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185.健朗の三年経過後
丹生田健朗は、非常に困惑していた。
朝、持参のプラボトルに入れてきた茶を飲みこむ自分の喉が、ゴクンと鳴るのを、妙に冷静に聞きながら。
入社当時に、力を抜け、リラックスする時間を挟め、その方がより集中を継続出来るのだと教わって以来、二~三時間に一度程度、短い休憩を取るよう心がけていた。
外に出て軽く身体を動かす、休憩室でぼうっと窓の外を眺めるなど。ついでに先輩に頼まれれば、飲み物などを買う為にコンビニまで走ることもある。
十分程度のことなのだが、考え込むとすぐ煮詰まってしまう傾向の強い自分には、かなり有効だ。
─────成功すれば。
実はこれがなかなかできない。
集中してしまうと時間の経過など感じなくなってしまい、ハッと気づくと昼になっていたり、終業時間になっていたりする。その度ごとに(明日こそ一回は休憩を入れるぞ)と翌日の目標を立てる健朗である。
しかし今日は、調度切れの良いところで休憩を取ることに成功し、若干の達成感を感じていた。
休憩室に入ったのは、小雨が降っていたからだ。誰もいなかったので、安心して軽くストレッチをした後、パイプ椅子に座って茶を飲んでいると、「隣、いいですか?」と声をかけられた。いつもひとりで過ごす健朗に、いきなり声をかけてきたのは、今年入社の都筑という女性社員だ。
困惑はそれゆえである。
(……なぜ)
社員の息抜き用に用意されたこの部屋は、およそ八畳程度の広さしかない。テーブルとパイプ椅子、ソファが二つほど。楽しげに会話に興じる人もいるし、電気ポットや電子レンジもあるので昼には弁当を食う人もいる場所だ。
が、さほど広いスペースではないとはいえ、二人しかいないのになぜ隣だ、他に空いている席はあるだろう、と困惑しているのが、拒否などしてはいけないということも分かっている。
相手は新入社員だ。もしかしたら相談ごとなどがあるのかも知れない。などと若干の緊張を覚えつつ、「どうぞ」と返した。
「ありがとうございます」
にっこり笑った都筑は、隣のパイプ椅子に座り、ペットボトルのミルクティーを一口飲んだ。それを見ていたら都筑もこっちを見て、またニコッと笑った。
健朗の困惑は続く。
なにを相談されるのだろう。きちんと答えられるだろうか。
自分が新人のとき、先輩はどう答えてくれたか考えてみたが、そもそも自分から相談をしていなかったと思い出した。どうしたらよいか戸惑っていたら、先輩から声をかけてくれていたのだ。とことん鈍重だな、と自分を責めたい気分になる。
「あの、住んでいる所、けっこう遠いですよね」
だが問われたのは、まったく予測していなかったことだった。
「………………」
百均で買ったプラボトルを口から少し離した状態で健朗は固まる。
(いや、落ち着け)
客観的にはとても落ち着いているように見えるのだが、実は若干パニクっていた。それでもこの状況、唐突に問われた言葉を反芻する。
住んでいるところ。なぜ知っている。
いや、そうだ。そういえば新歓の飲み会で、都筑はいつの間にか隣にいた。酔うといくらかしゃべるのは以前と変わらないので、なにやら話をした覚えはある。が、さして重要な話はしていないと記憶している。おそらくその時に、近くの駅など教えたのだろう。
「通勤、大変じゃないです?」
「……いや。そうでもない」
部屋を借りた場所は、ここと道場と藤枝の勤務先、三地点のほぼ中心。この会社と道場は同じ沿線にあり、藤枝は車通勤なので、場所を決めるとき助かった。
「でも、普通は会社の近くに部屋を借りるんじゃないですか? もしかして実家なんですか」
「いや。友人と同居だ」
「ああ、相談して住むところ決めたんですか?」
「……そうだ」
