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ジョゼと冷たい春の首筋(ジョゼ×イージー)

「解釈違いも甚だしい!」 押さえられない憤怒は結局飲み込む事もできずに見事そのまま僕の口から外に出て、リビングのカベにたたきつけられるように響いた。 そういえば、僕はあまり声を荒げて怒鳴る事がない。 鬱々と、そして苛々とする事の多い心の狭い男であるが、基本が孤独な生活であった為にわざわざ口に出して怒るということがないのだ。 という事に気が付いたのは、僕が大いに憤慨し、腹の底から湧きあがる憤りを特別な遠慮もなく大いに声に出してぶちまけた際、目の前の青年が少し上半身を引き気味に逸らしたからだった。 存分に怯えた――というよりは驚いた表情のイージーは、アーモンド形の麗しい瞳を思いの外大きく見開き、バチバチと音がしそうな瞬きをした。 イージーは典型的と言っていいのかわからないが、僕が想像する『美しいアジア人』の顔をしている。欧州の人間に比べれば瞳の大きさはそれほど目立つものではないが、その流れるような視線の麗しさは格別だ。 普段は静かな黒を湛える瞳が今はまったく飛び退く猫のようだ。 びくりと肩を揺らした彼の顔を直視し、すぐに僕は己の大声と我慢が出来ない性格を詫びた。 「ああ……いや、違う、きみが悪いんじゃない。それはわかってる。わかっているし、びっくりさせてすまない、が、なんというか……本当に信じられない。一体きみが何をしたって言うんだ? こんな仕打ちがあるものか……そう思ったらもう、声を押さえることなんて忘れてしまって」 「大袈裟だよジョゼ……ちょっと、髪の毛切っただけじゃないの」 「ちょっとどころの騒ぎじゃない。僕はきみと出会ってこの二年できみの首筋がきれいさっぱり覗いているところを初めて見たんだ。ちょっとどころの騒ぎじゃない!」 「ええと、ごめん、そのー……わかったから落ち着いて。ね? うん、確かにぼくも、実は髪の毛こんなに短くするの久しぶりだったけど……」 苦笑いで僕を諫めるイージーはさぞ呆れていることだろう。 しかし僕の憤りは収まるどころかただただ募る一方だ。 イージーが僕の家の住人になり、二度目の春が訪れた。僕たちは時折お互いに呆れたり口を出したりしながらも比較的円満に、平和に、そして愛を持って生活していると断言できる。 僕は彼を愛しているし、イージーはトロムソを愛している。相変わらず僕の少ない友人達は、事あるごとに僕とイージーを囲んで祝福してくれる。孤独と寄り添いながら冷たい息を吐き暮らしていた頃の僕が聞いたら、そんな未来があるものかと苦笑一つであしらってしまいそうだ。 僕の特別流行っていないが寂れてもいない日用雑貨店は健在だし、相変わらず繁盛していないが閑古鳥が鳴くほどでもない。スヴェンはより小忙しそうで、その分暇になったアニータがよく手伝いに来てくれる。そしてイージーのささやかな俳優業も順調だ。 テレビドラマの脇役のアジア人役といえば、すっかりイージーの十八番になった。スタントもできる若い彼は、サスペンスやアクションもののドラマに引っ張りだこだ。 顔が売れてくると、どうしても役が被ってしまうように感じる。イージーは俳優としての演技はまだ拙く、変化をつけるには手っ取り早く外見を変えてしまうしかない。 わかっている。一連の事情は仕方のないものだ。顔を売る仕事なのだから、俳優という人々は好き勝手に髭を生やしたりスキンヘッドにしたりできないということは想像できる。勿論頭ではわかっている。頭では。感情はまったくもって納得していないが。 「それにしても短く切りすぎだろう……」 この春から撮影が始まる新しいドラマの為に、イージーはさっぱりと髪の毛を切ってしまったのだ。 勿論本人の意思ではなく、プロデューサー(この男は以前にもイージーの麗しい髪を五センチも切っている前科がある)の意向だ。くそ。腹立たしいなんていう言葉では生ぬるい。 僕はイージーの長い髪に惚れた訳ではない。 けれど僕が初めてトロムソの寒い路地で見つけた彼は、薄汚れた酷い恰好で、そしてあまり綺麗ではないけれど目を引く長髪が印象的だった。シャワールームにつっこみ、しっかりと洗い上げた後には艶やかな黒髪になった。 毎日、彼の髪の毛を丁寧に梳いて結うのが、僕の楽しみの一つなのだ。 勿論僕は酷い我儘を喚いている自覚はある。勿論、ある。当然、ある。 イージーは何も僕に意地悪をするために髪の毛を切ったわけではない。単純に仕事に対して真面目であるが故だ。何事にも真剣に、素直に、ポジティブに向き合う彼の姿勢を僕は尊敬している。 それなのに僕ときたらたかが髪の毛の長さで怒鳴る程憤慨するなんて。まったく酷く心の狭い男だ。 