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『海の中から見る太陽』

頭が枕に重く沈んで行く。脳から血が流れるような、気持ち悪い感じがする。目をつぶる。なにが見える? 落ちて行く海の下から見る水面。太陽って海の中からも見えるんだな。 やっと起き上がって、信也のマンションの中を歩く。男の一人暮らし。またバスルームのドアと書斎のドアを間違える。もう三日もここにいるのに、間取りさえ覚えられない。彼は今日も仕事中、何度か電話してくれた。最後の電話は取らなかった。 キッチンのキャビネット。引き出しから、なにかいい物はないかと探す。頭痛薬。酔い止め。睡眠薬? 信也みたいな健康そうな男でも眠れないことあるんだな。高そうな酒が並んでいる。俺はその中でも一番高そうなブランデーを選ぶ。最期だからいいと思って。わざわざブランデーグラスを探して、酒と一緒に、その薬全部を飲み込む。大した量ではない、と思うけど。 しばらくの間、逆に頭が冴え渡って、俺はバルコニーに出る。ビルの隙間に落ちて行く太陽。ここって何階? 何度来ても覚えられない。手摺に摑まって下界を眺める。そんなに高くない。下を歩く人々の顔がなんとなく見える。 意識が時々途切れる。忙しく走る車の音。鳩の鳴く声。大分暗くなってきた。風も涼しくなって、俺は手摺に胸を当てたまま目を閉じる。隆雄のことが浮かぶ。あんな所で偶然会うなんて。運命? いつも使わない言葉に笑う。そして、意識が遠のく。 後ろから両肩を強く掴まれる。 「純一!」 いつの間にか、俺の両腕が手摺を離れて、外側にぶら下がっている。 「なにしてる! 飛び降りるつもりか?」 声が遠くから響く。飛び降りるつもりはない。俺は歩こうとして、足が絡まって、コンクリートの床に手をつく。 「電話に出ないから。」 俺の耳に囁く。倒れる直前に、信也の胸に抱きとめられた。こんなに優しい人が側にいるのに。隆雄。なんで今アイツのことなんて。 救急車が来て、なにを飲んだのか聞かれて、それにはちゃんと答えて、そんなにたくさんは飲んでない、と言い切った割には、またそこで意識が薄れる。救急車の中で目を覚ますのは、俺の人生、既に何度かあったこと。車に信也が乗っている。目を開けた俺を見て微笑んでくれる。知らない声。 「貴方、お名前は?」 「徳平信也です。」 「患者の同居人ですか?」 「はい。」 それは違う。俺には住む所がない。入院させられると親に連絡が行く。それはイヤだな。だったら、こんなことはもう止めること。 救急車に乗るのは平気だったのに、病院に入る時になぜか抵抗する。救急病棟の入り口。ここから病院の玄関が見える。いつもの病院じゃない。噴水がない。木や花も。身体が動かない。これ以上、逃亡を謀るのは無理だ。 次に目が覚めたら、やっぱり知らない病院。知らない看護師が俺にケータイを渡そうとする。 「君の精神科医が電話に出てる。」 俺は、目をつぶったまま首を横に振る。看護師は無理矢理ケータイを俺の耳に押し付ける。俺の精神科医が喚いている。またいつもの、私の患者からは絶対自殺者は出さない、とかそういう理想論を述べている。俺は我慢して聞いている。最後に、家の病院へはしばらく帰って来るな、そこでしばらく反省しろ、と言って電話が切れる。 信也はずっと一緒にいてくれる。仕事しながら。忙しい男だな。ケータイを離さない。彼は俺の悲惨な男遍歴の中では上等の部類に入る。俺はたくさん金持ってる男が好きだから。隆雄もそうだった。またあんなヤツのことを思い出す。頭が変だからしょうがない。ほんとはもう平気なんだけど、具合悪い振りして、信也にいてもらう作戦。親はなにも言ってこない。俺が18になったから、もう連絡をしない作戦なのかも知れない。だとしたら賢い。 この病院の精神科医は若い。さっき電話で喚いてたヤツよりずっと。イケメンだし。 「君は双極性障害なんだってね。」 面倒くさいから黙ってようと思ったけど、ここをサッサと出たかったから返事をした。 「はい。」 「薬はちゃんと飲んでる?」 俺、ホームレスだから。 「時々。」 「時々じゃダメだぞ。」 驚いたことに、それで病院を出される。