この会話の意味が分からない。が、とりとめない会話が潤滑油になることは分かっている。といっても自分から話題を振れるわけでもなく、健朗は黙々とボトルのお茶を飲んだ。
「あの、もしかしてお友達って……女の人です……か?」
「いや」
「え、じゃあ男のお友達と同居ですか」
当たり前だろうと思いながら茶を飲んでいたが、ふと横目で見ると都筑はこっちをじっと見ていた。なにやら真剣な様子に、若干ビビりつつ目を窓の外へ戻し、健朗は無言で頷く。
「……そうなんだ」
急に声が低くなったのでまた目をやると、都筑はチラッとこちらを見た。一瞬目が合ったので、健朗は黙って目を窓の外に向けた。
(…………きまずい)
都筑は話しかけてくるが質問の意図が不明で、なんと返すべきなのか分からない。話題転換をすべきかと考えたが、ただでさえ僅かしかない健朗の会話スキルでは、話の広げようがない。
「丹生田さんってお弁当持って来てるじゃないですか。お茶もそんなのに入れてるし……」
いったいなにが聞きたいのか。茶を入れたプラボトルを睨みながら考えてみたが分からない。考えが脳内をぐるぐる回る。……いかん、これは煮詰まる前兆だ。
休憩に来ているのに、こんなコトで疲れていては本末転倒である。
「……これは自分でやっているんだ」
健朗はもう、ただ聞かれたことに答えることにした。
「あ~、そ、そうなんだ。マメなんですね」
「そういうわけではない」
「でもあたしなんて、……じゃなくて丹生田さん、男の人二人で生活って、大変じゃないですか?」
「……大変?」
「あの、だからお料理とかお掃除とか、どうしてるんですか」
やはり質問の意図が分からず、しかし不用意に見ると目が合ってしまいそうで、健朗は窓の外を見たまま、呟くように声を漏らす。
「分担している」
「当番とか?」
「違う。俺がメシで、掃除と洗濯はもうひとりがやる」
特にアイロンは藤枝の方が上手なので任せている。……といっても掃除については、健朗が気になったところをついやってしまうので、藤枝の専従というわけではない。
「あっ、そうなんだ。丹生田さんって料理出来るんだ」
「たいしたものは作れない」
「そうなんだ! どんなの作るんですか? やっぱりカレーとか?」
「カレーの時もある。だが、たいていはみそ汁と、肉か魚を焼く、浅漬け、肉じゃがなど簡単な煮物、といったところだ」
「にっ……煮物……?」
健朗は黙って頷いた。
それに卵や納豆や味海苔なども駆使している。むろん毎日弁当も作っている。にぎりめしだが。
なにせ家賃が高いので、健朗は緊縮財政を余儀なくされているのだ。安価な材料を使って少しでも安く、ボリュームのある食事を。その一念で色々やっている。たとえ帰宅が遅くても弁当を買ったりはしない。そんな金はもったいない。
「煮物……煮物……」
耳に入った都筑のため息に間が持たず、茶を飲んだ。
「あ、浅漬けっておいしいですよね。どこのがおいしいとか、オススメありますか?」
「いや、作っている」
「え……」
「簡単なものだ」
恋人ができたらしい姉崎は、最近料理に凝っているようで、かなり手の込んだこともやっている。恋人が出張だかで不在のときなど、勝手に橋田のマンションをパーティー会場にして振る舞ったりする。ときどき健朗たちの住まいにもやって来て、手早く料理をしていくこともある。自分が酒を飲むのにつまみを食いたいからなのだが、その時に健朗も簡単なことを教わっているのだ。
『これくらいなら健朗でもできるんじゃない? あ~あ、こ~んな程度の低いこともできるなんて、僕って本当に才能溢れまくってるよね』
などと言っていたが、姉崎のやることに比べれば程度が低いのは事実だし、教わる立場なので軽く頭を張る程度にしておいた。
「……作るんだ……」
「俺などその程度だ、凝ったものは作れない」