そう反省はするものの、やはり顔も知らぬプロデューサーとやらに対する怒りは収まらずただただ、僕の心の狭さと己の我儘な感情に悲しみすら湧き出た。 僕は駄目だ。すぐにうだうだと、余計な事で悩んでしまう。本当は冬と夜が長いこんな国に住むべきではないのだろう。太陽ばかりが煩い南国にでも居を構えれば、少しは前向きに明るく少々いい加減に物事を処理できるのかもしれないが、生憎と僕はトロムソを愛しているので転居の予定もない。 オスロから帰って来たばかりのイージーをねぎらうべきだ。僕の勝手な憤慨に当惑させるべきではない。 やっとどうにか感情の端くらいは飲み込んだ僕は、息を吸って吐いてから若干冷たいイージーの手を取りソファーに招いた。 「……身体が冷えているじゃないか。そんな薄着できみは飛行機に乗ったの?」 「え。うん。いや、オスロはそれなりにあったかかったんだよ。春だしさ、ちょっと薄い服を、って思ったらこっちはやっぱりまだ寒いね」 「まだ一日の半分程は夜だから仕方がない。明るい夜の季節はあと三か月は後だ。……いきなり怒鳴ってしまってすまない。僕は相変わらずダメな人間だ」 「あなたが駄目な人間ならぼくなんて人間以下だよ。ぼくも正直切るのに勇気が必要だったし、実際ちょっとしっくりこなくて後悔してる。別に好き好んで伸ばしてたわけじゃないんだけど……ええと、髪型は大体マダムの趣味だったし、でもぼくはやっぱりあなたに髪の毛を梳いてもらうのが好きだったなって実感したらから次からはなるべくウィッグを提案してみる」 「……いや、よく見れば短い髪のイージーも麗しい」 取ってつけたような僕の言葉に、流石にイージーも苦笑いを零すがしかし、僕は嘘を吐いたつもりはない。 僕は彼の白い首筋を眺め、そして指先で軽く触れてからキスをした。 「無理しなくていいよーやっぱりぼくはちょっとだらしないくらい長い方がいいよねって自分でも思うもん」 「無理はしていない。僕は嘘が苦手だし不得意だ。長い方が好みだというのは事実だけど、白い首筋が目に眩しい。嫌いじゃない。というか首筋だけ見ればパーフェクトだ」 「……ぼくの髪の毛を梳くより、ぼくの首筋にキスする方が好み?」 「悩ましい質問をするもんじゃない。……おいで、冷たいきみをまずは暖めなくちゃならない」 「うはは。ジョゼは今日もあっついね。トロムソの春は寒いけど、あなたと一緒だったら寒さなんて感じないな」 ジョゼもオスロに来ればいいのに、と呟く唇をキスで塞ぎ、細い腰を抱き寄せる。春の寒さにすっかり冷えたイージーを抱きしめて、僕はうなじにキスを落とした。 「……頻繁に旅行をするほど僕は稼いじゃいないが、まあ、一年に一回程度なら店を離れても死なないとは思う。けれど僕はあれだ、僕と大いに解釈違いなプロデューサー殿に会ったら恐らく一発まず殴ると思うが」 「暴力は良くないと思う」 「それに関しては同意見だが残念ながら僕は大いに憤慨している」 「……そんなに? そんなにぼくの髪の毛好きだったの?」 「好きだよ。きみの全てが、僕にとって驚く程愛おしいんだ。麗しい髪の毛を五センチ切っただけでも腹立たしいというのにショートカットにするなんて、本当に解釈違いも甚だしいよ。きみの滑らかな首筋も堪らないが、僕はやっぱり流れるような髪の毛を括る姿がとても好きだ」 耳が痒いと笑うイージーを抱きしめ、もう一度さっぱりとしたうなじに軽いキスを落としてから僕は、オスロ行のフライトチケットの値段を思い浮かべた。 駄目な人間だ。それでもうだうだと悩むよりは、さっぱりと憤り口から出して感情を交換できればまだマシだと思えるようになった。まあ、どんなに僕が素直になろうが結局は駄目な人間であることに変わりはない。 駄目な人間だから僕は恋人を抱きあげて、午後の予定を全て放棄して三階の寝室へと向かう。彼を抱き上げる瞬間は、暇つぶしのウエイトトレーニングに心から感謝できる。 ベッドに下ろしたイージーは、恥ずかしそうにまだ昼だよと笑った。 「構うもんか。どうせもう少ししたら夜も明るい季節になる。昼とか夜とかそんなもの、トロムソでは気にしていたら疲れるだけだ。ああ、くそ……短い髪のきみも確かにかわいい。かわいくて腹が立つ」 「なにそれ、かわいい。ジョゼは今日もかわいいね」 「そんなことを言うのは世界中できみだけだよ」 腹立たしい気持ちは敢えて押さえず、僕は冷たい首筋に少しだけ歯を立てた。 短い春はまだ冷たい。来年の春には、イージーの髪も少しは伸びているだろうか。勿論短い髪の彼もかわいい、というのは、本心だけれど。 冷たい春の日に、駄目な僕は腹立たしい気持ちを込めて、白く冷たいうなじを齧った。 ああ、本当に、腹立たしいのにきみはかわいい。 End

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