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第1話

 タイムマシンがほしい。  目覚めてぐるりと視界と思考を回し、現実を認識した三浦桜介は、まずそんな事を思った。  何も青春をやり直したいとか、そんな大それた望みは無い。  できることならば小学生に戻って人生修復をしてみたいという興味はあったが、とりあえずそれは置いておこう。問題は桜介の三十一年間の人生ではなく、昨日の夜から今朝にかけての数時間だ。  タイムマシンがあれば、迷うことなく昨日の夕方に戻る。  そして金曜の夜だからと誘われるままに雇い主と飲みに出ることもなく、定時退社して一目散に家に帰り、一人暮らしの小さな部屋の敷きっぱなしの蒲団の上で正座待機をして、八時ジャストにかかってくる電話に備えて深呼吸をくり返す。  そうすればきっと飲んでいる最中に、新婚友人の妻からの『貴方がゲイというのは本当ですか?』などという事実とはいえとんでもない電話に出ることもなかったし、動揺してトイレで泣く事も無かった。そのまま一人で飲み歩いて前後不覚になる程酔うこともなかった。  更に言うなら行きずりの男と一夜を共にして、絶望的な気分で目覚めることもなかった筈だ。  いや、タイムマシンは流石に無理だとしても、せめて酒が入ったら記憶を無くせる体質であってほしかった。  そうであれば、結果についての反省はしたとしても、昨夜の絶望と痴態を事細かに思い出して、逐一胃が痛くなったりはしない。  忘れる為に飲んだ酒は、結局桜介の理性を取り払っただけで、記憶に何の干渉もしてくれない。  金曜夜の浮ついた喧騒も、電話越しに聞こえる冷やかな女の声も、誤魔化しきれなくて笑った乾いた自分の声も、耐えきれなくて泣いたトイレの個室の張り紙も、馬鹿みたいに詳細に記憶している。  それだけでも胃はきりきりと痛むというのに、更に、その後にやらかした一晩の過ちも、しっかりと脳みそに刻まれていた。  見慣れない天井は、昨日この部屋に入った時と同じ、落ち着いたオフホワイトだ。  マットな濃いグレーで統一された室内も記憶にある。高そうなマンションで尻ごみした。今横になっているベッドのシーツも、枕も、昨日散々掴んで噛んだ。  噛んだと言えば、噛んで良いよと笑われて腹が立った上に欲情してしまい、思いっきり歯をたてた手の甲が隣に放り出されている。  奇麗な男の骨ばった手だ。その腕からたどる様に視線を巡らせば、隣に眠る金髪の男に目が止まる。  白に近いくらいブリーチされた髪の毛が、人形の髪みたいにさらりと頬に落ちていた。  いびきもたてず、死んだように眠っている様は、眠れる美女ならぬ王子の様だと思う。  ただこの王子様は昨日、その指で口で言葉で目で、散々桜介を嬲ってくれたということを、正直忘れて目覚めたかった。 (……ゲイじゃ、無いって言ってた気がするけど)  行為はしっかり覚えているのに、その辺だけは都合よくあやふやだ。  誘ったのは桜介の方だった。バーの隅で静かに酒を傾けていた王子様は、始終冷めた美貌で相槌を打つだけだった。慰めてと笑ったら、本職じゃないけどいいかと、言われた気がする。  それでもいいからと縋った桜介は、どうにもひどく酔っていた。行きずりの人間と関係を持つなんて、それこそ二十代の頃に痛い目を見て以来だ。  思い出せば思い出す程恥ずかしい。あほらしい。穴が無くてもどうにか尻まで隠れたい。  若気の至りや酒のせいにする年齢でもないし、どう考えてもただひたすらに馬鹿だった。 「……埋まりたい……」  土の中に埋まって三日くらい音信不通になりたい。粛々と反省だけをしたい。  そう思って天井を睨みながら枯れた声を絞り出すと、隣の王子様がみじろぐ気配がした。  