「え! いやかなり……いえ、その……あ、じゃあ! お掃除は同居の人がやってるんですよね?」
「そうだ」
基本的に掃除と洗濯は、藤枝がやると主張しているので任せている。……のだが、健朗はホコリなど気になってしまうと、ついつい手を出してしまう。特に灰皿だ。
藤枝はタバコを吸うようになった。
火事の原因が寝タバコと知って、ベッドで吸わないことを約束させ、常々灰皿の始末はきちんとやれと言っているのだが、藤枝は寝る前にリビングで吸って寝てしまうことが多い。朝起きて灰が溜まったままの灰皿を見るとイラッとしてしまい、藤枝をたたき起こしてしまうことも少なくない。
灰皿でイラッとしてしまうのは、藤枝の喫煙が心配だからである。会社でなにか辛いことでも、と気を揉んでしまうのだ。
「に、丹生田さん?」
ハッとした。つい藤枝の事を考え込んでいた。
「やっぱり同居の人、あんまり掃除しないんですか?」
心配そうな都筑に、健朗はフッと笑んだ。
「いや。きちんと掃除はする」
ただ自分が、細かいところが気になってしまうだけだ、という言葉は飲み込む。
「……そうなんだ」
なぜか声に力がない。少し心配になって「どうした」と聞いた。そして相談事があるのでは無いのか、と考えたことを思い出した。
「悩みでもあるのか」
チラッと見ながら聞いてみると、都筑は俯いて溜息を吐いている。
聞いたところで自分に出来るアドバイスなど無いに等しいだろうが、働き始めて三年が経過し、仕事のことであれば問題無くコミュニケーションをとれるようになったと思っている。ゆえに仕事のことなら何か言えるかも知れない。
とはいえそれ以外は、やはり口が重いままの健朗である。自分から問うのもこれが限界である。
だが都筑は、「あはは……」と乾いた笑いを漏らすのみで、おもむろに腰を上げ、立ち去ってしまった。
「………………」
後ろ姿を見送りつつ、(なんだったのだろう)と考えてしまい、ボトルから茶を飲みながら、休憩なのだからリラックスせねばと考える。
リラックス、という言葉から連想された藤枝の笑顔に、無自覚な笑みをくちもとに浮かべながら、健朗の脳裏には、また藤枝が浮かぶ。
健康に悪いのではないかと気になる部分もある。そして吸い始めたこと自体、気になっている。
藤枝がタバコを吸い始めたのは、就職してから半年ほど経った頃だ。
タバコを吸う藤枝は一気に大人びて見え、密かにときめきつつも、なにかあったのだろうかと気になった。しかしなかなか言えず、ようやく『辛いことがあるのか』と聞いてみたのは、それから一ヶ月ほど経ってからだ。
「そういうコトじゃねえって」
藤枝は笑って、軽い口調で言った。
「こないだ出張したとき、一緒の部屋の奴が吸っててさ、酒飲みながら俺も吸ったんだよ。そっからなんとなくな」
そのときは、それ以上問いを重ねることなどできず、そんなモノかと一応……というか無理矢理自分を納得させた。
最初はそうでもなかったのに、今ではかなりのヘビースモーカーだ。健朗がいると家ではそんなに吸わないのだが、いないときはかなり吸っているようだし、移動の車では、ほぼずっと吸っている。
藤枝は、今や聞かずとも、会社で何があったかをコンプライアンスに触らない範囲で話してくれる。
健朗も同様だが、内容は殆ど話せない。それは仕事の性質上、致し方ないことだった。企業秘密の塊のような仕事なのだ。迂闊なことは言えない。
「オイこら丹生田!」
青原さんの声が聞こえ、健朗はハッとして「はいっ!」と声を上げる。
おそらく喫煙室の帰りなのだろうが、苛立っているようだ。思いの外 長くぼうっとしてしまったようだと気づいて、慌てて腰を上げ休憩室から飛び出したのであった。
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