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第24話 art gallery HARADA
電話は指導教授の加賀屋教授からかかってきたものだった。
淡島と同様、教授にも『昨日から電話してんだけど、どうして出ないんだ。頼みたい仕事があるのに』と苦情を言われて平謝り。しかも依頼主の元で教授が俺の到着を待っているということを聞いてしまえば、全身から血の気が引く。俺はなりふり構わずシュリのリムジンを足にして、超特急でその場所へと向かうことになった。都内の一等地にある有名画廊、『art gallery HARADA』へと。
「ユウマ、誰と会うんだ。僕は連れて行ってくれないのか?」
と、可愛く俺の腕にすがるティルナータには、大学の用事には連れていけないという事情を説明し、俺をナナメ上から見下ろしながら「ふんっ、初対面の相手を、しかも花仙組若頭の俺を足代わりに使うとは。どこまでも図々しいガキだ」と小言を言っているシュリにも一応「わりーな」とだけ謝罪の言葉を返しつつ、ギャラリーから少し離れた場所で車を停めてもらった。
俺がこんなに焦っているには理由がある。
教授からの電話をブッチしたことはもとより……『art galleryHARADA』のオーナー・原田正司 という人物が、美術界においてかなり扱いの難しい要注意人物であるという噂を、何度も耳にしていたからだ。
新進気鋭の若いアーティストたちを育てるギャラリストという仕事でも成果を上げている上、自身もアーティストとして名を馳せている超有名人なのだが、かなりの気難し屋で人の好き嫌いが激しく、一度嫌われると美術界で生きていくことが困難……とまで言われるような、影響力のある人物らしいのである。
加賀屋教授の用事ということは、絵画修復依頼に関する呼び出しであろう。ギャラリーで保有している美術品の修復をさせていただけるであろう絶好の機会だというのに、そんな有名人をお待たせしてしまった……となると、俺の未来は……。
「ユウマ、いつ帰ってくる?」
と、冷や汗を流しつつ身支度を整える俺を心配そうに見つめながら、ティルナータはそう尋ねてきた。
背中がじっとりと嫌な汗で濡れているというのに、ティルナータの可愛い表情を見ていると、なんだか妙に力が湧いてくるから不思議だ。焦りまくってドタバタしていた思考が落ち着きを取り戻し、心に余裕が生まれてくる。
「また連絡するから。シュリの携帯に電話する」
「おい、俺を勝手に伝言板扱いするな。貴様に呼び捨てにされる筋合いは、」
「ティルも、いろいろこいつに聞きたいことがあるって言ってたろ?」
「あぁ、そうだが……。日暮れまでには戻るか?」
「うん、大丈夫だと思う。何かあったら、すぐに連絡するから」
「わかった……」
「と言うわけだからさ」
俺は袖にすがるティルナータの肩を抱きしめながら、シュリの方を見た。ティルナータに頼られると、どうも俺には勇気が湧いてくるらしい。ヤクザの若頭だろうがなんだろうか、シュリにはどうしても言っておかねばならないことがある。
「おい、勝手にティルナータを連れて帰るんじゃねーぞ」
「……ふん、分かっている。それに、今の俺には地位がある。面倒を見ている若いのもたくさんいるからな。ある程度は、身辺整理をしなければならない」
「ならいいんだけど。……俺たちにも、時間が必要だ」
「……」
ティルナータは、物言いたげな目線で俺を見上げつつも、その時は何も言わなかった。無言で、ぎゅっと俺の手を握っている。
「それに、貴様がいない方が、いろいろと話しやすい。……俺たちには、大事な話があるのだ」
「大事な話?」
「いいからとっとと行け。俺の携帯に連絡することを許可してやる」
「……わかった」
「ユウマ。待ってるぞ」
そっと、ティルナータの指が離れていく。不安げな顔をしているティルナータにキスしたかったけど、追い立てられるように車から降ろされてしまい、それは叶わなかった。
と言うか多分、キスしたかったのは、むしろ俺が不安だったからからだろう。
ティルナータが元の世界に帰ること、それは、彼の望みだった。それが実現する。喜ばしいことだ。
でも今は、素直に喜べるはずがない。俺たちの間にはもう、確固たる絆が生まれている……。
今夜、ちゃんと話合おう……。
俺は走り去る黒いリムジンを見送りながら、気を取り直すように頬をバシバシと叩き、目的地へと向かった。
+ +
「遅くなって、大変申し訳ありませんでした!!」
優しげな顔立ちをしたスーツ姿の男性に応接室に通された俺は、ドアが開くなりガバリと頭を下げて、ほぼ180度身体を折りまげて謝った。
