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茶葉とミルクとショウガと砂糖(ラティーフ×ノル)

初めて飲みました、と笑う。 その涼やかな笑顔を眩しく思いながら私は甘い飲み物で喉を潤しカップを置いた。 「……本当に? イギリスにはチャイが存在しないのか?」 「そういうわけじゃないと思いますけど、僕ってほらなんていうか……食べるものとか飲むものとかに、あんまりこうー、興味っていうか拘りっていうか探求心がなくって、えーと」 「ああ。……そういえば珈琲と炭酸しか口にしないものな」 甘いものが好きではないのかと思っていたのだが、どうやら『喉を潤せるものならばとくに種類は拘らない』だけだったらしいと知り、相変わらず人生の大半を空の上に放り投げているんだなと苦笑した。 オリヴァー・グレイは基本的にはひどく多忙だ。 私もまあ、暇というわけではないのだが、基本的には国が運営している仕事に就いているわけで、まあ寝る間も惜しいという程ではない。せかせかと身の回りの雑用すべてをこなすイーハですら、休日は丸々一日ゆっくりと過ごしている。アブダビの公務員の生活というやつは優雅だ、と言われても否定はできないだろう。 それでも身近な貴族連中よりは多忙だ、と自負していたが……師に追随し世界各国を忙しく飛び回り食事の間ですら本と論文と語学雑誌を開くノルを見ていると、私の多忙など子供の遊びのようにすら思えてしまう。 とにかく、そう。相変わらずノルは忙しく宇宙に首ったけの生活をしているということだ。 久しぶりの逢瀬はアメリカで行われた。学会の合間に急遽三日ほど日程が空いたとぼやいたノルに、私の指示も言葉も表情さえもうかがわずにホテルと飛行機を手配したのは有能すぎて相変わらず気持ちの悪い秘書だった。まったくもって、イーハの強すぎる信頼と愛情には恐れ入る。 イーハはここのところ、『あなたはいい加減ノルに会って愛を囁くべきだ仕事のしすぎですよ顔色が悪い』と煩かった。ここぞとばかりに私をアブダビから追い出した秘書は、今頃イギリスのリトル・ヒューストンとのビデオ通話を満喫している事だろう。 イーハは無駄に私を愛しているらしいが、私もそれなりにあいつには幸せになってほしいと願っているのでお互い様だ。 ふた月ぶりに生身で会うことが叶った愛おしい顔に触れたい欲求をなんでもない顔で押し込め、涼しい部屋でチャイをすする。 本来ならば抱きしめてキスをするのが恋人の習わしなのだろう。しかし神に忠誠を誓った私は握手をしただけで、ノルも私に抱き着いたりはしなかった。 不便を強いている、と思う。けれど、私の宗教に配慮してくれる我慢強い恋人が、とても、とても愛おしくありがたいと思う。 通常の恋人たちが愛を確認しあう手順をすべて無視し、私とノルは距離を保って挨拶をかわし、久しく会う友人のようにテーブルについてお茶を飲んだ。 紅茶でも珈琲でも良かったのだが、たまたま、メニューの端にチャイを見つけただけだった。 私は不器用で、あまり気が利くタイプではない。 勤勉で博識でもっとスマートな男なら、ノルが喜びそうなメニューをすぐに予想しレストランを予約したものだが――と、考えてみたがすぐに頭を振って笑う事になる。 ノルが好きそうなもの、だなんて、宇宙以外には思い浮かばない。 珈琲も紅茶もミルクも炭酸もチャイも、おそらくノルにとってはどれも大差ないのだろう。このあたりの事を近状報告と供についうっかり口から零した私に対し、ノルはいささか珍しいふくれっ面を晒したものだ。 ……そんな顔をさせてしまった事は申し訳ないと思うが、普段お目にかかれない珍しい表情はなんというか、うん。……悪くない。 「えー、そんな、僕がチャイを楽しんでないみたいな言い方はよくないですよぅ! 確かに僕ってやつは宇宙とか宇宙人とかSETIとかMETIとか以外にぜんっぜん興味ないっていうか生きてることの大半は宇宙に行くためって誤解されちゃう生活してますけど! その自覚はありますけどー」 「違うのか? この前のNASAの発表の時なんか、二日くらいランチも朝食も忘れてはしゃいでいたじゃないか」 「いやだってアレは興奮するなって方が無理ですだって生命体が存在するかもしれない星が見つかったってとんでもないニュース……いや、いやいやいや、違う、違うんですよ今日の僕は宇宙の話はしない! ナシです! ナシって決めてるんですからね!」 「どうしてだ? 私は、君が語る宇宙の話がとても好きだけれど」 「うー……あなたは、いつも、ほんと、なんていうかー……そうやって、僕を、すぐに誑し込むのでよくないです。もっとこう、ビシッと叱って貰えないと僕は調子に乗ってしまうんですよ。折角久しぶりに会えたのに、僕が空の上の話ばっかりしてるなんて時間がもったいないじゃないですか」 「そうでもないさ。夢の話を聞くのは、とても楽しい」 勿論これは本心だ。 宇宙の話をしているときのノルは、驚くほど生き生きとしているし輝いている。毎日のエネルギーの大半を空の上の研究に費やしているのだ。私は彼に会わなければ、火星までの距離やその衛星の名前など知る由もなかった。愛おしいフォボスという名前の星も。一生知らずに過ごしただろう。 君の話が好きだよと再度、言葉にする。 ノルもイーハもよく喋る。リトル・ヒューストンの面々もよく喋る。