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第1話

 人生辛くなると、世界人類みんな豆だって言ってたオカマを思い出す。  あれも豆、これも豆。自分も含めてみんな豆。  何の話だったかさっぱり忘れたけれど、一般人はかわいい小豆であなたは大豆でわたしはさしずめひよこ豆、なんて笑ってやがった赤い口紅を思い出してほんの少しだけ死にたくなった。  でも大豆ってすごいでしょ。  だって味噌も醤油も豆腐もおからも油揚げも全部大豆じゃないの、って自分の価値を間接的に高めようとしたところ、後者三つは結局豆腐、と水増しを見破られた。そのくらい見逃してくれたっていいのに、オカマは変なところで几帳面だ。  下処理しないと使えないし、固いし、臭いし、面倒だし。お料理には欠かせないのになんでか華にならないの。お料理の、小鉢の世界で主役を持って行けないの。でも、ないと困るのよ。トキちゃんってば、本当に大豆よねぇ。  そう言われてみればオレの人生そのもの過ぎて、うははと笑ってちょっと泣いた。 あのとき涙じゃなくて胃液でもげほっと吐いとけばもうちょい心も晴れたかもしれないけれど、まあ、まったくもってその通りだとむしろ納得の上感心してしまった。  ズケズケ言うからオカマは怖いし、ズケズケ言うからオカマは好きだ。  だって一度口から放った言葉のナイフに隠した刃は一切なくて、思う存分切られるだけで奇麗に終わる。  後から後から、言葉の裏を探って笑顔で足の裏に刺さった画びょうを抜くような面倒な事をしなくていい。人間ってだから面倒って言う度に、アンタの方が面倒だと切られるのも慣れている。あーはいそうね仰るとおりだと笑うのはいつものことだ。  ただし今日はちょっとうまく笑える自信がない。  こんな事は珍しくもない人生だけれど、ここ数カ月ばかみたいに平和だったおかげ様で、胃にかかる負担が普段の倍量だ。  人間は慣れる生き物だって言ってたのはオカマじゃない筈だけど誰だっけ? あーでも本当まさにそれで、久方ぶりに訪れた安泰を、最初はそれこそ毎朝神様ありがとう毎晩神様ありがとうして享受していた筈なのに、いつしか当たり前になってしまった。  ざあざあと耳に肌に響く雨が脳みそ揺らして感情とか感傷とかそういうの、全部ごちゃまぜになって湿気と一緒に流れ出ているような気分。  雨が降っていて良かったと思ったけど、雨の日に振られるのは二回目だなと気がついて吐きそうになった。  やっぱり雨で良かった。見渡す人混みは傘の海で、誰も、道端でセンチメンタル吐き気なうしてるゲイのことなんか気にしない。振りかかる水滴からいかに身体を守りその上跳ねる水たまりからいかに靴を守るか、世間は今そんな小さなストレスで満ちている。  大豆の事を考えていたせいか吐き気を抑えていたせいか、オレの歩みはずいぶんととろとろとしていた。さながらカタツムリの様。でも、カタツムリの方が人生楽しいかもしれないし他人にとって有益かもしれない。  雨の日に紫陽花の葉の上を悠然と闊歩するカタツムリは風流だけれど、雨の日に振られて吐きそうになってるゲイは見世物になるか否か微妙なところだ。  楽しそうに駆けて行く赤い傘の女の子をぼんやりと眺めて、あー今世界滅ばないかなー爆弾でも落ちてサァなんて思ってるゲイは、だめだろうな、やっぱり、性根が腐ってる。  笑えない。泣けもしない。この上嘔吐なんてとんでもない。  こんな有様では、電車に乗れる気が一切しない。  それでも歩いて帰る距離ではないし、タクシー使用だなんてブルジョアな思考と金は持ち合わせていない。  これからあの小さい箱の中に詰められて、知らないおっさんとおにーさんとおねーさんとおばさんの中でぎゅうぎゅうと揺られるかと思うと眩暈まで起きそうだ。世界は小豆で満ちている。大豆の入る隙間はない。  電車の中で唐突に、『生きていてゴメンナサイ』って泣きだす可能性が十パーセントといったところだ。  