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23.発注

 ずっしりと自己嫌悪を感じつつ213へ戻った健朗は、「おつかれ~」と声をかけてきた藤枝の笑顔を見て、なんだかとてもホッとした。  同時に自分もこんな風に笑えたら、と思ってポロリと本音が出た。 「藤枝の笑顔は良い」 「えっ」  ただでさえ大きな目をさらに見開いた藤枝は、少し赤くなって「ばっか!」と声を荒げた。 「なに言ってんだバカ! つかメシ行くぞ!」  藤枝は良くこんなふうに声を荒げるが、まったく攻撃的ではなく、むしろ親しみしか感じない。橋田はこの時間いつも眠っていて、朝食は別々になる。  廊下に出て階段へ向かう途中には水場があり、大きな冷蔵庫が二台と炊事の設備がある。自炊希望者はここで自由に煮炊きして良いのだが、一年はほぼ全員寮食を取るのであまり使われていない。その代わり朝はここで洗面する奴が多く、今朝もいくつかの背中が並んでいる。  1階の風呂のところにある洗面スペースはそれなりに広いが、同じ場所に洗濯機も並んでいて手狭だし、これくらいの時間は朝練前の先輩たちがいて、頭洗ってたりもする。体育会系のガタイのイイ先輩たちがそんなことしてるので、たいていの一年生はビビって入れない。ゆえにここで済ませるのだ。  健朗は食事をした後、道場に付属のシャワー室で済ませるようにしていた。 「藤枝は洗面したのか」 「うん、さっきやっちゃった」  歩きながら話していると「ううー」ひとつの背中が振り返り、手を振った。同じ理学部の鈴木だったが、歯ブラシを口に突っ込んだままだ。 「おはよ。てか歯磨き中断しろバカ」  藤枝がツッコむ間に歯磨き粉が口から垂れてTシャツに落ち、健朗は咄嗟に手を出してそれが床を汚すのを未然に防いだ。寮の清掃は一年生が持ち回りでやるのだが、水場あたりはどうしても汚れがちで、そこと風呂、便所の当番になるとみな大げさに嘆くのだ。少しでも汚れない方が良い。 「んー」  声を出しながら鈴木が頭を下げると、また白いものが落ちそうになったので無言で背を掴み、水場へ身体を向けさせる。汚れた手を流していると、鈴木が歯ブラシを動かしながら眉を下げて 「んんー」  と声を出した。謝っているらしい。  藤枝が笑いながら「分かったから、ちゃんと磨け」と背を軽く叩くと、鈴木はこくこくと頷いている。 「おはよー」  廊下を歩くひとりがこえをかけてきた。髪が爆発状態になっている。 「おいーっすー、なんだそのアタマ」  言いつつ、藤枝が声を上げて笑う。また別のひとりが「はよ」声をかけてきて「うす」と返す。次々声を掛け合うみなの中、健朗は黙礼を返すのみ。  毎朝の光景だ。  食堂へ入ってからも声をかけられる。健朗は黙って礼をするしかできないが、藤枝は 「なんだそれ、だらっしねーなー」 「シャツのボタン、かけちがえじゃね?」  などと笑顔で言い返している。  この時間、服装や髪型など適当な状態で来る奴も多い。健朗も気になるがくちに出して良いものか迷っているうちにみな行ってしまう。だが藤枝は気負い無くくちにして、自然と顔見知りを増やしている。  自分はなにも言わなくても敵意を向けられるのに、藤枝はなにを言っても皆に好かれる。  メシを大盛りによそいながら、健朗は静かに深々と落ち込んでいく。 (俺は愚鈍だ)  仮眠を取ったので道場へ行くと言うと、今日は藤枝も心配そうな顔をせず「いってらー」と手を振った。  ひとしきり無心になって竹刀を振り、ようやく少し浮上した健朗は、汗を流してからいったん寮へ戻った。既に準備を整えていた藤枝や橋田に急かされつつ、一緒に講義へ向かう。  三人並んで講義を受けるのが日常になりつつある。  同室は二人とも真面目で、いつ部屋に戻っても勉強をしている。このままでは勉強面で差をつけられてしまいそうである。部活やバイトで多忙だなどと言い訳をするつもりは無いが、二人より時間が無いのは事実。それは仕方が無いことである。  自分は愚鈍だが、それを努力を怠る言い訳にするつもりは無い。むしろひとの倍努力をすべきである。なのでせめて真剣に講義を聴いて細かくノートを取っている。時間のあるとき、別のノートに整理してきちんとまとめるのだ。  それにより情報を整理できるし、記憶することもできる。  ゆえに健朗は、几帳面な字でびっしりとノートを埋めていった。  二限を終え、昼は三人で学食へ行った。  健朗が大盛りかけうどんと大盛りカレーを食べている横で、藤枝はラーメンとチャーハンと餃子を食っている。