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前編

 キクは最近、叱られることが減った。    岩城(いわき)、という男と寝るようになってからだ。  岩城というのは、数か月前に淫花廓(いんかかく)を訪れた、五十代……半ばから後半だろうか……のキクよりも二回り……いや、もしかしたら三回りぐらい年上の美丈夫のことである。  彼は、その年齢を考えると驚くほど若々しい肉体を保っており、性欲の塊のようなキクが息も絶え絶えになるぐらいに、の方も強いのだった。    キクは……自分で言うのもなんだが、色狂いの阿呆である。  エッチが好きで好きで大好きで、お客様に奉仕しているときも自分の快楽のことしか考えられず、常に自分本位の性交をしてしまい……毎回客や楼主に叱られている。  しかし岩城に抱かれると、底なしのようなキクの性欲は一旦の落ち着きを見せるようになっていた。  自身の性欲が落ち着くと、周りが見えるようになる。  そうすると、奉仕に集中できるようになり、フェラチオも上手くなった(ように思う)。  そして、男に貫かれている最中も、相手の反応にも少しは気を配れるようになって……結果、褒められることはなくとも、クレームをつけられることは減ったのである。  随分な進歩だ。  キクは頭が足りないとよく評されるほどには阿呆なので、叱られないことと仕事が出来ていることはイコールなようにも思えて、それがまた嬉しいのだった。  しかし、キクの性欲は1週間もするとまた、ふつふつと体の奥で滾り出す。  こうなってくると、ちょっとやそっとの交わりでは落ち着かない。  キクを指名する客の中に、岩城ほど保ちが良くて、岩城ほどアレが大きくて、岩城ほど性技に長けた男は居ないので……キクはついついいま自分を抱いている客と岩城を比べてしまい、より物足りない気分を味わう羽目になるのだ。  岩城が欲しい。  岩城に責められたい。  岩城に貫かれて……体の一番深い場所をごりゅごりゅ擦ってほしい……。  他の客にまたがりながらそんなことを思って腰を振り、勝手に達するキクに、客は呆れ返って、「下手くそ」とキクを詰り、次に来たときには他の男娼を指名する。    結局キクは、叱られることが減った、というだけでクレームがなくなったわけではなく、岩城のように継続してキクを指名してくれるお客様は、片手の指でもまだ余るほどなのだった。    キクは岩城に指名されると嬉しい。  それは、自分の売り上げになるからとかそんな理由ではなくて、やっと欲していた快楽が与えられるから、というものすごく本能的な悦びであった。  ベルの音を聞くとよだれを垂らす犬のように、キクは、岩城を見ると勃起する。  後孔はひくひくと期待に蠢くし、岩城が来なかった間に溜まった欲求が、解放を求めてキクの体を熱くするのだ。  だからキクは、半月からひと月のペースで訪れる岩城に抱かれるとき、いつも狂ったように彼を求めて……そしてようやく満たされるのだった。  いまもキクは、ベッドに横たわって男の裸の胸に頬を預けながら、満ち足りた気分で微睡んでいた。  昨夜は散々岩城と交わったので、いつもキクの中にある飢えは鳴りを潜めている。  キクがチラと目線を上げると、岩城の髭の生えた口元が少し緩んでいるのが見えた。胸板も規則正しく上下していて、男が熟睡していることが知れた。    キクはしばらく、岩城の寝顔を見つめていた。  そしてふと、悪戯心が芽生え、布団の中にごそりと手を潜らせる。  キクは手探りで、自分を満たしてくれる男のやわらかな性器に触れ、それを握った。  萎えていてなお質量のあるそれに、キクは指を絡ませて、こすこすと擦ってみる。 「……ん……」  岩城が眉を寄せ、もぞりと動いた。  気持ちいい、というよりは、眠りを妨げられたことを厭うような表情だった。  しかしキクは構わずに手淫を続ける。  昨日散々交わったからか、それともキクの手が気持ちよくないのか、そこは中々反応を見せてくれない。  キクはガバっと身を起こし、半ば躍起になって布団の中に潜り込んだ。  こうなったら、口でしよう。  もぞもぞと男の足の間に陣取り、あーんと唇を開いた、そのとき。  コンコンコン、とノックの音が蜂巣(ハチス)に響いた。   「う~ん……」  岩城が呻き声を上げて寝返りを打つ。  キクはごちそうを取り上げられたような気分で唇を尖らせ、渋々ベッドを這い出た。 「なんどす。まだ朝やのに……」  ぶつぶつと呟きながら、扉を内側から開くと、そこには怪士(あやかし)面の男衆の姿があった。  