あーホントオレ今日病んでるわぁって自分で茶化してまた軽率に世界終わらねーかなって思った。  だめだ、早く帰って死ぬ前に寝よう。もういいやって、思う前に一回寝よう。そしたら人生もしかしたらハッピーな方向に急転換するかもしれないって、そんな無茶な希望を少々抱いてさっさと寝よう。現実を一回シャットアウトしよう。  雨の音を聴いて、泣いて、吐くのは家に帰ってからでも充分だ。好きだった男の冷たい言葉を思い出して、呪うのも、嘆くのも、家に帰ってからで良い。  だから考えるな。と、繰り返す。  考えるな。考えるな。出てくるな、ああもう、笑うな、オレの好きな顔で笑うな、オレの好きな声で笑うな、その口で、オレと散々キスしたその口で、どうしてアンタはそんな酷い事言うの。  考え始めるとただただ被害者になるのは良くない癖だと知っている。どっちが悪いとかそんなことより自分が可哀想って思っちゃう、この癖ほんとどうにかしたい。可哀想、可哀想、そんな風に思うのは気持ち悪い。  ああ、でも、だって泣きそうなんだ。 「……ぅ…………、……」  だめだめ、ちょっとでも滲めばもう駄目、涙が出る、出ちゃう。  もうちょっとで駅なのに、地下に続く階段前で足が止まってしまう。待ち合わせなのか、雨宿りなのか、地下鉄入口の屋根の下は人間で溢れている。  こんな雨の中シフォンスカートのお嬢さん。蒸れそうなブーツのお姉さん。煩いカップル。例え隣のおっさんが至極迷惑そうな視線をちらちら送っても、気がつかないカップルは幸せだ。  ずるいなって思って、その後にあまりお口に出せないような悪態が一瞬よぎって、反省して、やっぱり早く寝よう死ぬ前に寝よう、寝る前に吐こう、吐く前に泣こう、と思った。  ぼんやりと佇んでいたのは、ほんの少しの間だった。そりゃ確かに、地下鉄入口の階段前に佇むオレは邪魔だっただろう。 「……、ぅわッ!?」  でも何も、後ろからそんな風に押さなくていいんじゃない? って。  思う前にオレの身体は肩に受けた衝撃で、階段下に向かって押し出され、足を滑らせた。 そのまま、階段に向かって転げ落ちてぐしゃりと潰れた――…のは、オレの担いでいたトートバックだけ。 「……っぶね、ちょ、平気っすか」  荷物を宙に放りだしたオレはと言えば、何故か知らない青年と縺れるように尻もちをついていた。  何が起こったかわからなくて、ただでさえ回って無かった頭が一瞬本当に白くなる。頭が真っ白になった、っていう表現は実際リアルだ。真っ白。まさにそれ。  ひゅっと飲み込んだ息をやっと吐きだして、あー、これ、すごい、押されて階段転げ落ちる手前で隣歩いてたおにーさんにとっさに手を引っ張られて助けられて、そのまま二人でこけちゃったんだ、と気がついて涙も吐き気も引っ込んだ。  冗談じゃ無く死ぬところだったかもしれない。ちょっと流石に周りは騒然としていて、声をかけてくる人は居なくとも心優しき人間たちが、オレの荷物を拾い集めてくれていたりした。  暫く呆然としていたオレも、流石に我に返ると支える腕から飛び出し、ずぶ濡れの命の恩人を助け起こした。 「おにーさんのおかげ様でちょう平気です……! うっかり死ぬところを、助けてもらいました。すいません、おにーさんこそ平気ですか、うっわ水!」 「あー……まあ、濡れたもんは洗って乾かせばいい話だし、別に、これから帰るだけなんで。結構思いっきり引っ張ったんですけど、腕平気っすかね。やべえ落ちるって思って、とっさに引っ張っちゃったんで、あー……痛い、とか、あったら、ええと、すいません?」  語尾をあやふやに誤魔化す様に苦笑いするおにーさんは、色の抜けたようなピンクの髪の毛をだらりと伸ばしていて、微妙にインパクトが有る。イケメンってカンジじゃないけど普通に目を引く。その毛も雨に濡れてびしょびしょで、わぁー素敵な色ですねなどと世間話につなげる訳にもいかない。  腕は確かに若干痛い。外れたとか折れたとか切れたとか、そんな物騒な予感のする痛みではないものの、確かに痛い。  