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222.ふたりの朝

 昨日に劣らぬ晴天。  美しい朝だ。  東向きの窓から、秋晴れの朝日が降り注ぐ寝室。  健朗は幸福感に包まれて少し目を細め、布団の中で半身だけ起こしている。  想像していた通り、こちらは寒い。越してきた日の最高気温は八度だったのだ。  それまで着ていた衣類は段ボールのまま二階へしまい込み、冬物の衣類だけを出した。しかしこれでは足りないのではないか、セーターなど買い足すべきかと悩んでいるところである。  この家も窓が二重、所により三重であったりしたし、玄関ドアの外にもうひとつドアがある。暖房設備もしっかり設置してあり、道場で知り合った地元の人は十一月も半ばを過ぎ『そろそろ雪が来る』などと言っていた。  家のリフォームを相談した設計士の人に、とりあえず冬の準備をするべきと言われ、連れて行って貰ったホームセンターには除雪の道具や煖房の設備など売っていて、なるほどさすが北海道だと感心しつつ、必要と助言された物を買い整えたりした。  だがやはり、地元の人は寒さに強いのだろう。  好天であった昨日の開設式も、地元の皆様は平気なようだったが、スーツを着ているだけだと少し肌寒かったのだ。夜になるとさらに気温が下がり、コードが必要と思われた。  だがしかし。  今はまったく寒さを感じていない。  体側(たいそく)にぴったりとくっついている肌、そして抱きついている腕や足が、穏やかな熱を伝え、心胆まで温めてくれるからだ。  目覚めても布団から出ずにいるのは、この温もりを手放すのが惜しいという女々しい気持ちゆえである。しかしそれだけではない。  まだカーテンを掛けていない窓から差し込む朝日が、顔に当たらぬよう影を作らねば、という理由もあるのだ。そのため半身だけ起こし、少し腕を上げて日差しを遮っている。  藤枝……いや、拓海は、眩しいとすぐに目覚めてしまう。ずっと忙しくしていたのだ。しっかり休ませてやらねばならない。  見下ろす伴侶の寝顔は穏やかで、寝息も健やかである。その顔を眺めながら、健朗は至福を感じていた。  こちらへ越してくるまでは、眉間に薄い皺が寄っていることも多く、心配だった。しかしあの時は自分自身、あまり余裕が無く、あの辛そうな寝顔に心を痛めつつも、ゆっくり話し合うような時間を取ることも出来ずに、結果として放置してしまっていた。  知らず溜息が漏れる。  あの頃、ふじえ、拓海が全くの杞憂、驚嘆すべき思い込みと決めつけで思い悩んでいたのだと知ったときは驚いた。だがそれゆえに安らかに眠ることすら出来ていなかったのだと知り、密かに心に決めたことがある。  今後はもう二度と、そのような杞憂を持たせまい、そのために全力を尽くそう、恥ずかしくて言えないなど単なる逃避だ。今後はそんな甘えを自分に許すまい。美しい笑顔で気持ち良く過ごしてくれるよう、心を砕くのだ。  健朗は、そんな思いを込め、そっと髪を撫でる。  起きる気配が無いので、頬に触れてみる。すると眉が僅かに動き、ふっと息を漏らした。が、構わず頬を手で覆う。  するとくちもとが少し緩んで、笑んでいるような表情になった。無自覚に口元がほころび、胸の内が暖かいもので満たされていく。  そうだ、臆する気持ちは良い結果をもたらさない。少なくともふじ、拓海に関しては、一切臆するべきでは無い。  このような穏やかな寝顔でいてくれるよう守ることこそが、これからの自分の使命である。  健朗は未だ求職活動を全くせず、家を整えること、つまりリフォームの手配などを主に行っている。あとは食事の用意など、藤枝が少しでも安らげるよう、心を配る日々だ。  転居前は多忙で、ずいぶん足を向けていなかった道場へも毎日顔を出している。無心に竹刀を振り、師範に相手して貰うことで精神は落ち着き、やはり剣道は自分に必要なものだと、心底感じた。  師範や道場で出会う人たちは、仕事をどうするのか、紹介しようか、など心配して声をかけてくれるのだが、丁重に断っている。安易に職を求めても、自分のことだ。新たな仕事を覚えつつ家を整えるなど、大切なこと二つを同時に遺漏無くこなすなど、出来るわけが無いと知っている。  幸い蓄えもある。いますぐ困窮するわけでは無いし、この生活をきちんと成立させることの方が先決である。多忙なふじえ……拓海を、家のことで煩わせるなど、けしてやってはいけないことだ。  とはいえこっちに来てから、ふじえ、拓海は非常に忙しくしていた。  新たに開設した組織の長として、やるべきこと、気になることが山積していたようで、まったく休み無く働いていた。以前は自分自身も忙しかったため、気にする余裕もさほど無かったのだが、こちらへ来てからは自分に余裕が出来た分、非常に心配に思っていた。  せめて少し休んで欲しいと思ってはいたのだが、仕事の邪魔をすることもできず、気を揉んでいるのみだった。  すると昨日、無事開設式を終えた後、部長、いや専務が言った。 「今日までずいぶん頑張ってくれたから、明日は休みだよ。いい? 仕事が気になっても絶対に来ないように」 「いや、でも開設初日になるんだし、みんなに挨拶とか」 「挨拶もなにも、きみ既に仕事動かしちゃってるでしょう。