「言葉の迷宮」と「定量制」

フォロワーさんがお話しされていて、触発されて急に思いだしたことがあるので書きます。

歌人、穂村弘さんのエッセイ集『整形前夜』に収録されている「言葉の迷宮(低次元バージョン)」。

 

自分の使っている語彙に「今のこの時代に合っていない古さ」があるのではないかという話。

 

「言葉の迷宮(低次元バージョン)には、低次元だからこその困難さがある。モノの呼び名を「現在の正しさ」に合わせる必要はない、自分の語彙を堂々と使えばよい、という考えた方は確かに理解できる。しかし、「自分の語彙」のなかに既に時限式の爆弾が埋まっていることもあるのだ。時代に固有の恥ずかしいバイアスというのが」

 

穂村さんは例として、温かい珈琲の呼び方「ブレンド」をあげています。

 

「本などを読んでいるとき、言葉の迷宮(高次元バージョン)における優れた才能の持ち主が、言葉の迷宮(低次元バージョン)で思わぬ地雷を踏んでいる姿を見ることがあって、あー、と思うのだ」

 

穂村さんも原稿を書くとき「言葉の迷宮(低次元バージョン)」に入って苦悩していました。

わたしも文章を書くとき、このモノをなんて呼べばいいの? というときがけっこういつもあります。それは、「あー」ってなるなあ。

悩みの種です。

(毎回ネットでモノの名前を検索している……)

 

それから、ドキドキするのが同じ本に収録のエッセイ「定量制」。

 

「体のなかに一定量の花粉が溜まると花粉症になる、と教えられた。だから昨日までなんともなくても、或る日を境に突然花粉症の仲間入りをすることがあるのだという。その「一定量」は、ひとによって違っているらしい。こわいなと思いつつ、本についても似たようなことがあるんじゃないか、と妙な連想をする」

 

「熱中していた作家について、あ、なんか、このひとの本はもういいかも、と感じる瞬間がある。作品がつまらなくなったというならわかるのだが、相変わらず面白いけど、でも、なんか、もういいかも、と思ってしまうところが不思議だ。自分がそう思われるところを想像するとおそろしい」

 

おそろしい……。

そして、もういいかな、と思って読むのをやめた作家がいるという話、わたしにも心当たりがあります。

 

穂村さんは「逆にジャンルの扉が開くこともある」と書いて、今まで興味がなかった写真集が気になるようになった、と言っていました。

 

新しいジャンルが開くこともあるし、今まで読んでくれていたひとが読まなくなるかわりに、新しく読みはじめてくれる人もいます。

ずっとつきあってくれている人もいて、うれしい。

思いだしたときにまた読みはじめて、やっぱいいな、と思うこともあるでしょう(再燃というやつ?)。

そんなことがもしあれば、読んでいるほうも読んでもらうほうも、うれしい。

読み手そして書き手として、思うのです。

 

うむうむ、と思いながら読みました。

ちなみにわたしはこの、穂村弘さんのエッセイに強い影響を受けています。

穂村さんのエッセイを読んで、フィリップ・マーロウを読み、大島弓子さんの漫画を読み、ザ・ブルーハーツを聴きました。

 

他に収録されているエッセイは、「生き延びる」ためのこの世界に逆の次元からの使者を見る「裏返しの宝石」、逸脱者こそが報われる、大島作品について書いた「逸脱者の夢」、江戸川乱歩が描く”運命の二人”について書いた「来れ好敵手」、そして「共感と驚異」など。

穂村さんのエッセイは、なんだか少ししんどいときに読みたくなるのです。

他にもトマトジュースの思い出や、古本についた「シガレット香」の話、外出するときにはどんな本を持っていくのが最適か? と悩む話など。

穂村さんのエッセイは、愉しく、むむむ……と読めて、ちょっと胸が熱くなる。

そして表現者とはなにか? という問いを日常に読みこみながら、夢見る視点でも語ってくれるのです。