勝手に出て行こうかとも思ったが、鍵もかけずに居なくなるなんて、流石に失礼すぎるだろう。この男は誘いに乗っただけのごく普通の人で、馬鹿なのは勝手に慰めろと喚いたこちら側だ。  その追い目は非常に激しく、それでも絶望的気分は晴れず、笑顔でおはようとも言い難い。結果、引きつったような顔で挨拶をする羽目になった。 「おは、よう、ございます」 「…………あー。あー……おはよう、あー……そうか、うん、……誰かと思った」 「え、あ、記憶ない?」 「いやある、うん、あります。ちょっと寝起きはね、あー……ぼんやりするから……」  ごめんね、とまったりした声を出した男は、もぞもぞと枕に顔を埋めて暫く唸る。どうやら寝起きの良い桜介とは違い、少しずつ覚醒しないと目覚められないタイプらしい。  勝手に着替えて帰ってもいいものか。ホテルではないので会計は要らない筈だ。しかし汚れたであろうベッドのクリーニング代などは、一応置いて行った方がいいのではないか。  上半身だけ起こして、手持無沙汰にとりあえず目の前の問題について考えていると、枕に埋まっていた頭がもぞりと動いた。  たれ気味の色気を湛えた目元は、良く見ればかなり好みで、不本意にもどきりとしてしまう。 「……そっちは? 覚えてる?」  くもぐった低い声が問いかけてくる。鼻にかかる低さは耳に気持ち良く、昨晩の記憶に連結されてしまう。その記憶を振り払うように、桜介は痛む頭を押さえた。 「あー。まー。はい、結構リアルに」 「へぇ。随分飲んでたのに、記憶無くす系じゃないんだね。そりゃ大変だ。……キミ、今最高に死にたいって顔してるしね」 「仰る通りで、なんとも……」  まだ覚醒してないのか、随分ともごもごと喋るが、言葉を濁すタイプではないらしい。その上言葉のナイフも鋭い王子様は、ざくざくと崩れかけたハートを攻撃してくる。  馴れ馴れしいわけでもなく、気まずいわけでもない男の対応はどうにもこういう事に慣れているようで、桜介の警戒心が勝手に増す。  自分からのこのこついてきて何だが、遊び人を自称するドライなイケメンには何度も痛い思いをさせられてきた。一晩だけならただの思い出だが、深く付き合いたい人種ではない。  これは後腐れなくさっさと退室しよう。  久しぶりの行為だった上に酔っぱらっていたので、最後まで及んでいない。下半身はだるいしついでに頭も痛いが、尻が痛くて動けないという事は無い。財布の中にはまだ札が残っていたと思うから、タクシーでも拾えば最寄り駅まではいけるだろう。  そこまで考えると、やっと人心地がついた気分になる。  あとはベッドを出るタイミングを見計らうだけでいい。そんな風にほっとしたのも多分、相手にはばれていて、少し笑われたような気配がした。 「……正直な人だね。そんなに怖がらなくても、ちょっとセックスまがいの事をしただけの人を追いかけ回したり騙したりしないよ。まぁ、でも、久しぶりに気持ち良かったけど」 「え。最後まで、して無い……っすよね?」 「してない。でも、気持ち良かった。反応も良いし楽しい。だからちょっとだけ惜しいなってのは、あるけど。それだけ身を引いてる人に、朝からもう一回仕切り直しませんかとか言わないし。……まぁ、またどこかで会ったら縁があったってことで、それはその時考えるよ」  やっとゆっくりと体を起こした男の裸体を直視できない。  ひょろりと長い手足も、少し猫背な姿勢も嫌いではないから、尚困った。  なるべくそちらを見ないようにしながら、ベッドの下に無造作に落ちている下着とインナーを拾って身につける。  まだ春というには早すぎる季節だ。床に放り出されていた服は冷たく、暖かいシーツの中に戻りたくなる。寝室の入り口付近に脱ぎ捨てられたジャケットを羽織り、財布がきちんと入っていることを確認すると、男の方も黒い細身のカットソーを着て、煙草に火をつけていた。  