取引先にも顔出して話通しちゃってるって聞いたよ? 第二販売部のみんなには今声かければいいんだし、明日どうしてもやらなきゃいけないことは無いようだけど?」  なるほど、そうした細々したことを先手打って済ませていたと言うことか。さすがは藤枝だ。 「きみも絶対に出社させないように見張っててね」  こちらを向いてキッパリ言った専務に、しっかり頷いて返し、じっと藤……拓海を見た。 「あ~もう、分かったって! 休む、休むよ! めっちゃ寝まくって休みまくってやるっての!」  などと言いつつ、照れたように笑うふじえ……拓海は、やはりこの世で最も美しいと思った。  結婚披露を兼ねた開設式が終盤になって、ようやく近づいてきた峰や伊勢から少々乱暴な祝福を受け、仙波や小松、田口などにからかわれていると、橋田が取材などと言い出したので、旭川の飲み屋街に繰り出し、二次会となった。  このぐっすりとした眠りは、そこでかなり飲んだせいか、疲れが溜まっていたのか、あるいは作夜のいとなみが長引いたせいか。  作夜はこの布団で、じっくりと時間をかけてセックスできた。心ゆくまで、翌日を気にせずというのは、実に三ヶ月ぶりのことだったので、あまり抑えが効かず、ついつい、しつこくなってしまった。  が、それも致し方ない。ふじえ、拓海が今まで以上に積極的で非常に……非常に……まずい、思い出すと今すぐ滾ってしまいそうだ。  すこし股間が元気になってしまったが、これは朝立ちだ。気にするな。  そこから意識を無理矢理逸らし、ふじえ、ではなく拓海の寝顔を注視する。  ……まずい。寝顔を見てるだけで滾りそうだ。しかし見ていたい。どうするべきか。  そんな逡巡を笑うかのように、くちもとに笑みを湛えた表情のまま、藤枝が薄く目を開いた。 「……~~~」  薄く開いた唇から、声にならない息が吐き出され、ぼうっとした表情になって視線がこちらに固定される。 「にゅうだ」  茶の縁に、僅かに緑が散っている、美しい瞳。 「……おはよう」 「ん。……はよ」  言葉が唇から漏れると同時、首後ろに手が回り、グイッと引き寄せられ……くちびるが合わさる。舌がくちの中に入り込み、絡んでくる。朝っぱらから濃厚な。……しかし、抗うつもりなど、もちろん無い。  柔らかく背に回る腕を感じ、自分も腕を背に、手は背筋を降りて尻を掴み、くちづけに濃厚に応える。すると背中をタップされ、唇が浮いて、濡れたそこに、フフッと笑う息がかかった。 「おま、なに勃ってんだよ」  囁くような声で笑われ、眉を寄せつつ「仕方が無い」と言った。 「すまん、じゃねーんだ?」 「ふじ、拓海が腕の中にいる。仕方ない」 「ばっか」  両手が頬を包むようにして、間近な美しい瞳が細まる。 「フジタクミってなんだよ」  そこをツッコまれるとマズイ。  しかし十二年間『藤枝』と呼んでいたのだ。自分で言い出したこととは言え、いきなり呼び方を変えようとしても、一朝一夕には行かなくとも仕方あるまい。  などとアタマの中で言い訳しつつ、どう言えば分からずにくちびるを塞いだ。  互いにじゃれ合うように、唇を合わせ、軽く吸い、浮かせ……そんな事をしばらく続け、健朗は、これぞ至福と言うべき時間だ、と胸に迫るものを感じていた。  これは間違いなく自分のもの。  そう思うと同時、いや、ものなどと不遜なことを考えてはいけない、とも思う。ふ、拓海はものではない。立派な仕事をする男だ。  それはともかく、名実ともに認められた伴侶なのだという実感が、やはり胸に迫り、じわりと目が潤む。そんなもの悟られては恥ずかしくて死ねそうだ、と目をギュッと閉じていると、ふじ、拓海の腕が柔らかく抱きついてきた。  ふう、と吐息のようなものが肩口にかかり、ククッと笑う微かな声。そしてまた、はぁ~~、と深く吐かれる息。 「くっそ……どうしよ」  囁くような声。それにつれ、また息がかかる肌。その感触もまた至福。 「……なんだ」  おのずと自分の声も囁くような音量になる。 「どうしよ。幸せすぎて……死ねそう」 「馬鹿者。死ぬな」 「ばっか、死なねえよ。めっちゃ幸せなんだかんな」  ククッと笑いながら背中を叩かれる。 「大好きだかんな、にゅう……健朗」  肩口に告げられた声に、知らずニヤリと笑んでしまいつつ、軽く背を叩いた。 「おまえ、人のことを言えるのか」 「だってしょうがねーじゃん」 「……ああ」  張り付いていた身体を少し離すと、耳まで赤くなった拓海が、目を逸らし、片腕で顔を隠そうとする。 「しょうがない。だが、顔を隠すな」 「ばっか、なに言ってンだよ」 「……拓海。頼む」  こぶしをギュッと握って「くぅ~」などと声を漏らしつつ腕を下げ、眩しそうにこちらを見てくる美しい瞳。  甘痒い痛みに似たなにかが、胸を締め付ける。本当に、美しい。 「……きれいだな」  思わず漏れた声に、拓海は瞬時に赤くなる。 「……っ、ばっか、このっ」  胸元をかなり本気で叩かれ、感じた痛みで胸の甘痒さが誤魔化され、純粋な幸福感が胸を満たす。  もうこれに酔いしれてしまえば良いのだ、と開き直るような気持ちで  健朗は愛する伴侶の額にキスを落としたのだった。  完

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