自創作セルフ感想 ハピエンと愛について

※話まとまってない気がしてきました(青褪め)

 

 短編ファンタジーBLの4作目「家畜に芳名を捧げる」と、その続編であるとはこの文章以外では明言していない「暮れどメリッサの幻」を書いている時、わたくしはヴィクトル・ユーゴ―作「ノートル=ダム・ド・パリ」を読んでいました。某D映画でも製作されていた「ノートルダムの鐘」の原作です。その映画とは設定が変更され、キャラクターも大きく改変され、展開も大きく異なるどころではな違っています。

 多少ネタバレになってしまうのですが「ノートル=ダム・ド・パリ」は醜い青年と聖職者ゆえに禁欲的な中年が踊り子の娘に恋をし、滅びる話です。この話が2018年2月にNHKで取り上げられ、とある芸人は「自分なりの愛を貫けたのだからハッピーエンド」的なコメントをしたそうです。その番組を観ていなかったのでニュアンスや正確な意図は分からずじまいなのですが、大体そういったハッピーエンドという解釈をしたそうです。わたくしはなるほどな、と思いました。ハッピーエンドかバッドエンドかと括るのがわたくしはあまり好きではないのですが、原作ではおそらくバッドエンドの括りだと思っていました。何故なら醜い青年の死の描写があり、聖職者の中年は転落させられ原型を留めず死に、踊り子の娘も刑死してしまうからです。そして醜い青年もそれを嘆いて終わるからです。わたくしがハッピーエンドかバッドエンドかを一言で括るのを躊躇う理由は、その一言で片付けると自分の中での解釈がストップしてしまい、頭の中での二次創作的な妄想が潰えるからです。ストーリーが終わればある種キャラクターたちは死を迎えるのでしょうか。発信者の中でそうだとしても受信者の中では時系列を越えてまだ生きていると考えています。とすればまだ死んで終わりでもしない限り、彼等彼女等の中に不幸が訪れるかもしれない。またそれを通り越して幸せというかなり抽象的な状態に陥れるかも知れない。そのような可能性がある中で、一言で片付けたくなかったのです。かといって死んでしまったらそこで終わりともわたくしの死生観では考えているのです。天国で幸せに、幽霊となって見守るだのという発想がまず無い。あったにせよそれは手前の中の整合性を保ち、気が狂ってまでも己の肉体だけは自ら絶たぬようにとした自衛の、妄想とも現実とも判別のつかない状況にあるように思えてしまうのですわ。

 この話を過程から「ハッピーエンド」と解釈したのはわたくしの中で新しかったのです。そして、「愛」と「ハッピーエンド」は同じ尺の上の話なのではないかと…つまり「愛」があればどのような終わりかたをしても「ハッピーエンド」と読み取れるのではなかろうかと。わたくしは「過程」+「終わり方」の合計で精神的に算出されたものではなく、「ハッピーエンド」を終わり部分の切り取りだけで括っている見方をしていたことに気付いたのです。

 前置きがやたらと長くなりましたが、「家畜に芳名を捧げる」は書いた自分自身でもハッピーエンドからバッドエンドか括らないにせよ、どちらと捉えられがちなのか全く見当がつかない終わり方をしました。

 ざっとあらすじを説明すると、国の生贄となる少年・クレイズが役人・エミスフィロのもとに引き取られ、自分の死と向き合わされる話なのですが、その役人・エミスフィロは彼なりに生贄となる少年に情を注いでしまいます。それが空回りであるのか否かも分かりません。あえて「情を注いでしまう」という書き方をしたのですが、あまり「愛」という曖昧すぎた言葉を使うとどこか薄ら寒く、これは「愛」なのかと自分でも疑問視してしまい、「情を注ぐ」という行為よりもこれは愛なのか…?と思ってしまうからです。「愛」というものは受けた側の喜びと、与えた側の満足はきっと両立しないのだと思いはじめました。それがエゴとなり空回るということなのだと。だから片一方が「幸せだった」「十分に愛情を注いだ」つもりでいても、受けた側が必ず喜び、都合の良い方に傾くとは限らないのだと。

