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『こういう謎の家出とか』
「おや、龍次。また家出?」
「ああ。」
ぬぐい切れない不安が、数日前から身体中にこびり付いている。
「いつ帰って来んの?」
「二晩くらいかな?」
二晩は中途半端だな。三晩だと小旅行になる。一晩だと荷物はいらない。
「俺、一緒に行っていい?」
「いいよ。」
明日の午後、俺のピアノ教室の生徒が一人来る。一度帰って来ないとならない。やっぱり荷物はいらないか。
俺は一度出したバッグをしまう。広飛が不思議そうに首を傾げる。
「いつ行くの?」
「そろそろ出るよ。」
広飛も同じように荷物を持たずに出る。明日一度帰って来るんじゃ、あんまり遠くには行けないな。地下鉄を三駅くらい乗って、寂しい街で降りる。いつも小雨が降ってるような、ブロック塀も浸食されて、その上に痩せた盆栽が乗ってるような。
二、三度泊まったことのある地味なビジネスホテル。なぜこんな辺鄙な所に建っているのか、いつも不思議に思う。何度かここで、頭を押さえられるような不安を、独りで噛み締めた。
「へー。こういう所に泊まるんだー。」
広飛が遠足気分ではしゃぐ。荷物もないので、予約だけしてそこを出る。頭の中にモーツァルトの「ハレルヤ」が鳴っている。クリスマスも過ぎたのに。どうしてこんな時に、神を讃える歌が? 広飛が家に転がり込んで来たのもクリスマスだった。もう二年になる。彼は見知らぬ街をキョロキョロとして歩く。もう一度さっきの地下鉄に潜る。
郊外のショッピングモールで降りる。人々の幸せが煌めいているような場所。食べ物屋を見て歩く。時計を見るとまだ朝の10時。昼まで時間を潰して、またここへ来ようと思う。頭の中に、今度はなぜかヘンデルの「ハレルヤ」が鳴っている。モールのシンプルな音楽を押しのける、大コーラス。誰かが俺を救済しようとしている?
「龍次。」
広飛がブティックに入って行く。俺は外からそれを眺める。彼はいつも流行の変な恰好をしている。でもよく似合う。
彼が追い付いて来る。楽器屋に入る。モールにあるにしては大きくて、ピアノも何台か置いてある。
「龍次さん。」
店の者が俺を見て寄って来る。家出中、俺はよくここへ来る。楽譜のコーナーが充実している。俺は彼に微笑んで、ピアノに触る。スタインウェイ。金持ちの住んでる地区だから、商売になるんだろう。
俺は楽譜を見て回る。聞き覚えのあるシューベルト。広飛が弾いている。彼は俺の生徒だった。大真面目に、俺に好きだ、と言った。持ち歩くのに邪魔だから、なにも買わずに店を出る。彼のシューベルトが終わるまで待って。
二人で昼食をとる。隣に賑やかな家族連れ。俺は、家出なのに家の者と一緒なのも変だな、とやっと気付く。彼はズルズルラーメンをすする。
「こんなとこで食べるんだー。」
広飛は家に来てから家事をやってくれて、教室の一番ちっちゃな生徒達を教えてくれている。俺は、彼があんまり作ってくれないドリアを食べる。こんなことをしていても、俺の不安感はまだここにある。
電車に乗ってオフィス街に出る。ランチタイムが終わる頃。まだ人ごみは途絶えていない。公園で若者達が演奏している。バイオリンが二人とビオラとチェロ。立ち止まって聴く。明らかにプロではないけど、今この場で俺達に弾いてくれる、そこに価値が生まれる。演奏が終わる。広飛は彼等と談笑する。俺は作曲家の苦悩について考える。なにか創作しないと救われない程の不安感。
「さっきの子達ね、俺の行ってた音楽高校の後輩だった。」
俺は図らずも、広飛に将来について聞くことになる。
「君もいつまでも俺のとこにいても。」
「今はね、まだね、龍次から学ぶとこがあるから。」
俺は噴水の見えるベンチに座る。微かにしぶきが降りかかる。不安に圧迫されると、こういう所で身動きもせず、数時間過ごすこともある。いつかそれをしたら、警察の職務質問に会った。時々座る位置を変えて、ちゃんと生きて、活動していることを世間に知らす。
こうしていると時間が止まる。広飛が缶コーヒーを買って来る。
「君が俺から学ぶとこってなんだい?」
「こういう謎の家出とか。」
