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幕間 木原先輩の孤独
食堂前の掲示板に、次年度の部屋割り表が貼り出された。
毎年三月半ばには掲示されるのだが、実は見に来ない奴も少なくない。同室や噂好きなのが勝手に教えに来るから、という理由で敢えて見ない奴が殆どだ。それに重ねて、誰が同室だろうと関係ない、という奴も、それなりにいる。
木原太一は、そのタイプだった。
誰が来ようが自分がやることは変わらない。やりやすいかやりにくいか、という程度の差でしかないし、少々やりにくいからといって、自分のやり方を変える気はゼロなので、結局変わらない。
つまり誰であろうと同じということだ。
木原は自分の肉体を使った研究をしている。そしてひたすら自らの身体を鍛え上げる。研ぎ澄ませた筋肉にこそ価値がある。プロテインなど飲むのは邪道だ。
そのため持ち込む荷物は多く、ひとつひとつがそれなりにかさばる。
むろん自分一人でかなりの場所を占有していることは分かっている。だがどれも必要なものだ。むしろ必要最小限に抑えている。
スペースに限りがあるからなのだが、それゆえに、ただでさえ余裕がないスペースに、つまり床に物を放置する奴はバカだと思っている。
そういう奴は自分のずぼらを棚に上げて木原の大切なトレーニンググッズを足蹴にするし、手頃な物置と勘違いしてシャツなんか引っかけたり、本を置いたりする。
グッズの上にホコリなど発見したらこまめに拭くし、床もキレイにしておきたい。なのでなにげに、お掃除便利グッズも好きだ。
許せないのは布団を何日も干さずシーツも替えないなど、ホコリの元になることを平然とする奴だ。部屋全体にホコリがなければグッズもキレイに保たれる。つまり部屋にホコリの元があれば、グッズも汚れるのだ。許せるわけが無いので、木原は細かく指示をする。布団を干せ、シーツはこまめに替えろ、洗濯物は即刻片付けろ、ホコリを纏って部屋に入るな、毎日髪を洗え。
しかしそういうことを言う奴に限って、
「邪魔だ」
「捨てろ」
などとと言いやがるのだ。
二年の最初、同室になったひとりは、だらしない上に木原が一年かけて集めたトレーニンググッズを
「邪魔くせえ、捨てろよこんなん」
と言い続け、最終的に足蹴にしたので、殴り合いのケンカになった。
後悔など一切無い。むしろ三週間耐えた自分を褒めたい。
そいつは木原より十五センチは背が高く、三十キロは体重が多かったが、木原のこぶし二発でダウンした。だてにボクシングをやっているわけでは無いのだ。そいつを床に転がしたままロードワークに出たのだが、部屋に戻ると執行部の役員がいて、その日のうちに部屋替えするよう申し渡され、誰も手伝ってくれなかったので、荷物の移動が大変だった。
なにげに健康オタクなので、余計なものは体内に入れたくない。その点、寮食や学食は安心出来る。
共同の冷蔵庫に入れて置いた木原のドリンクに余計なものを混入した奴がいたため、ミニ冷蔵庫を部屋に置くことにした。怒り狂って執行部にゴリ押しし、許可を得たのだ。
そして木原は孤立しがちだった。
同室の奴がタバコを吸ったり酒を飲んだりしても怒り狂うし、面倒な流れになると無視してロードワークに出る。バカと会話する気は無いからだが、そんな風に関係改善しようという意志が無いためである。
周りの空気とか読まない。目つき悪いし口悪い。イラッとしたら口より先に手が出る。つきあいづらい奴。そういう為人 は同学年の中で知れ渡っている。
だから三年に上がるとき、木原と同室になっても良いよと言う奴は皆無だったのである。
一年二年は三人部屋、三年は二人部屋、四年と医学部は三年から一人部屋。執行部役員は専用の居室で一人。
賢風寮の部屋割りには、そういう不文律がある。つまり木原と二人で生活したくはない、という奴ばかりだったということだ。
当時副会長になることが決まっていた尾方が「おまえ、同室がいないぞ。どうする」と言ってきたが、
「俺は一人で構わねえ。部屋を汚すような奴なら、いない方がかえって楽だ。掃除が好きでたまらないって奴がいたら同室になってやっても良いが、そんなのいないだろ」
などと大真面目に返したので、かえって呆れられた。
だが木原は嘘やノリで言ったわけではない。そんな面倒なことはしない。
一人の部屋になれば、他の奴が脱ぎ捨てた靴下なんぞにイラッとしないで済む。むしろ望ましいと、心から思っていたのだ。
一年前、ここに部屋割りを見に来たのは、一人部屋になっていた場合、自分で分かっていないと誰も教えてくれないだろうと思ったからだ。
二人部屋を一人で使う。それはかなり心躍るイメージだった。今までと段違いに余裕のスペースが出来る。場所がなくて買うのをためらっていたものも購入を検討出来る。実はひっそりユーチューバーなのだが、収入と言えるほど稼いじゃいない。多めの小遣いが不定期に入る、という程度なので誰にも教えず、入った金は全てグッズにつぎ込んでいる。
