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初めての人 第48話
「葵、おいで」
エンジンを切ってシートベルトを外す虎君は僕に向き直り、抱き寄せてくる。
頭を撫でてくれる大きな手に安心して鼻を啜ればぐすっと音が響いた。どうやら僕は恐怖のあまり泣いてしまっていたようだ。いや、涙は零れていないから本当に泣いてるわけじゃないんだけど。
(でも、涙目になってたらそりゃ心配するよね……)
瞬きする度目尻に感じる違和感に涙が零れていないだけで自分が涙目だったと知ることができる。
深く息を吸い込めば虎君の匂いに満たされ、不安のせいで早くなっていた鼓動が落ち着きを取り戻していくのを感じた。
「……落ち着いた?」
「ん……。ごめんね……」
チュッと前髪に落とされるキス。おずおずと顔を上げれば、安心したように笑う虎君と目が合った。
虎君は「よかった」って安堵したあと、ちょっぴり淋しそうに笑って涙の痕を消すように僕の目尻に触れて唇に優しいキスをくれた。
「ヤキモチは嬉しいけど、俺が愛してるのは葵だけだっていい加減信じて?」
「ご、めん……」
「そこは『ごめん』じゃなくて『分かった』って言って欲しいな」
真っ直ぐ僕を見つめて想いを伝えてくれる虎君。それはすごく嬉しいことなのに、さっきまで頭の中で展開されていた『もしも』のせいで頷くどころか俯いてしまう僕。
『愛されてる』と自信を持って欲しいと言ってくれる声は優しい。
けど、きっと虎君は傷ついてるに違いない。だって僕が虎君の立場なら『好き』って気持ちを疑われるなんて絶対悲しいし辛いもん……。
「大丈夫だよ。……これから何度でも俺がどれほど葵を愛してるか疑えないほど伝えるよ」
「虎君……」
「でもそのために1つだけ約束して? 俺のことを嫌いにならないって」
愛の重さに耐え兼ねて恋人として離れたいと思ったとしても、兄としての自分を嫌いにはならないで欲しい。
そんな言葉を続ける虎君は意地悪だ。虎君の愛を喜びこそすれ重いと思うなんて絶対あり得ないんだから。
わざと意地悪な言い方をする虎君に文句を言うために再び顔を上げる僕。
でも、僕の目に飛び込んできたのは、悲しそうに笑う大好きな人の顔で意地悪じゃなくて本気で言われたんだと嫌でも理解できた。
「虎君が僕のこと嫌いにならない限り僕が虎君のことを嫌いになるなんてありえないよっ」
「本当に? 俺は葵が思ってるよりもずっとずっと重いぞ?」
15年間積もり積もった愛を甘く見ないほうがいい。
警告してくる虎君の表情は真剣で、嘘や誇張ではなくその想いをすべて注いだら僕が潰れるか逃げるかのどちらかだと思われてるようだ。
確かに、虎君の愛がどれほどのものか僕はきちんと理解できていないと思う。毎日毎日虎君の想いの深さを感じているのだから。
でも、僕はそれを感じる度幸せだし嬉しいしもっともっと虎君を好きになっているから、これからも虎君の愛が欲しい。
そんな虎君の愛を嫌だと思うことはもちろん、逃げるなんて絶対にありえない。
「そんなこと言わないで。葵を苦しめたくないんだから」
「! それ逆だよっ」
僕の言葉に、虎君は加減ができなくなると苦笑い。言葉が嘘じゃないと信じて欲しい僕は身を捩り虎君に抱き着き声を荒げてしまう。
小さな子供をあやすように背中をポンポンと叩きながら「『逆』って?」と笑う虎君。ああ。子供の癇癪だって思われてる……。
僕は子ども扱いする恋人に不機嫌になりながらもますます強く虎君にしがみつくと、愛が足りないと訴えた。
「虎君の愛が足りないから虎君と慶史が付き合うかもしれないって考えて不安になるんでしょ!」
「俺が藤原を? なんだそのありえない妄想は」
「『ありえない』なんて分からないでしょ?」
「ありえないよ。本当、絶対にありえない」
この世のすべての可能性の中で一番ありえない。1%以下とかじゃなくて完全に0だから。
愛を疑われたから流石に不機嫌になる虎君。でも、僕はそんな虎君の不機嫌にも臆することなく大好きな人を睨みつけた。
「ならもっとちゃんと伝えてよ! 虎君がちゃんと教えてくれないからこんな不安を感じるんだよっ!?」
虎君の愛がもっと欲しい。それは言葉だけじゃなくて、態度だけじゃなくて、もっと、もっと大人的な意味の愛も欲しい。
全然足りない! と我儘を言ってギューッと抱き着けば、虎君は負けじと力強い腕で僕を抱きしめてくれる。
「俺がどれだけ我慢してると思ってるんだっ」
「我慢してして欲しいなんて僕言ってない!」
もっと愛して。もっと僕だけだと伝えて。
高ぶる感情のままそうせっつけば、虎君は頭を抱えながらも「後悔するなよ」って低い声を絞り出す。
「後悔なんてするわけ―――っ」
売り言葉に買い言葉とばかりに言い返すんだけど、言葉は途中でキスで遮られる。さっきまでの触れるだけのキスじゃなくて、虎君の部屋でするようなエッチなキスで。
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