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CIGAR×SUGAR 6
明日の夜暇か、と言われたのは十二月三週目の金曜日のことだった。
雨宮はニールの連絡先を知らない。
もう友人と言ってもいい関係ではあったが、今更携帯の番号を教えてくれとも言いだしにくく、着の身着のまま待ち合わせをする関係を続けていた。
「明日……確か早番だったので、七時からなら空いてますが。明日はお姉さんと夕食の予定では?」
「珍しくキャンセルされた。どうしても抜けられないパーティがあったことをすっかり忘れてたんだと。まあ、年末だからな。そういう付き合いもあのひきこもりには重要だ、どんどん行きゃいいんだ。というわけでレストランの予約が空いてる。クリスマス前にカップルどもに譲るのも癪だろ」
そんな風に言われてしまえば、行くと答えるしかない。結局雨宮は慣れないジャケットを着込んで日曜の夜を迎えたのだが。
「……こんな高級なところだなんて聞いてない」
椅子を引いてもらい、腰をおろしてから恨めしく呟く雨宮に、向かいに座ったニールはワザとらしく首を竦めて見せた。絶対に確信犯だ。
「レストランって言っただろう。一応ここのドレスコードはカジュアルだよ。フォーマルな店じゃない」
「それは伺っていましたけど……まさか個室に通されるなんて」
「姉が人の目を気にするもんでね」
今日のニールは深い色のグレーのシャツに黒のスラックス、そしていつもの皮靴という出で立ちだ。普段見なれているスーツ姿とあまり変わりない筈なのに、前髪をゆるくおろしているせいで印象が随分と違う。
コートを預かってくれたウェイターも、椅子を引いてくれた女性も皆丁寧で、こんな高級レストランがこんなに近くにあったなんて、と驚愕したし一々申し訳なくなる。
「あなた本当に何者なんですか」
「だからただのサプリメント販売員だよ。ニコチン中毒の。こういう店にも疎い。ここは姉との食事の時によく利用するだけだ。他の店は俺なんか門前払いだろうよ。上流階級向けの店は、品格って奴に煩い。ただ金を持ってるだけじゃ駄目だ」
聞けば、このレストランのオーナーは、クロエ・ノーマンの大ファンらしい。ニールの上司がよく利用する店で、彼女の紹介で姉共々常連になったということだ。ただ、ニールが姉以外の人間とこのレストランの椅子に座るのは初めてだと、挨拶に来た支配人はにこやかに笑っていた。
そんな事を言われてしまうと、なんと返していいかわからない。友人かどうかも怪しいと思っているのに、ニールは一体どういうつもりなのかと無駄なストレスを抱えそうになった。
「適当に頼むのも面倒だからコースにするけど、肉? 魚?」
「……魚で」
「オーケー。俺はこの店では初めての肉料理に挑戦だ。酒は飲めないんだったか」
「乾杯くらいはできますよ。がぶがぶ飲む方じゃないですが、ワインは比較的好きです。食前酒くらいならお付き合いします」
「俺も酔う程飲むのは好きじゃないが、味自体は嫌いじゃない。ソムリエの仕事を奪わなくて良かったよ」
そして慣れた様子でオーダーする様は、言葉に出来ないほど格好いい。つくづくずるい男だ。普段は狭いキッチンでシリアルばかり食べているくせに、どうしてレストランがこんなに似合うのだろう。
にこやかなソムリエが用意してくれたシャンパンは甘さ控えめで、さっぱりと口の中に酸味が広がる。
「……こういうの飲む時に、高いんだろうなぁって思っちゃいけないんでしょうね。でも、高いんだろうな」
思わず本音を漏らしてしまう。ナプキンでさえ恐る恐る手をつける雨宮の様子に、行儀悪く頬杖をついたニールは苦笑した。
「庶民派のダイナーとかのほうが好き?」
「それはそれで構わないですけど、でも、正直、落ち着かない気持ちとちょっと面白いような気持ちが混在っていうか。……こんなところ、友人の結婚式でも来ないでしょうから」
「まあ、俺も他は知らないな。うちの会社は比較的高給取りだけど、別に貴族ってわけじゃない。ただの会社員だ。パーティや会食なんかそう機会もないさ」
「でも、このお店にはよく来るんでしょう?」
「姉がね。俺は実家に帰るのも面倒だし、結局譲り合って、ここが食事の場になる。魚料理しか食ったことないけどうまい筈だ。ベルを鳴らす時以外は比較的放っておいてくれるところも気に入ってる」