とはいえ、一人部屋になるというのは現実的ではないと分かっていた。誰が同室でもいいが、自分のものを置くスペースは確保しなければならない。散らかす奴だったら、日常的に怒鳴りつけることになるだろう、などと思いつつ見に行った部屋割りは、木原を激怒させた。
「なんで俺が三人部屋だ!? 三年は二人部屋のはずだろうが!」
怒鳴り込んだ木原を、尾方は余裕の目で迎えた。
「今年は変則的に行こう、ということになったんだ」
「はあ?」
「例年よりかなり多く一年が残ったし、二年や三年から退寮が多くて、例年通りじゃうまくまとまらない。それに今年の一年は物騒なのが何人もいる。あいつらだけでまとめてたら、また大騒ぎやらかしそうだから、ヤバそうな奴と三年を混ぜた部屋割りにしたんだ」
「ンなの俺には関係ねえ! 一人で良いと言っただろ!」
「それだよ。おまえと同室を希望する奴がいなかったから、一年と一緒にしたんだ。それに希望は容れた。同室になる一年二人は、間違いなく部屋をきれいにすると評判だ」
それは本当だった。
同室になった丹生田は木原をしのぐきれい好きで、部屋は常にホコリひとつ無い。さらに無口で、余計な言葉をくちにしないうえ、必要なことを最小限で伝えてくるのが気に入った。賢い男なのだろう、無駄がなくて非常に良い。
藤枝も木原の大切なグッズを足蹴にしたりせず、毎日清潔なシーツに取り替えるし布団は定期的に干す。バカかと思うくらい従順な奴で、木原は少ない言葉で飲み物を飲めるようになった。
異常に仲が良いのが少し不気味だが、この部屋になってから、木原は怒鳴る必要なく生活していた。
それに丹生田の身体も興味深かった。
幼少から剣道を続けていたという丹生田は、実に鍛えがいのある身体をしていた。恵まれた骨格、筋肉の付きやすい体質、しかも鍛えることに並々ならぬ興味を持っている。
木原のトレーニングをじっと見ているから「やってみるか」とやらせてみたら、実にもったいない身体の使い方をしていた。イラッとして指摘すると、目から鱗が落ちたとばかり、指示に従う。
過去の試合の動画を見せてきて意見を聞かれたから、気がついたことを指摘してやったら、真剣に実践するから木原も張り合いが出てきた。
自分の研究について、深く語る相手ができたのは、単純に気分が良かった。それを邪魔せず、絶妙な間合いで飲み物やタオルを差し出す藤枝は、しょっちゅう余計な一言が出るのだが、ひと睨みで黙るから扱いはそう面倒ではない。使い勝手の良い下僕 だと思っていたが、実に良い聞き手でもあった。
いちいち大げさなくらい感心するから、話してて気分が良い。木原はついつい饒舌になってしまったことが何度もあった。
丹生田が剣道で結果を出したことに端を発して、木原の研究に興味を持つ連中が声をかけてくるようになった。あちこちで映像を撮り、トレーニングの助言をする。それら実例を集めることで研究資料が増え、思いがけない方向に進展したりする。人脈が広がり研究は進んだし、自らの肉体もさらに研ぎ澄まされた。
そんなわけで、この一年間は今までに無く快適だった。
そんな感慨と共に食堂から出た木原は、掲示板の前に立った。
そこにはそれなりの人だかりが出来ていて、面倒だな、と思ったが、来年度は四年だから間違いなく一人部屋になる。自分の部屋が分からないなどと言う愚は避けるべきだった。
念願の一人部屋ではある。
だが、少し惜しい。
下僕の片方だけでも連れ込めないだろうか。あるいは掃除だけでもさせるとか……
そんなことを考えながら、木原は自分の部屋を確認した。そしてついでに二人の下僕も確認してやった。掃除しに来いと声をかけるには、部屋を知っていた方が良い。
そして木原は「ああ?」思わず唸るような声を漏らした。
「なんだってんだ。おかしいだろう」
『339・・・3年 丹生田健朗 3年 藤枝拓海』
不気味だ。
なんでこいつら、またも同室なんだ?
いや確かに異常に仲は良いが、三年続けて同室なんぞあり得ない。異常と言うしかない。
なんとなく背筋に寒いものを感じつつ娯楽室に向かった木原は、そこで尾方を見つけた。
「……おい」
「ああ、見たかい? 今年はさすがに一人部屋だっただろ」
「じゃねえ、あいつらだよ。なんでまた同室なんだ?」
「ああ、丹生田と藤枝か。まあちょっとあってね。それに藤枝は総括の部長やるし、丹生田も保守の副部長だから、副会長の部屋と近い方が良いということになったんだ」
木原は愕然とした。
部長? 副部長?
あいつら、いつのまにんなコトになってんだ?
……つうか
「下僕扱い出来ねえじゃねえか」
「なんだって?」
「いや」
木原は顔をしかめ、手を振ってとっととそこを出ると、まっすぐ玄関に向かい外に出た。
食ってすぐロードワークはやらないのだが、今日は特別だ。やたらモヤモヤする。こういう時は身体を動かすのが一番である。
寮の前で入念にストレッチをする。食後だから軽く一回りするくらいにしておくか、などと考えつつランニングを始めた。
ともあれ、部長クラスを下僕にはできない。
それだけは確かなことだった。
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