黒衣の男は片膝を付いて控えた姿勢のままで、 「岩城さまに、緊急の連絡が入っています」  と、早口に告げてくる。   「僕に? 誰だろう」  ノックの音で覚醒したのか、それともキクがベッドを降りる振動で起きたのか、振り向くと岩城が上体を起こして、こちらを見ていた。  男衆が岩城へと誰かの名前を伝えると、少し眠たげだった岩城の表情が引き締まる。  どうやら仕事関係の話のようだ。  岩城は手早く浴衣を羽織り、帯を締めると、男衆と連れ立って蜂巣を出て行ってしまった。  キクはぽつねんと残された。  手持ち無沙汰で、なにをして良いかわからない。  仕方がないので、襦袢姿のままで抜け殻のようになったベッドを整え、お茶を淹れた。  蜂巣には常時、日本茶、紅茶、コーヒーなどがそれぞれ数種類用意されており、そのときの気分で色々試せるようになっている。  キクたち男娼は、礼儀作法として正しいお茶の淹れ方などを習っているので、キクは手順を思い出しながら戻って来る岩城のために彼の好きな茶葉を用意した。  10分後。  岩城は蜂巣へ戻ってきたが、その背後には彼の荷物を持った男衆が付き従っていた。  岩城は少し慌ただしく、スーツに着替えだす。  キクは思わずポカンとしてしまった。  なぜ着替えるのだろうか。  だって岩城は。  岩城は、今日は……。 「キク。すまない」 「へ、へぇ……」 「急用で、少し出なければいけなくなった」 「せ、せやかて……」  キクは忙しない瞬きとともに、男を見上げる。   「せやかて、今日は……」  昨夜淫花廓を訪れた際に、岩城は言っていた。  今日から三日間は、流連(いつづけ)をしてくれる、と。  久しぶりに連休をとれたから、キクのために時間を作ってくれる、と。  そう言って、二泊三日分の花代を支払い、キクを買ってくれたのに……。 「泊まるて、言うたやないですか」  キクの喉から、つい、男を責めるような言葉が漏れてしまった。 「キクさま!」  ぴしゃり、と叱る語調で、男衆がキクを咎めた。それから怪士面は深々と頭を下げ、 「岩城さま。申し訳ございません」  と岩城へと詫びた。  構わないよ、と鷹揚に笑う男は、けれど身づくろいをする手を止めてはくれない。  キクは唇を噛みながらそれを見つめた。  岩城が、流連(いつづけ)をすると言ったから……キクは今日も思う存分抱いてもらえると思っていたのに……。  きれいなノットで、きゅ、とネクタイを締めた岩城が、最後にスーツのジャケットに袖を通し、キクの正面に立った。 「キク。すまないね。夕方には戻るから」  岩城の手が、キクの癖のない髪をさらりと撫でる。  キクはふいと顔を背け、その手を退けた。 「キク!」  また男衆に叱られた。今度は呼び捨てだ。  男娼のことは『さま』と敬称をつけて呼んでいる男衆たちだが、落ちこぼれのキクのことを、彼らは軽んじている。  頭の弱いキクだって、それぐらいはわかる。  だって、花魁クラスの男娼であったアザミがどれだけ気儘な態度をとっても、誰も彼のことを呼び捨てになどしなかったからだ。  キクは不貞腐れた気分の中に投げやりを混ぜて、それをぐつぐつと煮立たせながら岩城に背を向けた。  態度が悪いのは自覚していたが、今日も岩城に抱いてもらえると思っていた期待がぺしゃんこにつぶれてしまい、上手く振舞うことができない。もう折檻を受けてもいいか、という気になっていた。  むくれたキクの腕が、不意に背後から掴まれた。  少し皺の寄った指が、襦袢の(あわせ)に忍び込んできた。 「キク」  耳元で名を呼ばれ、キクの肩がひくんと跳ねる。 「勝手に僕にをした手癖の悪いきみには、いいお仕置きになるだろう。大人しく、良い子にしておいで」  笑いを孕んだ口調で、岩城がそう言って。  キクの乳首を強めに摘まんで引っ張った。    悪戯……キクが先ほど、岩城の股間を弄ったことを言っているのだ。 「ああっ」  喘ぎを漏らしたキクの、ぷくりと膨らんだ赤い実を、今度はやさしく指の腹で撫でて。  岩城がキクの目元に口づける。 「夕方には戻るから、それまで待ってるんだよ?」  ペットにでもするように、くしゃり、とキクの髪を撫でて。  岩城の手が離れた。  キクは思わず顔を巡らせ、縋るような視線を送ってしまう。 「発情したきみの顔は可愛いよ」  笑いながら髭をざり……と弄った男が、ひらりと手を振って。  彼は男衆を伴って、蜂巣を後にした。  キクは……。  じんじんと疼く乳首を持て余して、熱っぽい吐息とともに男を見送ったのだった。   

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