だからそんなに緊張せずに好きに食えと言われるが、奇麗に並べられたナイフとフォークを眺めるだけでパニックになりそうだった。
早速並べられた前菜は見た目も麗しく、雨宮がなんとか切った不格好なコブサラダとは似ても似つかない。
毎日ではないとはいえ、こんな奇麗な料理を口にしている人に、自分はなんて不器用なサラダを食べさせたのだろう。恥ずかしくてもうキッチンには立てないかもしれない。
酸味が効いたドレッシングで和えられた野菜を口に運びながら、そんな感想を漏らすとニールは目を見開いた。
「……心外、というか予想外の感想だな。別に俺は、センセイの作ったコブサラダもこの酸っぱい野菜も似たようなもんだと思ってるよ。安く上がる分、センセイの料理の方が良いくらいだ」
「それはあの、流石にここのシェフに失礼じゃないかと……」
「胃の中に入れば一緒だろ。そりゃうまい方がマシだろうけど。そうだな、例えば……一人で高級フルコース食うのと、二人でみじん切りみたいになったコブサラダを食うなら俺は後者の方が良い、と最近思い直した」
「…………あれは大きさを指定しなかったあなたが悪い」
「まさかアボガドと卵をミンチにされるとは思わなかったんだよ。トマトを切る前に気が付いて良かった」
初めてキッチンに立った日の事を揶揄され、思わず言い返しながらも、とても重要な事を言われたのではないか、と思う。緊張しているせいか、シャンパンが思ったよりも強いせいか、思考がうまくまとまらなくて、ただ視線をあげる度に落ち着かない気分になった。
隣を歩くことには慣れた。キッチンに立つ様子にも、甘いキスにもやっと慣れた。それなのに、新しい一面を知る度にまたどぎまぎとしてしまう。
ほんの少し好みだっただけだ。目を引く男が、サプリメントと煙草で生きているというような事を言うものだから、ついうっかり小言が口を付いて出た。
自分だって大してまともな食事をしていたわけじゃない。実際に料理の腕はニールの方が上で、毎度ナイフを持つ度に雨宮はニールに持ち方を正される。
煙草をやめろと言ったら、煙草をやめさせてみろと言われた。ただ、それだけの遊びのような、ゲームのような関係性だった筈なのに。
最近は、興奮を伴う妄想に別の意味合いが追加されていた。
今までただの快楽を求める行為であったセックスの夢に、甘い言葉が混じり始めた。夢の中のニールは、今までと同じように雨宮を追いたてながら、聞いたこともない甘い言葉を吐いた。思い出すだけで逃げ出したくなるような妄想だった。
低い声はより甘く、蕩けるようにアイラブユーを繰り返す。絶対にあり得ない言葉だ。嫌われているとは思っていないが、彼がそんな言葉を言うわけがない。身体を合わせる妄想すらあり得ないことなのに。
けれど夢の中の言葉を思い出す度に、雨宮は深呼吸をしなければならなくなった。息を吸い、ゆっくりと吐き、気持ちを落ちつけなければ、潰れてしまいそうになる。
恋だなんて馬鹿げている。そんなものはストレスを増すだけなのに。
すっかりその毒牙にかかってしまっていることを、左腕につけた時計を見る度に実感した。
プレゼントをされることは珍しくない。日本人の中では美形と言われる部類にいるのは承知している。男女共に雨宮を好く人間は多い。誕生日やバレンタインは、頼んでも居ないのに贈り物で溢れた。
それでも過去に貰ったものの中で、こんなに胸が痛くなるプレゼントは無かったように思う。
嬉しくて泣きそうで、期待してしまいそうで辛くて、うまく笑えなくてけれど嬉しいという言葉は伝えなくてはいけなくて、必死に言葉を探したけれど結局『嬉しい』というそのままの言葉だけしか出なかった。
もっと英語が堪能だったらよかったのに。けれど、実際これが日本語であっても、それ以上の言葉は出てこなかったかもしれない。
時計を貰った後にトイレに引きずり込まれてたっぷりとキスをして、ふらふらの状態でまたモールを歩き、随分と上の空で過ごしてしまった。アクセサリーショップで唸るニールに、きちんとしたアドバイスができたか覚えていない。
雨宮は自覚する。こんなもの、もうすっかり落とされている。這い上がる気力もないくらい、完璧に自分は恋の穴に落ちていた。