ソファに腰掛けていた加賀谷教授と原田正司氏の視線を頭頂部に感じながらお怒りの言葉を待っていると、意外にも穏やかな声が降ってくる。
「君が加賀谷のとこの学生か。まぁ、堅苦しいのはいい。座ってくれ」
「え、あ、はい……」
耳触りのいい低い声は、思いの外優しい響きを持っていた。恐る恐る顔を上げると、何度も美術雑誌で見たことのある原田正司の顔が、すぐそこにあった。
――……うわ、本物だ。すっげ……かっこいい。写真で見るより若いんだな。もう四十過ぎてるはずなのに……。
少し前に見た美術雑誌では、この人は長く伸ばした髪にきついパーマをあてていて、いかにも芸術家然としていたものだった。でも、今の原田正司氏はこざっぱりとした黒髪短髪で、えらくすっきりした印象に変化している。凛々しく整った目鼻立ちはいかにも理知的で隙がなく、すらりとした上背はモデルのようにバランスがいい。向かいで短い足組んでる額 拡張中の加賀屋教授とは、大違いだぜ……。
ついつい有名人に見惚れてぼんやりしていると、書面を見つめていた原田氏の切れ長の目が、すうっとこっちを見た。
「君は洋画の絵画修復が得意だと聞いたのだが、どうだ?」
「はっ、はい!! いっぱい、勉強しています!!」
「そうか。art aliveでも修行しているんだって?」
「はい!! お世話になっています!!」
「時田、緊張しすぎだよ。アホに見えるぞ」
隣に座る加賀屋教授にべしっと膝を叩かれた。それを見て、原田氏が薄く微笑んでいる。すごく意外だ……もっと、とっつきにくそうな人だと思っていたのに。
「原田はな、僕の大学時代の同期なんだよ。そんなに堅くならなくてもいいって」
「ど、同期、っすか。へぇ……」
「生え際を見比べるな馬鹿もの!! さ、とにかく現物を見せてくれ」
べしっと今度は背中を叩かれた。すると原田氏はまた小さく笑って、応接室のドアのそばに控えているさっきのスーツの人に「宝来、鍵を」と声をかけた。秘書か何かかな。
「君に修復を頼みたいのは、一枚の洋画だ。サイズは五十号(116.7cm×80.3cm)で、油彩。とある国の戦場を描いた風景画で、損傷が激しい部分がある」
「五十号……大きいですね。いつ頃の時代のものですか?」
「古いものじゃないんだ。描かれたのは、ほんの十年ほど前。作者は砺波 春明という画家だ。……彼も、我々の同期だった」
「えっ、そうなんですか。……すみません、その人の名前、聞いたことないです……」
「無理もない。彼は高校で美術教師をしていたからな、大きな賞などにはほとんど応募したこともなかったらしい」
オフィスの奥にあるという作品保管庫へ向かいながら、原田氏は淡々とした口調でそんなことを語った。加賀屋教授は俺の後ろで、俺の様子をじっと観察しているようだ。バイト先で顧客と話をすることもあったから、こういう場には慣れているつもりだが、背後に指導教官がいるかと思うと、やっぱり少し緊張する。
白い壁、白い廊下、薄暗い電球。靴音が高く響く細い廊下を歩きながら、俺は前をゆく原田氏の背中に向かってさらに尋ねた。
「損傷が激しいというのは、どのような?」
「いくつか、パレットナイフで斬りつけた痕がある。それをやったのは、作者自身だがね」
「作者が……? ノイローゼにでもなってたんですか?」
俺の問いかけに、原田氏はしばし沈黙した。聞いてはならないことを尋ねてしまったのだろうか……と、俺は背筋が冷えるような思いをしながら、原田氏の返事を待った。
すると原田氏は、重々しい口調で、こんなことを言った。
「そうだな……今思えば、きっとそうだったんだろう。十年ほど前、突然砺波の行方が分からなくなった時期があったんだ。真面目に仕事をしていたのに、急にいなくなってしまったと彼のご家族は言っていた。すぐに捜索願いを出して行方を捜していたのだが……」
「行方不明……?」
「ああ。そしてその三年後に、砺波はふらりと帰ってきた。健康状態などには問題はなかったらしいのだが……砺波はひどく情緒不安定になっていたようだ。穏やかだったあいつの様子がおかしくなったのは、その頃からだな。『ここは自分の居場所じゃない』『あの国へ戻りたい』『この世界は偽物だ』と涙ながらに訴えて仕事や家族を拒絶し、アトリエに引きこもって絵ばかり描いていたらしい」
「あの国……?」
「どこの国かは分からない。ただ砺波は……『俺は異世界へ召されていたのだ』と、言っていた」
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