ふう、と、吐き出された煙が、白く濁ってふわりと消える。  冷たい朝の空気も相まって、異常にサマになって見えた。バランスのいいイケメンは、煙草を吸っているだけで格好いいからずるい。  眠そうな目元も、けだるげな口元も、嫌味なくらいに格好いい。  だからこそ、さっさと帰って縁を切らなければならない。こういう見るからに好みの男は、往々にして桜介との相性は悪く、最終的にトラウマしか作りださないということを知っていた。  それこそ、男の言ったとおりに『いつかまた縁があったらその時はその時』だ。  今はさっさと家に帰って、スポーツ飲料水を飲んで蒸しパンを腹に入れて横になりたい。  煙草の火を燻らせていた男は、ゆっくりと瞬きをすると、若干面倒くさそうにあくびをした。煙草の匂いが鼻先を掠める。 「珈琲飲むなら一緒に淹れるけど、帰る?」 「帰り、ます。えーと、俺が何かするべきこととか払うべきものとかって、」 「あー……別に、そこらへんは大丈夫かな。僕の部屋だし、特別なおもてなしもしてないし。お金は気にしなくていいよ」  金の事などどうでもよさそうに喋る男は、本当にどうでもいいと思っているのだろう。  家具や部屋のデカさを見るだけでも、桜介とは住む世界が違うお方だというのがわかる。ここはお言葉に甘えることにして、逃げるように寝室を出た。  桜介の住む、いかにも独身一人暮らしのワンルームアパートなどとはわけが違う。  寝室を出た場所はリビングと思われる部屋で、後ろからついてきた男に『出口はあっち』と指をさされる始末だった。恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしい。 「エントランス出たら、右の方が大きい道になってるから。多分、迷わないと思うよ。それじゃ、昨日はごちそうさまでした」 「……うまいもんでもないっしょ。こんなゲテモノ」 「楽しかったって言ってるのに。じゃあゲテモノ食べさせた責任で、デザートもらってもいい?」 「は?」  何言ってんだこのイケメン、と思い顔を上げた桜介は、煙草の煙を吐き出す男と目が合い、そして気がつけば唇が重なっていた。  煙草の匂いと味が、嗅覚にも味覚にも苦い。けれどなぞる舌は甘い余韻を残して去る。  死ぬほど気障なキスをされた。  放心したまま、ひらひらと手をふるイケメンの部屋のドアを閉じ、一人廊下に立って初めて熱が上がった。 「かっゆ……!」  なんだあれは。本当に住む世界が違いすぎて、さっぱり理解できない。  見ている分には素敵なイケメンだったがしかし、住む世界が違いすぎる。ああいう人間は観賞しているに限る。奇麗なものを楽しむコツは、話かけてわかり合おうとしないことだ。きれいなものはきれいなだけで価値があるのだから、それ以上欲張ってはいけない。  ああだめだ。帰ってコンビニの蒸しパンを食べる。夕飯はシジミのみそ汁にする。それまではひたすら寝て、二日酔い成分を体外に出すことに費やそう。  酒と昨日の痴態は反省して、それから諸悪の根源になったトンデモ電話の件について考えよう。  イケメンのキザな口づけや、その他もろもろの色気なんて考えている暇は無い。  そう思わないと、つま先からぞわぞわとした何かが這い上がってきそうだった。  ぜひ王子様はお姫様と結ばれて欲しい。童話の中の生物と恋愛はできない。だから桜介には関係ない。  そう思っても唇に残るあれそれや、記憶に残る非常に破廉恥なあれそれが雑念となって襲いかかってくる。  別に、必要ないと思いつつも。  ちらりと振り返り確認してしまった表札には、洒落た字体で『Ariga』と表記されていた。

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