ベッドに誘いたい気持ちと同じくらい、彼を失うのが怖い。あんなにキスをしているのに、ニールと雨宮は恋人でもなく、友人でもない。
連絡先も知らないこの関係は、どちらかが切ろうと思えば、簡単に絶ち切れる。せめて携帯の番号くらいはどうにか手に入れたいものだが、さてどうやって切りだしたらいいものか。
うだうだと画策しつつも、料理は次々と提供される。
スープの皿には赤と緑の柊が添えられていて、そういえば世の中はクリスマスに浮かれていることを思い出した。
「クリスマス前の週末を男二人で過ごさせて悪いな。予定は無かったの?」
なんとなしに訊かれ、思わず言葉に詰まってしまう。
「……あー。実は、誘われていたんですけど。蹴ってしまいました」
「あの化粧の濃い女学生?」
「ええ、まあ、うん……シフトばれてますからね……ディナーに、と言われて、どう断ろうか迷ってたんですが」
「どうやって断ったんだ? 知り合いの男がレストランに誘ったからなんて正直に言ったわけじゃないだろ」
「……お付き合いしている方がいるので週末は、と、濁させていただきました」
もごもごと小さな声を洩らす雨宮に、向かいの男はにやりと笑った。
「素晴らしい嘘だな。彼女の中じゃあ、きっと今頃アメセンセイは金髪美女とデート中ってわけだ。現実は猫背のニコチンモンスター。しかも男。……外国の女は苦手? それとも年下が苦手?」
「特別人種にはこだわりませんよ。最初は、アメリカ人なんかみんな敵だと思ってましたけど、最近はやっと人間だと認識できるようになってきた。年下が悪いわけじゃないですが、流石に大学生に手を出す気はありません」
本当は女性と寝るのが面倒で、尚且つ今雨宮は彼女よりも優先すべき相手がいるだけなのだが、素直にそれを告げるわけにはいかない。
目の前で肉を切る男こそが、その意中の人物だ。
白身の魚とエビのフリットを口に入れつつ、料理の味など半分もわからないくらい雨宮はニールを見ていた。
肉を呑み込む度に喉仏が動く。それがとてもセクシーだ。軽く流すように止めてある前髪が時折はらりと落ちてきて、それを手で払いのける。その様も、雨宮の目を奪う。
あの手で触れられたいと、ずっと思ってきた。けれど今は、あの口に愛を囁かれたいと思っている。そんなことはあり得ないと、何度言い聞かせても、かすかな希望を見つけて縋ってしまう。
丁度今、ニールがこちらを見つめて目を細めている事に気が付いてしまったように。そんな柔らかい表情を向けられると勘違いしそうになる。
「…………何ですか?」
視線に耐えられず、行儀が悪いがフォークを咥えたままもごもごと問いかける。口の端にソースでも付いていただろうか。そう思いナプキンを手にした雨宮の手は痺れたように震えていた。緊張と興奮が相まって泣きそうだ。
「いや……かわいいな、と思って」
ごくん、と喉を鳴らすタイミングでニールがとんでもないことを言うものだから、危うくフリットを吐きだしかけた。
「……っ、ぐ、ちょ、……いきなり、どうし……あ、酔ってます? きっと酔ってるんだ」
「特別強くないけどワイン二杯くらいじゃ酔わない。なんだ、自分はそんなに熱い目で見つめる癖に、俺が言うのは駄目?」
「……駄目でしょう。私はその、男性もそういう対象です。でも、あなたはストレートだ」
「でもかわいいもんはかわいい」
「やっぱり酔ってる」
「酔って無い。……そういうセンセイこそ顔赤くないか?」
「…………誰のせいだと」
答える声は蚊の鳴く程小さな声になった。満足そうに笑うニールに負けたような気分になって癪だ。それと同時に、非常に甘い期待感が募る。
今日も煙草代わりのキスをされて、そして明日また夜十時に待ち合わせる筈だったのに。
どういうつもりか、など聞かなくてもわかる。何度か経験してきた甘い会話を、彼とするとは思っていなかった。
「酔ったなら、家まで帰るの面倒だろう。この裏に姉が宿泊予定だったホテルがあるけど。あの人はいつもせっかくなら広いベッドがいいとかで、部屋を取る時はダブルで取る。多分、キャンセルを忘れたままだろうな。……二人宿泊したいってフロントにかけあえば、多分、なんとかなるけど」
それとも俺の部屋がいい? と言われ、もう雨宮は降参するしかなかった。
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