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恋しい人 第47話
熱が引いて冷静になったせいか自己嫌悪に打ちひしがれる僕はどれぐらいベッドでいじけていただろう。
春風が庭の木々を揺らす心地良い音が支配する空間に突如毛色の違う音が混じった。電子音に近いそれは携帯のメッセージ受信音だ。
僕はのろのろとベッドから滑り落ちるように降りると脱いで放置していた制服のズボンのポケットから携帯を取り出した。
(あ……、慶史からだ……)
メッセージを見ていないのに、なんとなく茶化されている気になったのは、さっきまで虎君と過ごしていた時間のせいだろう。
僕はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている慶史を思い出して少しムッとしてしまい、乱暴に画面をタップして届いたメッセージを確認した。
『先輩が暴走しそうになったら股間を思い切り握ってやればいいからね!』
それは一体何のアドバイスなのか。
明らかにからかわれているだろう内容に、僕は顰め面で『そんなことしないから!』と返信。
メッセージの後に怒っている熊さんのスタンプを送信すれば、慶史から返ってくるメッセージは『いや、冗談じゃなくて』というもの。
冗談じゃないなら真剣にからかっているのかと眉を顰めてしまう僕。
でも僕がメッセージに返信する前に慶史から立て続けにメッセージが届いて、その内容に心臓が大きく飛び跳ね、恐怖にも似た感覚を覚えた。
『ヤることしか考えられなくなった大人の男は相手のこと気遣う余裕なんてないからね? 女と違って男はちゃんと慣らしてもらわないと大変なことになるって言ったでしょ?』
それは僕のことを本気で心配してるからこそのメッセージ。そして最後に届いた『葵には俺みたいな思いして欲しくないから、本気で心配してる』って言葉……。
僕の脳裏に過るのは、幼い慶史の笑い顔。その笑顔はしだいに輝きを失くし、慶史の背後に立つ慶史の義理のお父さんの姿に僕は呼吸が浅くなった。
想像しないようにしていた。あの頃の慶史に何が起こったか、ハッキリとしたイメージを持たないようにしていた。
でも、成長するにつれ直視してこなかったイメージは鮮明になってゆく。
今では慶史の身に降りかかった絶望的な暴力がどんなものだったか、嫌でも理解できてしまう。
僕は恐怖に震え、慶史を想い心を痛めた。
「葵、どうした?」
携帯を手に怯えている僕に流れ込む他者の体温。気が付けば僕は虎君に抱きしめられていて、何があったと押し殺したような声が聞こえた。
「とら、くん……?」
「大丈夫。俺は此処にいる。大丈夫だから……」
何も怖くないよと言いながら僕を宥めるように背を擦ってくれる虎君。僕は携帯を片手にぎゅっと抱き着き、何でもないと嘘を吐いた。
「なんでもないわけないだろ? こんなに震えて……」
「だ、大丈夫。本当、大丈夫……」
「葵、嘘を吐かないでくれ。……俺が、怖い……?」
虎君はぎゅっと抱きしめてくれる。
静かな声で尋ねられた言葉に、僕はまだ尾を引く恐怖に身体を強張らせたまま虎君を見上げた。すると虎君は悲しそうな顔で僕を見下ろしていた……。
(なんで虎君、そんな顔するの……?)
「虎君が『怖い』……? こんなに優しいのに、なんでそんな風に思うの……?」
傍にいてくれるだけで安心するし幸せになれる。そんな人を『怖い』と思うわけがない。
僕は虎君の不安気な表情に触れるように手を伸ばすと、怖くないよと伝えた。虎君に抱きしめてもらうと何も怖くなくなるよ。と。
「本当に? ならどうしてこんなに怯えてるんだ……?」
頬に触れていた僕の手を握ると虎君はその指先にキスを落とし、冷たくなってると言った。
さっき感じた恐怖に血の気が引いたせいだと僕はすぐに理解できたけど、どう説明すればいいか分からず一度開いた口を閉ざしてしまう。
追及しないでと訴えるように虎君の胸に顔を埋める僕。虎君は僕の髪にキスを落とすと、「分かった」と溜め息を吐いた。
「言いたくないことは聞かない。……でも、言える範囲でいいから何があったか教えてくれないか?」
いつもならこの言葉もなかったはず。けど『いつも』と違う理由は僕達の関係が少し進んだから。
虎君は僕が虎君のことでこうなっているかもしれないと不安なんだろう。僕の想いが変わってしまったかもしれない。と……。
僕は今一度虎君を見上げ、ありがとう。とその深い愛情に感謝した。
「実は今、メッセージが届いて……」
「誰から?」
「えっと……、慶史から……」
「藤原から?」
虎君は眉を顰め、明らかに不機嫌な表情になる。
誤解を解こうと弁解するつもりが、別の誤解を生んでしまったようだ。
僕は新たに生まれた誤解を解くために「慶史は僕の心配をしてくれただけだよ」と笑った。
恐怖が完全になくなったわけじゃないけど、虎君の傍にいるとこんなにも穏やかに笑うことができるんだと僕の心に幸せが生まれた。
(僕は本当に幸せだ。大好きな人の傍で何不自由なく過ごせてる……)
僕がほんの少しでも傷つかないように守り続けてくれた虎君の腕の中、慶史にも虎君みたいな人が居て欲しかったと胸が痛んだ。
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