信也と一緒に堂々と正面玄関から出る。足音だけが妙に響く。やっぱり噴水がない。木も、花も。モダンぶったコンクリートだけの庭。俺の精神科医、すぐ怒るけど、俺のことは中学生の時から知ってる。しばらく来るな、って言ってたな。 俺は信也に喉が渇いたと言って、一緒にカフェに入る。トイレに行く振りをして、裏口から逃げる。すぐ側に地下鉄の駅を見付けて、一番最初に来たのに乗り込む。知らない街で降りる。住宅街の小さな公園に座る。子供がたくさんいて、うるさいけど疲れて動けない。子供を見ると必ず、ソイツ等の暗い将来を想像する。 あんまりジッとしてると怪しまれるな、って思ったから、立ち上がって缶ジュースを買った。そしてケータイをいじる。俺って風景に自然に溶け込んでるかな? ケータイの中に隆雄の名前を見る。最後に会ったのは、あの時、コンサートホールで。 アメリカ人のヴァイオリニスト。アンコールが終わって、俺は去り難くてウロウロしてて、裏口の方に部屋があって、VIPとか書いてあって、パーティーみたいになってた。俺は、丁度そこへ入って行く男と歩幅を合わせて中に入った。照明を落とした部屋の中の、一番華やかな輪の中に、そのヴァイオリニストがいた。彼女の紅色のドレスが眩しくて、泣きそうになった。 視線に気が付いた。人が多くて誰かは分からない。部屋を見回す。スポンサーのリストに見覚えのある会社名を見付けた。俺は部屋を出る決心をした。これだけヴァイオリニストを、現実に感じられたら十分だと思った。 部屋を出たところで腕を摑まれた。 「純一。」 隆雄だった。彼は何度も、なにか言い掛けては飲み込んで、それから静かにこれだけ言った。 「お前、どうせロクなもん食ってないんだろ? なんか食べてけ。」 隆雄は前みたいに、俺が食べてるとこを楽しそうに眺めていた。俺はいつも腹を空かしてて、不幸なことに育ちが良過ぎて盗みもできず、一番金持ちの男と付き合おうと思って、それが隆雄だった。ヤツは生まれた時から金持ちで、なんでも手に入って、それで人生に絶望していた。今思うと、それは俺の双極性障害の絶望と似ている。 一緒に住んで、俺は隆雄にすぐに追い出された。躁のあとの鬱、男遊びのあとのオーバードース。ジェットコースターみたいに上がったり下がったりしていた。でも、もう腹を空かせるのはイヤだったから、何度捨てられても戻って来る野良猫みたいに、隆雄につきまとっていた。そういう時もあった。 知らない街の公園。子供達はもういない。隆雄に最後に会ったのは三カ月前。俺はケータイのボタンを押す。あっちの声が聞こえて、俺はすぐ切る。あっちからすぐ掛かって来る。自分でもなにをしたいのか分からない。 「純一。」 隆雄の声。 「どこにいる?」 「知らない。」 それってほんとだから。 「周りになにが見える?」 「分からない。」 それだけ言って、電話を切った。 冷静になって考える。隆雄は俺がいなくなったことを知ってる。そういう口調だった。信也は俺が隆雄と付き合ってたことを知ってる。信也から留守電にメッセージが入ってる。今日は忙しくて悪かった、って謝ってる。全然謝ることじゃないのに。これから君ともっと向き合って、病院に通って、学校に戻れるように。泣いてる? そんな風に聞こえる。声が震えている。カフェで逃げたことは悪かった。信也と話したくない。罪悪感が邪魔して。 俺はほんとにどうしたらいいのか分からない。まだ自分を破壊したいような気もする。病院に通って、学校に戻って? そんな夢みたいな話し。隆雄のことはまだ愛している。だけど会ってもお互い殺し合うだけだ。金のために近付いて、離れられなくなっただけ。疲れちゃった。俺、18でもう人生終わってる。 ケータイが鳴る。信也。 「どこにいるか言ってくれれば、迎えに行くから。」 やっぱり声が震えている。俺は地下鉄の駅の名前を思い出して、それを言う。 「どこにも行かないで。そこで待ってて。」 優しい人。でも俺は、これがほんとに俺のしたいことなのか考える。分からない。自分にウソをつかないで生きて行くのは、なんて難しいの?

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