 結局その生贄の少年は予定通りに生贄となります。その間に役人はあれこれとするのですが、役人は彼なりに生贄の少年へ「愛」というか「情を注げた」という点について、この役人だけに至ってはハッピーエンドの傾向ではあるまいかと思い始めたのです。さらに生贄の少年は役人に「情を注がれた」結果、一種洗脳状態に陥り生贄に自ら喜びを見出します。つまり喜びに満ちて生贄となり息絶えたということになります。これもハッピーエンドといえばハッピーエンドと括れるのでしょうか。とはいえ、続編とは明言していない続編「暮れどメリッサの幻」に於いて元・役人は懺悔らしきことを口にします。ハッピーエンドかバッドエンドか、やはり推し測れませんでした。「解釈によって明るい話ではない」と表記するのがやっとでした。

 わたくしは「愛」だの「恋」だのを曖昧にぼかすくせ、向けられたなら伝わるはずで、伝わらなければエゴだと思っていたのです。「伝えられ方」には全く瞑目していた。片一方だけに「愛」が成り立つなどとは微塵も思っていなかったのです。ストーカーやイタいファンや勘違いした強姦魔がまたわたくしの見ている側面とは別のところに、あるいは暗黙的に身近に跋扈しているだろう社会に身を置いているにも関わらず。「愛」とは結果論だと思いました。理想を抱いていたのです。ハードルを上げていたのです。だから自分の中でおそらくは向けるも向けられるも「愛」だったものも全て気付かずにいたのです。相手が正しく肯定的に明確に受け取らねば「愛」ではないと思っていたのです。つまり「愛」とは部外者にしか分かり得ず、そして部外者が一言で片付けたものだと思っていた。

 「歪んだ愛」などというのが例なのかな、と思います。「歪んだ愛」とは何なのかと。「愛」は歪んでいないものなのかと。「歪んだ愛」、受け取った側は悪意や敵意と受け取りませんか。「2人だけの純愛」というこれまた漠然としたものかも分かりません。受け取った側が好意的に解釈した場合は「歪んでいない愛」になるのでしょうか。「歪んだ愛」が「愛」であるならば「レイプ」は「セックス」なのだろうか。「性交」というとそこに感情面が反映されていない感がありますが、わたくしのニュアンスでいうと「セックス」には合意の色が強くあります。これはあくまでわたくしの個人的な解釈の話でありますが。

 

 3作目「アポストロフィーに頬擦り」では主人公・ノールは軍人から捕虜になった相手役を奴隷にします。2人は生きたまま結ばれなかったけれど、ノールなりに相手役の境遇だの背景だのを考えた上で決断した終わり方だったのかな、と思うのです。触れ合い、キスという唾液交換で相手との遺伝子の相性を測る繁殖の延長の行為、未だに疑問しかない「相手との愛を確かめるため」のセックス、愛してるだの好きだのという言葉で表さずとも、自分よりも相手を優先しつつ時に相手を自分より優先したがために結果相手を傷付けてしまう可能性も忖度した上で行動することこそ「愛」だったと思ってもいるのです。

 「愛してる」「好きだよ」を口にしまくっていると、自己暗示に耽っているような気がするのです。「言霊(ことだま)」というオカルト的な思想の応用ともいいますか。それだから軽く聞こえてしまう。でもこれを口にすることが愛するということなのでしょうか。その言葉だけを欲して、極論、好きでもない人に抱かれ抱き、輪姦されることも五体バラされることも厭わないのでしょうか。この探求と試行錯誤は続くと思います。おそらく「愛」というものはひとつのカタチはしていないのでしょう。おそらく軽重もなく、或いは0か1かもしれない。100%、120%都合よく生易しく、柔和で甘美なものではないのでしょう。そしてそのために、ハッピーエンドも多様にあり、バッドエンドも多様にあり、メリーバッドエンドなるものがあるように、登場人物誰も喜びはしないハッピーエンドがあるのかも知れません。