逃れられない大きな焦燥感。頭の中にさっきの高校生のショスタコーヴィチが響く。風が大分寒くなってきた。時計を見たら3時だった。思ったより長い時が消えた。少し歩いてデパートに入る。今度は俺が広飛の後に付いて歩く。物欲の世界。物質の洪水。
俺は登山ナイフの売り場で立ち止まる。しばらくそこを離れない。広飛が俺の腕を引っ張る。それから、料理用ナイフの売り場で立ち止まる。しばらくそこにいる。見ていると安心する。俺の人生に選択があるのを感じる。死の選択。また腕を引っ張られる。
もう一度地下鉄に乗って、朝行ったホテルに戻る。ベッドの上に、広飛がモールやデパートで買った物を広げる。たわいのない、でも彼には必要な物。俺は病院でもらった抗不安剤を飲んで、包み紙の隙間に横になる。
しばらくウトウトしたようだ。広飛がテレビを観ている。時計を見たら八時だった。
「龍次。お腹空いた。」
俺は起き上がって、ホテルの外に出る。広い道路を渡った向こうにコンビニがある。くすんだ街に、煌々とした明かり。
「こういう物を食べるんだー。」
広飛が感心したように、俺の手に取るコンビニ弁当を見ている。彼は俺のマネをして弁当を選んで、ついでにデザートやら飲み物やらをカゴに入れて、それを俺が払う。
ホテルでコンビニ弁当を食べる、という俺の家出にはかかせないイベントが、二人だと違う意味を持ってくる。
「明日、佐竹君が三時に来るから。」
「えっ、そうなの?」
彼はプリンの蓋をはがす。
「龍次、明日の夜はまたここに泊まんの?」
「ああ。」
「二人分払うのもったいないし、俺、明日は家に帰ろう。」
広飛の観ているテレビのノイズが、またあのモーツァルトの「ハレルヤ」に聴こえる。小さな声でそれを歌う。
「龍次まだ寝ないの?」
「だってまだ八時でしょう?」
「八時だったのは随分前だよ。」
広飛がシャワーを浴びると言って服を脱ぐ。まだ濡れている背中を拭いてやる。
ホテルから近いカフェで朝ごはんを食べる。地下鉄で都心に出る。大きなピアノ店。昨日の所とは比べ物にならない。ファツィオリ。イタリア製のピアノ。ちょっと音を出してみる。ピアノの内部全体に音が伝わる。別の楽器ではないかと思うほど音が違う。広飛が有名なモーツァルトの曲を弾き始める。小さい子供達がパタパタ寄って来る。この店には音大の同窓生が働いている。俺はしばしソイツと話し込む。
「いいですね。あのモーツァルト。」
「俺の生徒だから。」
言ってみて、俺はクスっと笑う。
家に帰って、レッスンが終わって、俺は着替えを持ってまた家出をする。広飛が手を振って送ってくれる。新宿の飲み屋街に出る。まだ早い時間。俺は歩きながら、何度も同じ所に出てしまう。仕方がないから、そこにあるバーに入る。英国風パブ。俺はビールをジョッキで頼む。流れている音楽を聴いて、俺がどうしてこの店を選んだのか分かる。バグパイプの音。学生の時、なぜか学校にバグパイプが一つあって、みんなで遊んだのを思い出す。濃い化粧の、背の高い男がカウンターに座る。時々俺の方をチラって見る。無意識に何度か目が合う。身体つきから、男の若さを感じる。
俺は広飛のことを思い出す。二年間の二人だけの生活。それでも俺は、彼のことを自分の人生に含めたことはなかった。孤独になりたくて、俺は酒を買ってホテルに戻った。昨日、彼は俺と一緒にここにいた。男同士の関係では、今まで俺は膨大なエネルギーを無駄にしてきた。耐えられる範囲を超えた失望の数々。精神力が弱いのかも知れない。自信がないのかもしれない。
テレビをつけた。ノイズが俺の脳波と共鳴して、今朝広飛の弾いていたモーツァルトになる。イタリア製のピアノ。あの選曲は間違っていなかった。俺は電話をかけた。
「あれっ、龍次? ご飯食べた?」
俺のお気に入りの生徒。俺達はいつでも共鳴し合える。
「コンビニ弁当?」
「今日はそうじゃない。」
テレビの音がうるさくて、俺は立って消しに行く。
「広飛。君のこと愛してる。」
「酔っ払ってんの?」
そうとは思わないけど。
「酔っ払っててもいいや。俺も龍次のこと愛してる。」
よかった、って思う。涙がスッと出てくる。
「龍次、今度はいつ家出すんの?」
「もうしない。広飛がいてくれれば。」
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