭にある疑問が過った。それは―――。
「虎君って、今まで誰かと一緒に過ごしたこと、ある……?」
虎君は大人の男の人で、カッコいいし優しいし、女の人にもモテるって知ってる。
『彼女』はいなかったはずだけど、もしかしたら経験はあるのかもしれない。
そう考えてしまった瞬間、僕は血の気が引く思いをした。
(やだ……。虎君が他の人とそんな時間を過ごしたとか、凄くヤダ……)
虎君が想ってくれているのは僕なのに、他の人とそういうことをしていたなんて嫉妬に頭がおかしくなりそうだ。
「葵、葵? 俺の声、聞こえてる?」
「え……?」
嫌な現実を知ってしまって心を乱す僕の耳に届く、虎君の声。
その声に我に返って虎君を見上げれば、虎君は「やっぱり引くか……?」と心配そうな顔をしていて、想像した現実が肯定されたと頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けてしまった。
「やだ……」
「『やだ』って……。っ―――、ごめん、こればっかりはどうしようもないんだ」
うわ言のように、そんな過去があるなんて嫌だと呟く僕。本当に嫌で、嫌で、込み上がってくる涙が堪えられない。
虎君はそんな僕に「ごめん」と謝って抱きしめてくる。
この腕で、一体誰を抱きしめたの?
そう僕が問いただそうとした時、虎君が口を開いた。そして、僕が想像してる言葉とは正反対の言葉を口にした。
「俺には葵だけだから、どうしても他の誰かとなんてできなかったんだ。したいとも思えなかったんだ……」
「! え……?」
「俺は、……俺は初めての相手が葵で嬉しいんだけどな……」
虎君はそう言って抱きしめる腕に力を込めてくる。
僕はその言葉に何かおかしいと身じろぎ、必死に虎君を見上げて尋ねた。
「虎君、初めてなの……?」
と。
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