けれど、それこそ頭から落下するよりはマシに決まっている。  世界が終わるどころか、自分一人でひっそりと終わるところだった。  雨の日に地下鉄の階段から足を滑らせ転落死。ゴーリーの絵本には載っけてもらえるかもしれないくらいにシュールな最後だけれど、出来ればオレは老衰でめでたしめでたしと人生を締めくくりたい。  親切な人々から拾い集めて貰った荷物を受け取り、水に濡れたスマホを確認してため息をつき、それでも転落死で絵本行きにならなかっただけ絶対にマシだと言い聞かせた。こういう場合は格好よくクリーニング代にどうぞと万札でも渡すべきなのか迷っていると、ピンクのおにーさんから声がかかった。 「あの」  思わず振り返って、見上げてしまう。  あー、背高いなおにーさん。ちょっと猫背気味だけれど、それでも視線は上を向く。オレ一応百七十センチ中盤なのに。もうちょっと首が太くて目がきりっとしてるイケメンなら運命の出会いを感じちゃうところだったかもしれない、なんて。  そんな失礼かつどうでもいい事を考えてぼんやりしていたのに、急に出された懐かしい単語にうっかりオレは凍りついた。 「……カルナバルの、人?」 「――……ええと、何の、話、」 「どこかで見た事あると、思ったんですよ。お兄さん、写真のモデルしたことないっすか。真っ赤な、絵具? 血? わっかんねーっすけど、とにかく赤かった。タイトルはカルナバル。撮ったのは多分、カヤ……あーっと、萱嶋君江」  あーカヤちゃんってそんな本名だったっけ? と思いつつも、オレはピンク髪のおにーちゃんと微妙に距離を取り始めた。  周りにオレの落とした残骸が無いか、確かめつつ、荷物の中も確かめる。財布ある。カードケースある。スマホある。電源入らないけどとりあえずある。これだけあれば何か無くても生きていける。  人違いですという勇気が無い。命の恩人に、口から出まかせの嘘をつく不誠実さはこれ以上オレの人生汚すようで許されない。  だからオレは否定することも肯定することもできずにすいません急いでるんで本当にありがとうございました風邪とかには気を付けてと早口で捲し立てて、ピンク髪の反応も見ずに声も聴かずに逃げるように階段を駆け降りた。  慌てて縺れて、折角変わった運命をまた転落死に近づけそうになったけれど、どうにか改札までたどり着き恐る恐る振り返り、ピンク髪が追ってきていないことにホッとした。  息が切れる。久しぶりに走るとこれだ。インドア系は運動に向かない。 「……は、……はぁ、……っあー…………」  別に、写真のモデルをしたことが恥ずかしいことだと思わない。  確かにカヤちゃんの写真はうまいしかっこいいし奇麗だ。でもあの人は、趣味の人物写真は同性愛者しか撮らない。そういう人だ。そういう芸術だ。  カヤちゃんの作品集からも抜いてもらったあの写真を知っているということは、カヤちゃんの知り合いか写真関係者か、それともお仲間かもしれない。  ばれたっていいじゃない。いまさら、ゲイだってことを隠して何になる。  恋人もいない癖に。振られた癖に。あーだめだめ、思い出してきた。また、泣きそうだ。 「……ばれたっていいじゃない」  それでもオレは隠したい。だって大豆は小豆の中には混じれないけど、小豆ぶって生きて行きたいのだもの、なんて。あははちょっと詩的だねぇ素敵、とか、まだ少し笑えたからあそこで転落死しないで良かったと思った。  ピンク髪の彼には感謝していた。今度、カヤちゃんにもし会うようなことがあったら、心当たりがないか訊いてみてもいいかもしれない。それまでに、オレの心が現実世界に耐えかね死ぬことがなかったらっていう話だけれど。  二十六年、しねばいいのにって言われながらもどうにか生きて来れたわけなので、まあ、そうそう簡単に手放す命でもないなって思った。  雨の日に振られたのは二回目だった。  そして、雨の日に命を救われたのは、多分、初めてだった。

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