彼らの言葉の渦の中にいると眩暈がしそうになるものだが、しかし学んだこともある。いくら心の中で強く願おうと慮ろうと、言葉にしなければ感情なんてものは伝わらないのだ、ということだ。 ここが私の国ならば、家ならば、神のひざ元ならば、もう少し言葉を慎んだかもしれない。 けれどイスラムの国ではないし……まあ、愛を囁いているわけではないのだからと言い訳をして、私は更に言葉を連ねた。 「久しぶりと言っても、暇を見つけては電話をくれるだろう。忙しいだろうに、私の事を少しでも頭の隅に置いてくれている事を、いつも嬉しく思う。声を聞いているだけでも私は幸福だ。君の、宇宙の話が好きなんだ」 「ラティーフ、あの……ストップ。ストップです、あの、その、出てます、なんていうかその、出てますってばなんかこうラブ的なものがすごく出てます……! あなたそんな、いくらここが、その、キリスト教圏内だからって、そんな、もう、そういうのよくないですよ僕が我慢できなくなっちゃうんですからね……!」 「いつも我慢を強いているんだ、たまには何も考えずに好きにしたらいい」 「……好きにしたらだってあなたが困っちゃう……」 「まあ、そうだな。困るだろうな。困るだろうが、私がただ困るだけだ。他は何も問題なんてない。犯罪でもない。倫理的な問題もない」 「でも、ラティーフは困る。あなたを困らせるのは嫌です。うーあーでもー好きですもう何なんですかさっきから君の話が好きだ宇宙の話が好きだ好きだってー……好きなのは僕の話だけですか? とか意地悪な事言いたくなるじゃないですか……」 「…………それは、あー……」 「いやいいですよ、あなたが困るの知ってて言った僕が悪いんです」 ずるずると、行儀悪くチャイをすする音がする。 ルームサービスのチャイはもうかなりぬるい。甘ったるい砂糖の味が心地よく舌に残る。ショウガの匂いが私は好きだ。香辛料はそこまで好まないが、この飲み物は割合好きだと思う。 ぬるくて甘いチャイを飲む。 私は息を吸い込んで、静かに吐いてから席を立つ。少し手を伸ばせばすぐに愛おしい青年の形のよい顎に手が届く。ショウガの匂いがするだろうか。それともお茶の匂いだろうか。そんな事を考えながら私はノルの唇を、己の口でゆるやかに塞いだ。 何度目だろうか。 まだ、数えるほどしかしたことのないキスを、ゆっくりと終えるとそこには、目を見開いてかわいそうなほど硬直したノルの顔がある。 「………………か、みさま……見てません……? だいじょうぶ……? あとで、あなた、悲しくなったりしない…………?」 「さあ、どうだろうな。三日後くらいにひどく反省するかもしれないが、とりあえず自分の気持ちに後悔なんてものはないさ。この国はとても人が多い。……少しくらいは雑踏に紛れてこそこそと、愛を囁いたって…………いや、ほんとうは、駄目なんだが、だが……たまにはいいだろう」 「どうしたんです? なんか悪いものでも食べた? チャイってもしかしてお酒入ってる?」 「入っていない。甘い飲み物は久しぶりに摂取したけどな。私の国は甘味が好きだが、私はそれほど口にしない」 「なるほど、甘いものを食べるとラティーフは甘くなるんですね。すごく参考になります。じゃあケーキも頼もう。今後お土産は甘いのにします。ていうか一回甘やかされると完全に自制が利かなくなります。これはすごく大事な確認なんですが、そのー……どこまで我儘言っていいんです?」 つまりそれは、どこまでなら私の神に怒られないか、という確認なのだろうが。 困ったように私を見上げるノルに、私も苦笑を落とす。正直なところ、私の神は全能だ。全能すぎて死角などない。故に、本来なら一つの我儘も許されない。 私の神は怒るだろう。私は反省するだろう。 だが、ノルが気にすることではない。普段は私に譲ってくれているのだから、彼がこれ以上無理に我慢する必要などないのだ。 私が応えられることならばなんでも。 そんな風に答えた私の口は、私の首を捉えたノルに再び塞がれてしまった。 「……甘い……チャイも甘いし今日のあなたは甘くて最高です……うー、チャイ最高、僕これから水分補給はチャイにしますね……ショウガ? 紅茶に牛乳にショウガでしたっけ? あとでググらなきゃ……」 「飲みすぎていい飲み物じゃないと思うが、まあ、チャイがうまいことだけは同意するよ」 「……抱きしめても怒らない? 困らない?」 「困るが怒らないし大歓迎だ」 「なにそれ、難しいなぁー……でも、あなたが怒らないっていうのは、信じてます。僕とあなたの恋愛のために、すいませんちょっとだけ困ってください」 正直なノルの言葉と、正直なノルの性格が好ましいと思う。 私もしばらくはチャイを飲むたびに、甘く柔らかい唇を思い出してしまうだろうが……そのたびに懺悔をする未来を差し置いても、腕の中の恋人が愛おしいと思う。 私は困るだろう。そして反省するだろう。ノルの美しいアラビア語のメールを読み、昼と夜と季節もずれた場所から届く宇宙の話に耳を傾けながら、チャイを飲んで反省しよう。そう決めたので、私は愛おしい身体を抱きしめ返して君が好きだよと声にした。 ほんの少しの休暇と逢瀬と、チャイと恋人の思い出ができた日だった。 終

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