向かい側の橋田はおからハンバーグおろし添えとホウレン草のバタ炒め、レンコンのきんぴらといったヘルシーなメニューだ。寮でもいつもA定だし、肉が嫌いなのかも知れない。  藤枝と橋田が妙にかみ合わない会話をしている横で、黙々と食べていたら携帯が鳴った。牛松屋からだ。 「はい」  深夜勤明けだから、今日バイトに出ろと言われてもさすがに困るが、なにかあったかとすぐに出る。 「丹生田君! どうしてハッチュウしてないの!」 「…………?」  健朗は固まった。ハッチュウとはなんだろう。 「昼過ぎても食材来なくて、調べたらハッチュウかけてないっていうじゃない。どうなってるの」  怒りを隠さない声に戸惑いつつ、健朗は聞いた。 「……すみません。ハッチュウとはなんでしょう」 「なに言ってるの! 深夜勤の仕事でしょう!」 「申し訳ありません」  店長を怒らせたことにはしっかり謝罪の言葉を返す。 「ですが聞いていません」 「聞いてないじゃないよ! とにかく、すぐに店に来てくれる? 急いでね!」  ぶつっと電話は切れ、健朗はまた固まっていた。わけが分からない。 「どうした?」  藤枝が聞いた。橋田も見ている。 「……分からない。だが、行かねば」  それだけ言って、残りのうどんを一気に流し込んだ。   * 「なんでですかっ! あいつが失敗したんでしょうが!」  店に足を踏み入れると畑田の怒鳴り声が聞こえた。  カウンターの中にはパートさんが二人、声を気にせず動いていたが、客の方がチラチラと奥を覗き込むような素振りを見せている。 「お疲れ様です」  健朗が声をかけると、パートさんが「お疲れ様」と言いながら目線で奥を示したので、小さく礼をして入り込む。  奥では店長が腕組みして丸椅子にすわり、怒る畑田を見上げていた。 「本部に話通してハッチュウ受けてもらって、俺、自分でちゃんと詫び入れましたよっ! それ以上なにしろってんですかっ!」  立ったままの畑田は激しい怒りも露わに怒鳴っていた。店長は眉を寄せながらくちを開く。 「この間もハッチュウ多すぎたよ? でもまあそれはいいよ、冷凍物だけだったから。でもなにを教えてるの畑田君」 「俺は一応、もしかしたらって思ってハッチュウ確認しに来たじゃないスか! それで分かったからなんとかなったんでしょうがっ!」 「その前に、深夜勤の間にちゃんとチェックするべきでしょう。……ああ、来たか。君もこっち来て」 「はい」  健朗が近くに立つと、畑田は忌々しげに睨み上げてきた。 「だいたいコイツ偉そうなんスよ。なんか言おうとしてもおっかない顔で睨んでくるし、殴られたら嫌だから、二人っきりのときなんて、なんも言えないじゃないスか」  健朗は驚き、言葉を失った。睨んでいないし殴ってもいない。なにを言い出す。  店長が健朗を睨むように見つつ「君、殴ったりしてるの」と聞いたが、驚きのあまり声が出ない。 「どうして黙ってるの」 「い、いえ。驚いて…」 「畑田君を脅してるの? そういうコトなの?」  疑いの眼差しを向けられて、慌てて首を振る。 「してません」 「じゃあどうしてハッチュウしなかったの」  それだ。さっきから飛び交っているハッチュウという言葉が問題なようだが、そもそもそれが分からない。だから健朗は戸惑いのまま聞いた。 「すみません。ハッチュウとはなんでしょう」 「なにを言ってるの。ハッチュウだよ、ハッチュウ!」  そう言って店長は『発注書』と書かれたレシートを目の前に出してきた。感熱で印字されたもののようだが、初めて見るものだ。反対の手にはハンディの機械が握られている。それには見覚えがあった。  初めての深夜勤のとき、畑田が冷蔵庫を見て打ち込んでいた機械だ。 「すみません。それは教えて貰っていません」 「あ~っ! やってらんねえ!」  畑田が空いている丸いすを蹴り、また大声を上げた。 「知らねえフリまでして、俺が悪いって言いたいんでしょコイツ! なんなんっスか!」  そう言って腰を上げ、畑田は奥から出て行こうとしつつ「俺もうやめますから」と言う。店長が慌てたように腰を上げた。 「なに言い出すの」  畑田を追って腕を掴み、「そういうコトを言ってるんじゃ無いでしょう」とたしなめるように言ったが、畑田は怒りも露わに地団駄を踏む勢いで怒鳴り続ける。 「だってそうじゃないスかっ! コイツが失敗したのに全部俺のせいってなんなんスかっ! 三年頑張ってきてこんな扱いじゃやってらんねえッスよ!」 「分かったから、落ち着きなさい」  店長と畑田のやりとりを、健朗はただぼうっと立ったまま見ていた。

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